立ち上がった彼女は、本棚から何かを取りテーブルに置いた。黒塗りの双眼鏡だ。ベランダを指差して、曖昧な笑みで言う。
「そこから外に出て、真っ直ぐ双眼鏡で見てみて」
僕は、訝しむように彼女を見上げた。しかし、表情は一向に変わらない。まるで、イタズラを楽しむ子供のようだ。一度、見せるように大儀そうな吐息をつき、彼女の指先をちらりと見た。
「ベランダまであるのか……」
いよいよもって賃貸を借りる際の思慮の甘さを呪いたくなる。僕は、腰をあげてベランダに出た。沈むような夜の街、春先とはいえ、まだ肌寒い。豁然と開けた眼界、少し遠くに見えるのは、今日の昼間に訪れた秋葉原だ。夜も耽ると、明かりは疎らにしか点いていなかったが、ここまで見えるというのは流石と言う他にない。
気持ちを切り替え、僕の背後で尻を叩くような眼差しで急かす彼女に振り返った。
「このまま、真っ直ぐで良いか?」
「うん、多分、見える筈だから」
多分とはどういう意味だろうか。
またしても曖昧模糊とした表現だ。渋々と僕は双眼鏡を両目に当てた。レンズ越しに見える夜景は、誰かが作り上げたジオラマのような印象を受けるから不思議な気分だった。彼女は僕の隣に立ち、双眼鏡を固定するように持った。
「ここだよ」
ゆらゆらとぶれていた焦点が定まった瞬間、僕は短い悲鳴をあげて双眼鏡を手から落としてしまった。高いのに、と悪態をつきながら、拾う彼女に訥々とした口調で訊いた。
「あれは……一体……」
身の毛がよだった僕は、部屋の中に後ずさった。彼女は、しれっとした態度で返す。
「あの人はね……あたしのストーカーかな」
そう、僕がレンズ越しに見た光景は、三井記念病院を目印に清洲橋通りに面しているのか、詳しくは分からないがその近所だろう。しかし、あの辺りは家賃が十万近い賃貸がゴロゴロしている。オートロック式の洒落た外観だ。その三階だろう。そこから、男がベランダから望遠鏡のような筒越しにこちらを眺めていた。レンズ越しとはいえ、悪寒が僕の全身を駆け巡った。
「け……警察には……?」
「言ってないよ。警察は何かあってからじゃないと動かないしね。知ってる顔だし」
「……知ってる?」
「そう、知ってる人だよ。多分、あなたもね」
訳がわからなくなってきた。僕が知らないだけかもしれないが、数少ない友人の中で、遠くから望遠鏡を構えて女性の部屋を覗く悪趣味な輩はいないと思う。となると、僕と彼女の共通は、一つしかない。
「まさか……」
僕の悟ったような呟きに、教師が答え合わせをするような厳しい口調で被せた。
「そう、あたしが働いているメイド喫茶にくる常連さん」
空いた口が塞がらないとは、正にこの事だ。
ね……眠いw