この世で一番綺麗なものはなんだろう。この世で一番汚いものはなんだろう。そんな事を考えた事がある人はまずいないと思う。
僕だってそうだ。興味がない。更にいうなら、知っていたとしても意味がない。そんなのは、世界のどこかにいる偉い人に任せておけば良いんだ。
僕らは、日々の暮らしを守るだけで精一杯な人間なのだから。
福原均という男は、僕らにとってそんな意味のないことの答えを出した男だった。勿論、自分なりの解釈だが、福原が言った事に、僕は言い返すことすら出来なくなっていたのだから。
※※※ ※※※
あの雨の日、僕の自宅では彼女と福原が肩を並べて座っていた。それはとても不思議な景色として僕の視界を埋めている。僕が福原に路上で殴られた時とは真逆な静謐とした空間には、外で降る雨音だけが響いていた。
熱くなった頬は、腫れが目立ってきている。ベッドに座っていた彼女が指さした。
「冷やした方が良いよ。明日も仕事あるんでしょ?」
「……ああ、そうするよ」
立ち上がる時、僕は福原を一目見たが、あまり動じてはいない。随分と、図太い神経を持っているようだ。冷蔵庫から氷嚢を出し、熱をもつ箇所へ当てた。
「そういえば、ずっと濡れっぱなしだよな。シャワーでも浴びる?」
「良いの?」
「……何が?」
僕の返しに、彼女が横目で福原を一瞥した。ああ、そういう意味かと納得して首を縦に動かした。
福原と二人っきりになれば、また、襲われるかもしれない。彼女はそう危惧しているみたいだが、何故か僕は、福原が取り乱してしまう映像を想像出来なかった。
僕が静かに首肯すると、浴室に歩き出した。ここで何も言わないのは、彼女の優しさなのかもしれない。狭いワンルームに二人、シャワーの音が聞こえだすと同時に、福原がぽつりと言った。
「……悪かった」
それは、本当に小さな謝罪だ。部屋に飾った風鈴よりも小さな声だったけど、確かに聞こえた。
「良いよ、ああするのは当然の事だと僕も思う。その代わりって訳でもないけど、僕も一つ聞いて良いか?」
福原が、少しだけ間を空けて頷くのを確認してから、僕は訊いた。
「……本当に彼女が好きで、あんな事をしてたのか?」
ビクリ、と身体が揺れた福原は、目を剥いて顔を上げた。僕の疑問が解消された瞬間でもある。
僕は、立ち上がってベランダに出てから、煙草に火を点けた。こうすれば、シャワーと雨音が重なり、彼女には聞こえないだろう。
「知らない人から殴られるのは、僕も初めてだったから勘違いかもしれない。だけど、君からは君だけの怒りしか伝わってこなかった」
僕は、彼女がまだ出てくるまで時間の余裕があるかを音だけで判断しながら続ける。
「君が彼女に言ったのもそうだ。彼女の名前や気遣いもなかった」
福原は、上げていた顔を俯かせ、まるで水音から僕の声を掬い上げるように黙ったまま、僕の話しに耳を傾けていた。弁論がない沈黙は肯定と同じだ。僕は、もう一度だけ、今度は核心を突くように語尾を厳しく下げた。
「君は、本当に彼女が好きなのか?」
第3章はじまります