魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
女帝の即位から十年の月日が経ち──神聖ドラグノフ帝国に、春は来ない。
かつては四季があったこの国であるが、最悪の女帝が即位してから四季が消えた。
いや、消えたというと語弊があるだろう。
四季はちゃんとそこに存在しているが、人々の心が死んでいるから、まるで一年中冬が来ているように暗いのだ。
そんな帝都で迎える朝。
世界で最も豪奢な寝室で、女帝フレイヤ・フォン・ローゼンブルクは目を覚ました。
「…………」
天蓋付きの巨大なベッド。最高級の絹のシーツ。部屋を埋め尽くす宝石や調度品。
すべてが一流であり、すべてがフレイヤのために集められたものだ。
だがフレイヤが目覚めて最初に感じるのは、決まって寒さだった。
胸の真ん中に、見えない風穴が開いている。
そこをヒュウヒュウと風が吹き抜け、体温を奪っていく。どれだけ厚着をしても、どれだけ暖炉を焚いても、この内側からの悪寒だけは消えない。
かつて牢獄で暮らしていた時よりも寒い。いや、あの時が一番暖かかったか。どれだけ体が冷たくても、心はとても温かかった
それは誰かと共にいたからだ。
「ふぁ……ん」
フレイヤは小さな欠伸と共に上半身を起こした。
そして長い銀髪がさらりと流れる。
立ち上がり、ドレッサーの前へ行くと鏡に映る自分を見る。二十四歳になった自分の顔は、かつての面影を残しながらも、まるで精巧に作られた磁器人形のように生気がなかった。
美しい。この大陸の誰よりも美しい自信がある。この豊かに実った大きな胸も、絹のような銀髪も、全てが最高級である自負がある。
「アレク……」
されどこの体を堪能してほしかった男はもういない。故にふっと息を吐き、チリーンとベルを鳴らした。
直後、待機していたメイドたちが音もなく入室してきた。
彼女たちは一様に顔面蒼白で、決してフレイヤと目を合わせようとしない。視線を足元に落とし、震える手で命令を待っている。
「着替えじゃ。今日は赤の気分よ」
「「「はっ!」」」
フレイヤの端的な命令を受けたメイド達は、速やかに動き出す。
その手際は完璧であり、彼女たちが一流である証明だ。文字通り生き残ってきたメイドというのは、全員優秀だった。
もし少しでも粗相を犯せば、その瞬間命を吸われて死んでしまう。だからメイド達は必死なのだ。
しかし今日は楽な業務だった。いつもであればフレイヤの
「陛下。今日は髪型をどのようにいたしますか?」
「ふむ……可愛く編め」
「承知いたしました」
恐怖に支配されたメイドとの朝支度を終えると、朝食の時間となった。メイドを引き連れ、食堂へ向かう長い廊下をフレイヤは歩く。
すれ違う兵士や文官たちは、フレイヤの姿を認めると蜘蛛の子を散らすように壁際にへばりつき、深く頭を下げる。
敬意ではない。捕食者に睨まれた小動物の反応だ。
そしてたどり着いた食堂には長いテーブルがあり、その上座にフレイヤは腰を下ろした。
皿の上には、料理はない。
そこには手錠をされた幾人もの人間と、給仕長、そして見張りの兵がいるばかり。
「今日の食事はなんじゃ?」
「はっ。働き盛りの男が四人。町一番と評判の美女を一人です」
「そうか」
給仕長が蚊の鳴くような声で献立を告げれば、フレイヤは興味なさげにネイルの施された爪先を見ていた。
フレイヤの好物は生命力に満ちた若い男。あるいは美しき女だ。今日は好物を用意されたが、それでも特に反応を見せることはない。
ネイルを数十秒にわたって眺めた後、フレイヤは並べられた男女へ目を向ける。
全員震えてフレイヤを見つめているが、それに何か感情を浮かべることはなかった。
そっとネイルが施された指を向け、パチンと鳴らす。ただそれだけだ。
「あああああああああっ!?」
「た、助けっ! 助けてくれええええれえ!?」
「ガアアアアアアッ」
今日の食事が命を吸われることに悲鳴を上げる。酷い慟哭が食堂に響き渡るが、周囲の者達は慣れたものなのか反応を見せることはない。
かつて何か行動を起こした者もいただろうが、その瞬間食事のついでとばかりに命を吸われたため、もうこの世にはいない。
「……薄い」
食事を終えたフレイヤは、動かぬ骸を見つめながら一言呟いた。
「これだけか?」
「は、はい……。近隣からは、もうこれ以上はと……。これ以上搾り取れば、労働力が失われます」
「知ったことか」
フレイヤは冷たく言い放った。
「わらわが飢えれば、わらわの呪いが暴走し、この都ごと貴様らを食い尽くすぞ。それが嫌なら、もっと遠くからでもかき集めろ」
「は、はひっ……!」
その脅しに給仕長が逃げるように下がっていく。
「…………」
その後ろ姿を、フレイヤは感情を失った瞳で見つめていた。
◇
朝食――いや補給を終えると、執務の時間だ。
謁見の間。
広大な空間には、帝国の高官たちが整列していた。彼らは一様に高価な服を身に纏っているが、その顔には疲労と恐怖の色が濃い。
「報告いたします」
内務大臣が進み出た。
彼は巻物を広げ、震える声で数字を読み上げる。
「今月の
北部。その単語が出た瞬間、フレイヤの瞳がわずかに揺れた。
北部と言えばかつて自分が幽閉されていた場所。そして、アレクが生まれ育った故郷がある場所だ。
「……理由は?」
「はっ。……度重なる徴収により、限界に達しているとのこと。これ以上命を吸い上げれば、労働力が足りず冬を越せない危険があると、代官より嘆願書が届いております」
「嘆願、か」
「はい。すでにいくつかの村は滅んでおり、このままでは北部の存続が危ぶまれるかと。どうかご慈悲をお与えいただければ!」
その報告にフレイヤは頬杖をつき、つまらなそうに玉座の肘掛けを叩いた。
全滅。死。北部の冬の厳しさは、フレイヤも身に染みてわかっている。冬越しの準備には、人手が必要なことも知っている。
しかしそんな言葉を聞いても、心は何一つ動かない。
「甘えるでない」
静かな声が、広間に響き渡った。
「奴らは勘違いをしておるようじゃな。奴らが生きているのは、わらわが生かしておいてやっているからに過ぎぬ。家畜が主人に「腹が減ったから乳を出せません」と言うか?」
「し、しかし陛下……。労働力となる若者まで徴収してしまえば、来年せっかくのお食事も……」
「来年などどうでもよい。今、わらわが乾いておるのじゃ」
フレイヤは虚空を睨んだ。
身体の奥底で、黒い獣が口を開けて待っている。もっとよこせ、もっと食わせろと喚いている。
全てに絶望したフレイヤは、慈悲と呼ばれるものを持ち合わせていないかった。
「下らぬ書面を送ってきた北部の徴収は強化せよ。未納分は村長や長老……いや、隠している子供がいればそこから吸い上げても構わぬ」
「そ、それでは……根絶やしになってしまいます!」
「構わぬと言っておる」
絶対的な拒絶。これ以上は、「ではお前を食ってしまおう」となりかねない。
内務大臣は言葉を失い、青ざめた顔で引き下がった。
「…………」
フレイヤは知っている。
この命令が実行されれば、あの雪深い村々で何が起きるかを。
親は子を守ろうとし、子は親に縋り付き、そして共倒れになるだろう。
飢えと寒さの中で、誰かが誰かを恨みながら惨めに死んでいくのだ。
(……だから、どうしたと言うのじゃ)
フレイヤは心の中で嘲笑った。
民が、世界がどうなろうと知ったことではない。
慈悲とかそういうものは、あの日全部捨ててしまった。だから淡々と進めていく。
「次は?」
「は、はい……えー南方の蛮族の動向について……」
進む報告。数字として処理されていく命。終わりゆく国。
だが誰も逆らえない。
逆らえば、その場で
そして昼過ぎまで続いた報告が終わると、フレイヤは一人、城の最上階にある庭園へと足を運んだ。
そこは、大金をかけて整備したガラスドームの花園がある。帝国の技術の粋を集めて咲かせた、色とりどりの花々が並んでいた。
薔薇、百合、そして春を告げるプリムラ。
外の世界が死に絶えている中で、ここだけが嘘のような色彩に満ちている。
誰もがこの美しさに感嘆するだろう。
フレイヤは花壇のふちに腰掛け、一本の赤い花に手を伸ばした。
それはとても美しき花だ。なのになぜだろう。美しいと思えない。
「……ふん」
あの日、冬空の下で見た花々に比べてあまりにも醜くすぎる。
フレイヤはそんな醜い花の生命力を奪い取り、一瞬で枯れた花を無造作にちぎり捨てた。
何度やっても同じだ。
どんな美しい花をそろえても、心の穴が埋まることはない。
「……つまらぬ」
フレイヤは膝を抱え、ガラスドームの外に広がる灰色の空を見上げた。
広い世界を手に入れた。
誰もがひれ伏す力を手に入れた。
どんな宝石も、どんな美食も、望めばすぐに手に入る。
けれど本当に欲しかったものは、何一つ手に入っていない。
たった一人の、庭師の少年。
彼と並んで見るはずだった、本物の春。
冷たいパンを一緒に食べる、温かい時間。
それらは永遠に失われ、代わりに手元に残ったのは死体の山の上に築かれた孤独な玉座だけだ。
フレイヤの瞳から、涙は流れない。涙など、十年前に枯れ果てた。
今あるのは、乾ききった砂漠のような心だけだ。
この地獄のような冬は、いつまで続くのだろうか。
あと何万人殺せば、あと何年生きれば、この苦しみは終わるのだろうか。
あるいは終わらないのかもしれない。
このまま世界中の命を食い尽くし、最後には自分自身をも飲み込んで消滅するまで、この悪夢は続くのかもしれない。
「……誰か」
フレイヤは小さく呟いた。
誰に聞かせるつもりもない、風に溶けるような声。
「誰か、わらわを殺してくれ……」
それは最強の女帝が唯一抱く、決して叶わぬ願いだった。