魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
その世界はまるで死んだように白かった。
世界を白で染め上げる大雪が、神聖ドラグノフ帝国の北端に位置する離宮を埋め尽くそうとする。
否、訂正。それは離宮とは名ばかりの冷たい石造りの牢獄であった。
そんな牢獄の石床に敷かれた薄汚れた絨毯の上で、一人の少女が膝を抱えて震えている。
腰に届くほどの銀の髪。宝石のように綺麗な赤い瞳。そして透き通るような肌――その全てが薄汚れていた。
元は美しい少女だったのだろう。だがこの長きにわたる牢獄生活で、すっかり輝きが失われていた。
少女の名前はフレイヤ・フォン・ローゼンブルク
その長い名の通り皇族である。
本来であればな暖かな宮殿でお菓子でも食べているのが似つかわしい少女であるのに、窓から吹雪が入ってくる石の牢獄でただ一人。
窓の外で吹き荒れる風の音だけが、フレイヤの鼓膜を叩いていた。
だがフレイヤを苛むのはこの骨まで凍るような寒気ではない。どこまでも貪欲に求めてくるような飢餓だった。
「……う、ぅ……腹が、減った」
フレイヤの喉から、掠れた嗚咽が漏れる。
最後に食事が運ばれてきたのはもう三日も前のことだ。配膳係の兵士は、小窓から硬いパンと水の入った袋を投げ入れ、逃げるように去っていった。
誰もフレイヤに近づこうとはしない。誰もフレイヤと目を合わせようとはしない。
だがそれも無理もないことだ。フレイヤは、この帝国において「忌み子」と呼ばれる子なのだから。最初は触れれば死ぬ。近づけば呪われる。そう囁かれ、フレイヤはこの塔に捨て置かれた。
(わらわは、このまま死ぬのか……?)
フレイヤの意識が霞む。
父である皇帝さえも、フレイヤの死を望んでいる。世界中の誰も、フレイヤが生きて明日を迎えることなど願っていない。
それはフレイヤの持つ呪いが、出産と共に母を殺してしまったときから始まったのだろう。
間違っても自分の意思で行ったことではないのに、暴走する呪いのせいでフレイヤの人生は間違え続けた。
己の呪いを恨んだ回数は数えきれない。だが呪いが消えることはなく、こうしてフレイヤは地獄へ落ちる。
フレイヤの視界が黒く塗りつぶされようとした、その時だった。
ガタガタッ、と窓枠が激しく鳴った――
「な、なん、じゃ?」
風の音ではない。何者かが、外から凍りついた窓をこじ開けようとしている音だ。
錆びついた鉄が悲鳴を上げ、窓が勢いよく弾け飛ぶ。猛烈な吹雪と共に、小さな人影が部屋の中へと転がり込んできた。
「……っ、てぇ。クソッ、なんて高さだよ」
雪まみれになって起き上がったのは、ボロボロの防寒着を着た少年だった。
「誰、じゃ?」
そう呟くが、その者の姿には見覚えがあった。確かこの離宮の手入れを任された庭師の息子だ。
フレイヤとは一度も言葉を交わしたことがなく、いつも庭の隅からフレイヤのことをじっと見ていた少年。
「……何をしに来た貴様。死にたいのか」
「第一声がそれか。もっと歓迎してくれよ」
「…………うせよ、小童」
フレイヤは、残った力の全てを振り絞って威嚇した。
このようにいきなり入ってくる者は、フレイヤの記憶では暗殺者しかいない。もし襲ってくるなら、母と同じように殺してしまおうと獰猛に歯を見せる。
「お前も小童だろ」
「っ!?」
だが威嚇されようと少年は怯えるどころか、フレイヤの言葉など聞こえていないかのようにズカズカと歩み寄ってきた。
そして少年はフレイヤの目の前で乱暴に膝をつくと、懐から園芸用の小さなナイフを取り出し、躊躇うことなく自身の人差し指を切りつける。
「な、何をしておる!?」
「飲めよ」
「っ……?」
「お前は人間の命? を吸って生きてるんだろ。こうすれば、良いのか?」
少年がそう短く告げた。
ポタ、ポタ、と。少年の指先から赤い雫が垂れ、石床に鮮やかな染みを作っていく。
その甘美な命の匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、フレイヤの理性が弾け飛んだ。
「……ご飯っ!」
「うおっ!?」
フレイヤは獣のように少年に飛びついた。
少年の手を両手で強く掴み、傷ついた指を口の中に放り込む。
ちゅぅ、ずずず、と下品な水音が響いた。
「美味いっ……」
それは凍え切っていたフレイヤの身体の芯に、熱い熱いスープが流し込まれていくようだった。その血は単なる血液の味ではなかった。それは少年の命そのものの味だ。
甘くて、濃くて、優しくて――涙が出るほど美味な味。
「……痛く、ないのか貴様?」
「痛ぇよ、馬鹿。……けど、お前が死ぬよりマシだろ。同い年の女の子が死にかけてて、見捨てられるほど人間やめてないんだよ」
「わらわは忌み子じゃぞ。みんな、わらわが死ぬことを望んでおる!」
「少なくとも俺は望んでない。そんな寝覚めの悪いことはな!」
少年のぶっきらぼうな言葉。
けれど、その瞳に宿る光は、今までフレイヤに向けられてきた恐怖や嫌悪とは決定的に違っていた。
「貴様は……」
初めて、フレイヤを見てくれる人間が現れた。
初めて、フレイヤに生きていていいと言ってくれる熱があった。
その熱に、フレイヤの心は初めて温かくなるような、そんな高鳴りが生まれる。
「……足りぬ」
フレイヤの喉が鳴った。
今心に抱いたこの思いが何かはわからない。だからこの飢餓を満たすように、少年へと襲い掛かる。指先だけでは満たされない。もっと欲しい。
この温もりの全てを、少年という存在の全てを、フレイヤの中に閉じ込めたい。
フレイヤは少年の胸を押し、床へと押し倒した。
抵抗はなかった。少年は雪の積もった絨毯の上に仰向けになり、覚悟を決めたように自身の首を晒した。
「加減しろよ。……まあ俺は簡単には死んでやらねぇけどな」
フレイヤは答えなかった。
答える代わりに、少年の無防備な首筋に、そっと唇を寄せた。
ドクン、ドクンと脈打つ血管の音が、フレイヤを誘っている。
フレイヤは口を大きく開け、柔らかい皮膚に幼い牙を突き立てた。
ガブリ、と肉を食む感触。
奔流のような生命力が、フレイヤの喉へと流れ込んでくる。
「あ、ぐぅッ……!」
少年が苦悶の声を漏らし、フレイヤの背中に爪を立てる。
その痛みすら愛おしかった。
フレイヤと少年は吹雪の吹き込む牢獄の中で、互いの体温を分け合うように、傷つけ合いながら一つになった。
それは誰からも愛されなかったフレイヤが、初めて愛を知った瞬間。
温かくて、ドロドロとしたものがフレイヤの胸の内に燃え上がっていた。
そんなフレイヤを見ながら、少年は息を吐く。
これでよかったのかはわからない。人を呪い殺すフレイヤは、このまま死ぬべきだと少年以外の全員が言うだろう。
それに逆らって、救済してしまって良かったのか。
「美味い、美味いぞ。貴様、名を何という?」
「……アレク。ただの庭師見習いだよ」
「ほう……」
少年、アレクがそう言えばフレイヤはにこやかにほほ笑む。
その笑みは、幼くもまるで傾国を予見させるほどに美しかった。
「ふふん。覚えておくぞ、アレク!」
そしてその笑顔を見た瞬間、アレクは救済してよかったと、そう思った。
これが二人の最初の出会いだ。
いずれ最悪の女帝、あるいは魔王と呼ばれたフレイヤと、いずれ勇者と呼ばれるアレクの始まり。
勇者が魔王を救済してしまった、捻じれたストーリーの始まりだった。