魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
神聖ドラグノフ帝国の北部は、厳しい寒さに晒された地だ。
冬になれば猛吹雪が吹き荒れて、人々は外に出ることも難しくなる。故に民は冬支度をしっかりとし、この寒さを乗り切るのだ。
ただ、その冬支度ができている村や町は少なかった。
「お客さん? せっかく来てもらってあれだけど、大したものは出せないよ?」
この町にある酒場もその一つだ。冬が訪れ、交通網が遮断し、労働力が不足している現在、酒場の経営も難しい。
せっかく客が入ってきても、そんな断りを入れないといけないほどだ。
「……なんでもいい、魔獣の血、よりは、マシだろう」
だがマスターの言葉に対し、その客は掠れた声でそう返した。まるで久しく喋っていないように、枯れた声だ。
「まあそれなら良いが。好きな席に座りな」
客の男は少し戸惑いながらもマスターの前の席に座る。
そしてキョロキョロと周囲を見回す姿は、まるで全てが懐かしいと言うよう。ただの町の酒場だというのにだ。
「メニューはエールかミルク。つまみはナッツだけだ。割高なのは理由を察してくれ」
「……エール」
「はいよ。気が抜けてるかもしれないが、文句はなしだ」
男の注文に対し、マスターはすぐに準備するとドン、とカウンターに木のジョッキを置く。
男はそれを震える手で掴むと、躊躇なく一気に煽った。
ごく、ごく、と喉が鳴る。プハッ、という荒い呼気と共に、男はカウンターにジョッキを置いた。
「……美味い」
その一言には、万感の思いがこもっていた。
ただの安いエールだ。水で薄まっているかもしれないし、気の抜けた代物だろう。だが極上の甘露を飲み干したように満ち足りた笑みを浮かべていた。
「そりゃどうも。ただのエールで泣きそうな顔をする客なんて、久しぶりに見たよ」
マスターは苦笑しながら、その目は少しばかり警戒と好奇心を混ぜて目の前の客を値踏みしていた。
ボロボロのローブと、その下には獣の皮を素人仕事で縫い付けたような服が見える。そして顔に刻まれた傷。猛獣のように鋭いくせに、どこか迷子のような心細さを宿した黄金の瞳。
ただの浮浪者にしては、纏っている空気が鋭すぎる。間違いなく旅人だろうが、こんな冬に旅をするものなど気がふれているとしか思えない。
「お客さん北の方から来たのかい? 魔獣の血なんて物騒な冗談が出るあたり、山狩りでもしていたのか?」
「……山じゃない。もっと奥……北の果てだ」
「北の果てだって? おいおい、あそこは人が住める場所じゃねえぞ。断崖絶壁と氷しかない地獄だ……まあ詮索はしないよ。このご時世、訳ありなんて珍しくもないからな」
マスターは肩をすくめ、それを冗談だとして話題を切ろうとした。こういうわけありを詮索してはいけないというのは、長く酒場のマスターをしている理解することだ。
だが男は、空になったジョッキの底を見つめたまま重い口を開いた。
「……教えてくれ」
「あん?」
「今、この国は……どうなっている」
その問いに、マスターの手がピタリと止まった。
店内の空気が、一瞬で凍りついたようだった。
マスターはゆっくりと顔を上げ、眉をひそめて男を見る。
「……どうなってる、とは? 見ての通りさ。不景気で、寒くて、物価は上がって、客も来ない」
「そうじゃない」
男は首を横に振った。
言葉を探すように、視線を泳がせる。それは人との会話自体が、恐ろしく久しぶりという感じだ。
「ここに来るまで、村をいくつか通った。……どこも、静かすぎた。子供の声がしなかった。大人たちは怯えて……俺が知っている帝国とは、違う」
男の声は、切実だった。
何年振りかに帰ってきて、変わり果てた故郷に戸惑っているような哀愁。
男はカウンターの上で拳を握りしめ、さらに声を低くした。
「……ここに来る途中、俺の故郷があった場所を通ったんだ」
「故郷?」
「ああ。小さいけどのどかな町だったはずだ。だが……何もなかった。家も、人も、家畜さえも。ただ雪に埋もれた廃墟だけがあった」
そう言う男が脳裏に描くのは、数日前に見た光景だ。
かつて父と母と暮らした家。友人たちと遊んだ広場。そしていつの代かの皇帝によって作られた離宮。それらがすべて雪の下に圧し潰され、人の気配が完全に消滅していた絶望。
「……あれは、何があった? 疫病でも流行ったのか? それとも……」
「…………」
男の悲痛な問いに、マスターはふぅと深く溜息をついた。
そしてカウンターから身を乗り出し、誰にも聞かれぬよう声を潜める。
「兄ちゃん。あんた、本当に外の情報がなかったんだな」
「ああ」
「……いいか、あんまり大声で聞くんじゃないぞ。壁に耳ありだ」
マスターは周囲を――誰もいない客席を警戒するように視線を巡らせてから、ポツリと言った。
「疫病じゃねえ。……徴収されたんだよ」
「徴収?」
「ああ。税金さ。金じゃねえぞ? 命だ。……北部は冬越えに労働力がいる。それを徴収されれば冬越えができず、廃墟さ。今、北部のいたるところで起きていることさ」
「命の徴収。じゃあみんなは……」
「さあな。徴収されたか、されてなければ別の町に移住したか。どちらかだろう」
「そう、か」
その言葉が、男の胸に重くのしかかる。まるで何かを考えるように、その言葉を口の中で転がしていた。
「死にかけてるんだよ、この国は。上が変わってから、ずっとこうだ」
そう言ったマスターが親指で指したのは、ずっと南にある帝都の方角だ。
「十年くらい前か。先代の皇帝が崩御されて、新しい皇帝が即位した。……いや、女帝陛下か」
「女帝……」
「ああ。とびきり美しくて、とびきり残酷な御方だそうでね。俺たちみたいな下々の民から、税金の代わりに生気を搾り取るのがお好きらしい」
マスターは自嘲気味に笑い、自分のやせ細った腕をポンと叩いた。
「おかげでみんな、生きるのに必死だ。……明日死ぬかもしれないのに、酒なんか飲んでる余裕はねえってわけさ」
「…………」
「噂じゃ、女帝陛下は心を病んでおられるとか、呪われているとか言われてるが……俺たちにとっちゃ、いい迷惑だ。ただの悪魔だよ」
悪魔。
その言葉に、男の肩がピクリと跳ねた。
握りしめた拳の爪が、皮膚に食い込み血が滲む。そして震える口で、マスターに尋ねた。
「……その女帝の名は」
「フレイヤ様だ。フレイヤ・フォン・ローゼンブルク様だ」
その名前を聞いた瞬間、男は目を伏せた。
まるで信じられないと首をふるように、されど現実がその事実をつきつけてくるように。まるで恐ろしい苦悩を抱えるように顔色を悪くする。
「……そうか」
「なんだ、知ってるのか?」
「……いや。……ただの、独り言だ」
男は、空っぽのジョッキを見つめたまま、絞り出すように呟いた。
その横顔があまりに痛々しくて、マスターはそれ以上何も聞けなかった。
暫く沈黙が続き、外の吹雪の音だけが聞こえてくる時間が生まれる。そして男は空っぽのジョッキをトンと叩いて、小さく呟いた。
「……悪魔、か」
「ん? ああ。国を食い潰す化け物だ。悪魔って言葉がお似合いだろうよ」
外に漏れぬよう小声でそう言うマスターに対し、男は自嘲するように口の端を歪めた。
「違いない。……だが、そうさせたのは誰だ?」
「あ? 誰って……そりゃあ、陛下ご自身の性根だろう?」
「違う」
男は短く、けれど強い語気で否定した。
その急な剣幕に、マスターが布巾を持つ手を止めて怪訝な顔をする。
男はカウンターの木目を睨みつけながら、吐き捨てるように言った。
「あいつは悪魔なんかじゃないはずだ。俺の知るフレイヤは、悪魔じゃなくて生意気で寂しがりやのガキだった!」
「はあ? ガキ?」
「ぁ…………なんでも、ない」
そして声を荒げてしまったことに自分でも驚いたのか、男はそう言って目を伏せる。
「おいおい兄ちゃん、酔ったか? 何万人も殺してる女帝を捕まえて、寂しがり屋もねえだろうよ」
「食わせてやる人間がいなくなったからだ」
「え?」
「俺が、約束を、破ったから。俺のせいなんだ。俺が悪いんだよ」
男の声が、微かに震えた。
握りしめた拳の爪が、皮膚に食い込んで血を滲ませている。
「約束したのに。俺が命を吸わせてやるから、ほかの人間からは吸うなって、約束したのに。俺が、へまして、証拠を残しちまった、から」
「……あんた、さっきから何を言って――」
「俺のせいなんだよッ!!!」
男は顔を上げた。
その瞳には、狂気スレスレの光と、痛々しいほどの正気が混在していた。まるで泣きそうになりながら、フレイヤの罪を代わりに謝るような。そんな姿は狂人としか言えないだろう。
「この国がこんなになったのも、フレイヤが暴君になったのも……あの日、
「あんた…………」
マスターは言葉を失った。
目の前の男が何を言っているのか、まるでわからないからだ。
だが、その声に含まれる感情があまりに重く、あまりに切実で、ただの酔っ払いの戯言だと切り捨てることができなかった。
男は椅子から立ち上がった。
「もう行くのかい? 外はまだ吹雪いてるぞ。あんた明らかにおかしい。今日はここで休んでいけば……」
「いや、急ぐ。俺が、止めないと」
男は短く答えると、懐に手を入れた。
取り出したのは、一枚の硬貨。薄暗いランプの光を受けて、鈍く輝く金貨だった。
「なっ……!? お、おい兄ちゃん! これじゃあ釣りが出せねえよ! それにこんな大金……」
「釣りはいらない。……今の話の礼だ。谷底で拾ったものだし、とっといてくれ」
「話の礼って、俺はただ愚痴をこぼしただけで……」
マスターは慌てて金貨を押し返そうとするが、男はそれを見向きもしない。
そして男は扉へと歩き出した。その背中から発せられる気配が、入店した時とは別人のように変貌していた。
鋭く、冷たく、それでいてマグマのような熱を内包した、抜き身の刃のような気配。
マスターは直感した。この男は、この吹雪の向こうにある、もっと恐ろしい地獄へ飛び込もうとしているのだと。
「ま、待ちな!」
マスターは思わず声を荒げた。
「あんた、南へ行く気だろう? 帝都へ!」
「…………」
「やめておけ! 死にに行くようなもんだ! あそこには悪魔がいるんだぞ! 近づく奴は皆ミイラにされちまう! あんたみたいに体格が良くて若そうな男なら尚更だ、格好の餌になるだけだぞ!」
それは、見ず知らずの客に対する、精一杯の善意だった。
あるいは、この絶望的な世界で、若い人間が死ぬのを見たくないというエゴだったかもしれない。
男は足を止めた。
そして、扉のノブに手をかけたまま、ゆっくりと振り返った。
「……知っている」
フードの奥で、黄金の瞳が静かに細められた。
「だから、俺が行く。……俺が食わせてやらないといけないんだ」
男の言葉は、マスターには狂人の戯言にしか聞こえなかったかもしれない。
だがその声があまりに優しく、あまりに悲しげだったから、マスターは二の句が継げなかった。
扉を開けて、男は吹雪の舞う世界へ消えていく。それは覚悟を決めた男の背中だ。
マスターはその背中を見て、なぜか聞いておかねばならないと思った。
「あんた!」
マスターは叫んだ。
「名前は!?」
吹雪の音が、一瞬だけ止んだ気がした。
男は足を止めず、背中を向けたまま、風に乗せるように答えた。
「……アレク」
それは十年ぶりに口にする、自分自身の名前だった。
ただそれだけを言い残し、男――アレクは歩き出した。
扉がバタンと閉まり、酒場に再び静寂が戻る。
カウンターには、一枚の金貨と、空になったジョッキだけが残されていた。
マスターは呆然と扉を見つめていたが、やがて震える手で金貨を握りしめ、深く息を吐いた。
「……あんた、なんなんだよ」
何もわからないが、今何かが変わったような。そんな根拠のない確信が、マスターの胸を過った。