魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
アレロナ・クローブは帝国貴族の娘である。
男爵家という貴族家の次女として生まれ、嫁ぐか宮殿勤めかという選択肢の中で宮殿勤めを選んだごく普通の娘だ。
ただ普通と言えど皇族付きの侍女になれたのは、アレロナが優秀だったからに他ならない。そして順風満帆な人生を過ごしていたのに――神はアレロナへ試練を与える。
十年前に起こった皇帝殺害。そして即位した女帝フレイヤ・フォン・ローゼンブルグ。
その日から、神聖ドラグノフ帝国は死んだ。
いや、正確には女帝が好き勝手できる箱庭へと作り変えられたのだ。
かつて、この宮殿は大陸一の栄華を誇っていた。
夜毎に舞踏会が開かれ、シャンパングラスが触れ合う音が音楽のように響き、着飾った貴族たちの笑い声が絶えなかった。
だが今この広大な城に響くのは、凍てつく風の音だけだ。
貴族たちは領地へ逃げ帰ったか、息を殺して仕えるか、あるいは女帝の不興を買って処分された。
この場において、生存とは権利ではなく薄氷の上の奇跡に過ぎない。
コツ、コツ、コツ……。
アレロナは極限まで足音を殺し、大理石の廊下を進んでいた。
手には朝の支度道具を載せた銀の盆。震えそうになる指先を、必死の意志で押さえつける。
到着したのは城の最上階。女帝の暮らす場所である。
その扉の前に待機して、アレロナは呼び出されるまでの時を静かに待つ。
今日は
そして待機していれば、チリンと鈴の音が鳴る。
「……失礼いたします、陛下。朝のお支度に参りました」
その音に分厚い扉の前で深く一礼し、許可を待たずに扉を開ける。返事などないことは分かっているからだ。
重い扉が開くと同時に、肌を刺すような冷気が吹き抜けた。
物理的な寒さではない。死そのものが発するような、根源的な冷たさ。
広い天蓋付きのベッド。
その縁に、帝国の支配者は腰掛けていた。
フレイヤ・フォン・ローゼンブルク。
アレロナは、その姿を見るたびに、恐怖で心臓が止まりそうになると同時に――そのあまりの美しさに魂を奪われそうになる。
人間ではない美しさ。アレロナの脳裏に浮かぶのは、そんな言葉だ。
窓から差し込む冬の光を浴びて、フレイヤの全身は発光しているかのように白かった。
陶器のように滑らかな肌。細く、しかし女性らしい丸みを帯びた肢体。
そして何より目を引くのは、腰まで届く銀色の髪だ。それは月光を糸にして紡いだかのような、この世の物質とは思えない輝きを放っている。
フレイヤはただ座っているだけで、一枚の完成された絵画だった。
瞬き一つせず、呼吸の音すら聞こえない。
ただそこにあるだけで、周囲の空気を支配し、見る者をひれ伏させる絶対的な美だ。
「……おはようございます、陛下」
アレロナが挨拶をすれば、フレイヤはゆっくりとこちらを向いた。
「…………」
視線が合う。紅玉を溶かして固めたような、鮮烈な赤い瞳。そこには何の感情もなかった。
怒りも、悲しみも、喜びもない。ただ、底なしの虚無だけが広がっている。その目に見つめられると、自分が人間ではなく、ただの風景の一部になったような錯覚に陥る。
そのままフレイヤは何も答えずドレッサーの前に座り、アレロナ含め四名の侍女はすぐさま動き出す。
「し、失礼いたします」
「…………」
アレロナは盆を置き、最高級の獣毛で作られたブラシを手に取る。これが最も緊張する瞬間だ。
もし髪を引っ張ってしまったら。もし痛がらせてしまったら。それだけで、アレロナの人生は終わる。
かつて誤ってフレイヤの髪を一本抜いてしまった侍女は、烈火の怒りを受けてミイラにされた。
己の美を、フレイヤは誇っている。誰にも触れさせるわけでもなく、他人なんて一切気にしていないのに、フレイヤは何かを思うように毎日その美しさを磨いているのだ。
故に傷をつけぬよう、アレロナは震える指で銀の髪に触れる。
とても冷たい。生きている人間とは思えないほど、その髪は冷え切っていた。
シュッ、シュッと静寂に包まれた部屋に、ブラシが髪を梳く音だけが響く。
鏡越しに見るフレイヤの顔は、やはり人形のように無表情だ。
美しい。どうしようもなく美しい。
国を滅ぼし、民を食らう怪物であるはずなのに、その顔はあまりに清らかで、神々しささえ感じさせる。
だからこそ恐ろしいのだ。この御方は着せ替え人形のようにドレスを纏い、玉座に座り、ただ世界が終わるのを待っているだけなのではないか。
「……今日は」
不意に、フレイヤの唇が動いた。
アレロナは心臓が口から飛び出しそうになりながら、手を止めて平伏した。
「は、はい!」
「……今日は、青の気分じゃ」
「しょ、承知いたしました」
フレイヤの部屋に設置された、もう一つの部屋ぐらいの広さがあるクローゼット。一人の侍女が、そこからすぐに青のドレスを持ってくる。
これ一つで家が建つほどに高級なドレスだ。それを数人の侍女総がかりで着付けが行われる。
コルセットが締め上げられ、最高級の生地が白い肌を包み隠していく。それも傷つけないよう慎重にだ。
支度が整うと、フレイヤは一度鏡を見てニコリと微笑む。その笑みに侍女たちも恐怖を忘れて見惚れるが、フレイヤはすぐ無表情になると立ち上がった。
「……行くぞ」
誰にともなく告げると、フレイヤは部屋を出ていく。向かう先は決まっている。この城のさらに上、最上階にある庭園だ。
そこは莫大なリソースを投じて維持された庭園であり、女帝が多額の金をかけた場所。
「この先は良い」
「「「「はっ」」」」
そしてこの先は同行の許可が出なかったために、アレロナ達はこの場で待機となる。遠ざかるフレイヤの背中が廊下の角を曲がり、完全に気配が消えた瞬間。
張り詰めていた糸が切れたように、彼女たちの中に安堵の吐息が満ちた。
「……生き残った」
誰かがポツリと呟く。
アレロナもまた、冷や汗で張り付いた背中の服を不快に感じながら深く息を吐き出した。
今日の業務はこれで終わりではないが、最も死に近い時間は過ぎた。
「じゃあここからは引継ぎをして、私たちは別の業務を」
「ええ」
フレイヤのお世話を一日中やればストレスで倒れてしまうため、侍女たちは交代でフレイヤにつく。フレイヤの朝支度という一番大変な業務を担当したアレロナ達は、これで今日は別の業務だ。
アレロナ達は次の侍女が来た瞬間に逃げるように立ち去って、凍てつく大理石の回廊を歩き出した。
「はぁ……私って、何をしているのかしら」
広すぎる廊下を歩きながら、アレロナは呟く。
もう辞めることはできない。それすらフレイヤの怒りを買う気がするからだ。
だから心を殺して、何も考えないように、ただ今を生きるだけ。そんな人生、一体何なんだと自問自答するものだ。
まるで果てがない闇の中を彷徨っているよう。
「ん……」
そんな中、ふとアレロナは足を止めた。
廊下の窓から、灰色の空光が差し込んでいた。
アレロナは何かに導かれるように、窓の外を覗き込む。
「…………」
眼下に広がっていたのは、かつて帝国の心臓と呼ばれた帝都の成れの果てだった。
冬の曇天の下、街は墓石のように沈黙していた。
本来なら朝食の支度で煙突から煙が上がる時間だというのに、煙など一本も上がっていない。
フレイヤがその煙を美しくないと言ったからだ。それ以降フレイヤは城下町を一切見ていないが、怒りを買わぬため朝に煙を炊くことが禁止となった。
大通りを歩く人の姿は疎らで、誰もが俯き、幽霊のように足早に過ぎ去っていく。
子供の笑い声も、商人の呼び込みも、馬車の音もしない。聞こえるのは空虚な風の音だけだ。
「……これが、私たちの国」
アレロナの口から、乾いた言葉が漏れた。
あの美しい女帝は、この景色を見て何とも思わないのだろうか。いや、何も思わないだろう。ずっと何も思っていない。
彼女が満たされない限り、この搾取は続く。
明日も、明後日も、一年後も。
最後の一人が死に絶えるまで、この終わらない冬は続くのだ。
「……誰か」
アレロナは窓枠に手をかけ、祈るように額を押し付けた。
「お願い……誰か、この絶望を変えて」
その悲痛な願いは、風に乗って雪空へと吸い込まれていった。
だがアレロナは、かつて読んだ物語のように、正義の勇者が悪の魔王を倒しにくることをただ切に願うのだ。
◇
フレイヤが住む帝都から遥か北。
そしてかつてフレイヤが幽閉されていた離宮よりもさらに北。
人が世界の果てと呼び、地図にすら記すことを放棄した場所がある。
そこは大陸にあいた大穴のように断崖絶壁の下に広がる、奈落の森だ。
太陽の光すら届かぬ深い谷底。気温は常に氷点下五十度を下回り、呼吸をするだけで肺が凍りつく極寒の地獄。
そこに落とされた者は、着地する前に凍死するか、あるいは底に巣食う魔獣の餌となる。
生きて帰った者は歴史上一人もいない。処刑場よりも確実な死の廃棄場。
猛吹雪が吹き荒れるその断崖絶壁に――一つの影があった。
「……ぐ、ぅッ……!」
唸り声と共に、岩肌に指が食い込む。
それは、一人の男だった。
男の姿は、人間というよりもボロ布を纏った野獣に近い。獣の皮をツギハギして身に纏っているだけ。剥き出しの腕や足は傷だらけで、凍傷と治癒を繰り返した皮膚は、鎧のように硬く変質している。
「……まだだ。まだ、届かない」
男はガリガリと凍り付いた岩壁を削りながら、上へ、上へと這い上がる。
爪は割れ、指先からは鮮血が滴っている。だが男は痛みを感じていないかのように、ただ機械的に手足を動かし続けていた。
なぜ生きているのか、自分でも分からない。
普通なら死んでいる。何度も死にかけた。
それでも男は、
今も傷ついた体がグネグネと動いて再生している。
まるで法則が彼の死を否定しているように、役目を終えるまで死ぬことを許さぬように。世界が死ぬことを、許してくれない。だから死なぬ体を利用して、上へ、上へと進むのだろう。
「待ってろ……」
男が顔を上げた。
伸び放題の黒髪の隙間から覗くのは、地獄を生き抜いた捕食者の瞳。
だがその奥底には、決して消えることのない執念が燃え盛っていた。
ズドンッ、と。男は最後の力を振り絞り、断崖の縁に手をかけた。
筋肉が悲鳴を上げ、岩が砕ける。
そして、男は登り切った。
奈落の底から、地上へと。
吹き付ける風は相変わらず冷たい。
だが奈落の底で味わった寒さに比べれば、まるで南国の風だ。男は地獄から帰還し、はるか南を睨んでいた。