魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
その日、帝都の空は鉛を流したように重く淀んでいた。
分厚い石造りの壁に囲まれた執務室の中にまで、北風が入り込んでくるよう。
その寒さにフレイヤ・フォン・ローゼンブルクは、豪奢な椅子の上で小さく身震いをした。
最高級の毛皮を纏い、足元には高価な暖房器具が置かれている。すでに十分に暖かいはずだ。だというのに体の芯、心臓の奥底にある空洞から絶えず冷気が吹き出してくるような感覚が消えない。
「……侍女よ」
フレイヤは毛皮の前を強くかき合わせながら、不機嫌に部屋の隅に待機した侍女を呼んだ。
「はっ! 陛下」
「貴様、わらわを凍え死にさせる気か? 部屋が冷えておるぞ」
「は……? 冷えて、おりますか?」
「さっさとストーブを焚かぬか。薪をくべよ。火力を上げるのじゃ」
フレイヤが苛立ちを隠さずに命じる。
だが控えていた筆頭侍女のアレロナは、困惑したように眉を下げた。
それもそのはずだ。彼女の額からは、先ほどから滝のような汗が流れ落ち、頬は赤く火照っているのだから。
「陛下……申し上げにくいのですが」
アレロナがハンカチで首筋の汗を拭いながら、恐る恐るという声で告げる。
「暖炉も、足元のストーブも、すでに最大出力でございます。これ以上火力を上げれば、執務室が発火しかねません」
そう言われてフレイヤは暖炉に目をやった。
そこでは通常の倍以上の薪が赤々と燃え盛っている。
普通なら、立っているだけで目眩がするほどのサウナ状態だ。
しかしフレイヤには届かない。
フレイヤの体は熱を感じているはずなのに、胸の奥から感じる寒さが決して消えぬのだ。
「……役立たずめ」
フレイヤは舌打ちをした。
「機械も、火も、貴様らも。どいつもこいつも、わらわ一人温めることすらできぬのか」
「も、申し訳ございません……!」
アレロナが暑さと恐怖でさらに汗を吹き出させる。
その脂汗が光る様子を見て、フレイヤはさらに眉をひそめた。
「もうよい……」
フレイヤはバサリと毛皮を翻し、椅子から立ち上がった。
「湯浴みじゃ」
「は、はい?」
「風呂を沸かせと言っておる。煮えたぎるほどの熱湯を用意せよ。……骨の芯まで凍りついて、感覚がなくなりそうじゃ」
フレイヤは顔をしかめながらそう言う。
アレクを失い、女帝となった日から消えぬこの寒さを消すために、風呂に入りたいというのだ。
しかし――
「そ、その申し上げにくいのですが……」
その瞬間、侍女たちの間に電流のような緊張が走った。
女帝が湯浴みと言えば、場所は一つしかない。城の最上階、ガラスドームに覆われたあの庭園に設置された浴槽だ。
だが今はまだ昼下がりだ。通常の入浴時間ではない。
あの巨大な浴槽の湯温は、夜に合わせて調整されているはずだ。今すぐ適温になっている保証はない。そんな状況にアレロナの背中に冷たい汗が伝う。
「ただいまのお時間ですと、湯の温度がまだ完全ではないやもしれません。今しばらくお待ちいただければ、最高の状態に――」
「は?」
フレイヤの声が、氷点下まで下がった。
アレロナの言葉が途切れる。
フレイヤはゆっくりと首を傾げ、紅玉の瞳でアレロナを見下ろした。そこには理解しがたいものを見るような、底冷えする傲慢さが宿っていた。
「わらわが入りたいと言ったのじゃぞ?」
「――ッ!」
「まさか、沸いておらぬと申すか? わらわの望みよりも、貴様らの都合や段取りの方が優先されると?」
「め、滅相もございません!!」
アレロナは即座に平伏した。額を床に擦り付け、必死に言葉を継ぐ。
「ただちに! ただちに準備いたします! 陛下が脱衣所に到着される頃には、完璧な温度にしてご覧に入れます!」
頭を下げながら、アレロナの脳内はパニック状態で回転していた。
予算など知ったことか。とにかく金にものを言わせて湯を沸かすしかない。
女帝を待たせれば、いくつもの首が飛ぶ。
アレロナは密かに他の侍女にハンドサインを送る。『倉庫の燃料を全部持ってこい』『全力で焚け』と。
「……ふん」
フレイヤは鼻を鳴らし、興味を失ったように視線を外した。
「ならばよい。……行くぞ」
「はいッ!」
フレイヤが歩き出す。
アレロナは弾かれたように立ち上がり、先導するように扉を開けた。心臓が早鐘を打っているが、顔には完璧な侍女の微笑みを張り付ける。
誰もいない大理石の回廊に、フレイヤのヒールの音だけが響く。
その後ろを、着替えやタオルの入った籠を持った侍女たちが、無言で行列を作ってついていく。
それはまるで葬列のような静けさだった。
◇
「……開けよ」
フレイヤの短い命令に、アレロナはごくりと唾を飲み込んだ。
部下に命じて急ピッチでお湯を沸かさせた。だがもし冷えた湯であれば、アレロナの首は飛ぶ。故に祈るような気持ちで、アレロナは重い扉のノブに手をかけた。
ガチャリと扉が開くと同時に、ムワッとした熱気と、噎せ返るような花の香りが全身を包み込んだ。
そこは、真冬の帝都に出現した小さな熱帯だった。
天井は巨大なガラスのドームで覆われ、外の猛吹雪を遮断している。内部には色とりどりの花が咲き乱れ、中央には白大理石を削り出して作られた巨大な浴槽が鎮座していた。
湯面からは豊かな湯気が立ち上り、薔薇の花弁が敷き詰められている。
「……ふん」
フレイヤは湯気を見て、わずかに鼻を鳴らした。合格とも不合格とも言わぬまま浴槽へと歩を進める。
アレロナは心の中で安堵の溜息をつき、すぐさま他の侍女たちと動き出した。
「陛下、お召し物を」
「……うむ」
数人がかりで最高級の毛皮やコルセット、ドレスの紐が解かれていく。
重厚な布地が床に滑り落ち、帝国の支配者たる女帝の全てが露わになった。
その瞬間、湯気で満たされた温室の空気が、さらに湿度を増したように感じられた。
露わになったのは、神が手ずから作り上げたかのような肉体だった。
白磁のように透き通り、それでいて血管の青さすら感じさせない純白の肌。
細く引き締まったウエストから、豊満かつ柔らかな曲線を描く腰つき。そして重量に逆らうように張りのある豊かな双乳は、呼吸に合わせてわずかに揺れる。
女神ですら嫉妬して顔を背けるであろう、完成された美の暴力がそこにあった。
「……洗え」
「し、失礼いたします……」
侍女たちは跪き、その国宝級の肢体に慎重に湯をかける。
アレロナは泡立てた海綿をフレイヤの背中へと滑らせた。指先が触れただけで溶けてしまいそうなほど滑らかな肌触りに、恐怖と陶酔が入り混じる。
強く擦れば傷がつく。弱すぎれば汚れが落ちない。汚れが落ちなくても、傷をつけても怒りを買うため、高い技術が必要だ。
長い銀髪も丁寧に洗われ、濯がれる。
濡れた髪が背中に張り付き、白い肌とのコントラストがさらに妖艶さを際立たせていた。
全身を磨き上げられたフレイヤが、まさにこの世で最も美しいのは間違いない。
「……下がっておれ」
そして清め終わった体で、フレイヤは冷ややかに告げた。
「しょ、承知いたしました」
とても冷たい拒絶だ。アレロナたちは逃げるように後退し、巨大な観葉植物の陰で直立不動の姿勢を取った。
気配を殺し、呼吸音すら消し、ただの風景の一部になりきること。それがこの気まぐれなフレイヤの傍で生き延びる唯一の術だ。
フレイヤは一人、湯船へと足を入れた。薔薇の花弁が敷き詰められた湯の中に、白く美しい肢体が沈んでいく。
「…………」
ほう、と小さく吐息が漏れた。肩まで湯に浸かると、フレイヤは浴槽の縁に頭を預けた。
熱い湯が、冷え切った肌を包み込む。
侍女たちが命をかけて沸かせた湯は、確かに皮膚を温めてくれる。だが、胸の奥にある空洞までは届かない。どれだけ熱い湯に浸かろうとも、心はいつまでも冷たいままだ。
「泥水じゃ……」
フレイヤは小さく毒づいた。
「下らぬ」
この寒さを消してくれない湯に嫌悪を示すと、フレイヤはゆっくりと視線を上げて頭上を仰いだ。
そこには、巨大なガラスのドームがある。
ガラス一枚を隔てた向こう側では、猛吹雪が吹き荒れていた。灰色に濁った空。舞い狂う雪。
まるで世界中が死に絶えたような冬の景色。
「……汚い空」
フレイヤはそうポツリと呟いた。
ここにあるのは偽物の春だけ。湯気越しに見上げる空はあまりに遠く、あまりに冷たい。
あの日から、世界はずっと灰色だ。全てに価値を感じることができない。
だからフレイヤ・フォン・ローゼンブルグは願うのだ。
願わくば――この時を終わらせてくれと。
「ああああああああああああああああっ!?!?」
声が響いた。
まるで帝都中に響き渡るのではというほどに野太い男の声。それは上空、フレイヤの眺めた空の上から聞こえた声だ。
「何じゃ……」
フレイヤはすぐに立ち上がり、そして空を睨んだ――
直後、真っ黒な物体がガラスドームを粉砕しながら降ってきた。
まるであの日のように、無遠慮に、無神経に、それは降ってきたのだ。
はるか上空から降ってきたのだろうそれは、花壇に落ちると柔らかな花と土に受け止められる。
降ってきたのは、薄汚い男だった。
「きゃああああああああああああッ!!」
直後、侍女たちの悲鳴が温室内に響き渡った。
それは不審者の侵入に対する恐怖ではない。この世で最も恐ろしい女帝の安息が、最悪の形で破られたことへの絶望だ。
侍女たちは一斉にその場に平伏した。顔面は蒼白になり、ガタガタと震える歯の音が止まらない。
女帝の裸身を、薄汚い男の目に晒してしまった。その事実は、たとえ責任がなかろうと彼女たちの首が物理的に飛ぶことと同義だ。誰一人として顔を上げることもできず、ただ訪れるであろう死の宣告を待って床に額を擦り付けている。
だが女帝は、侍女たちになど目もくれなかった。
「うぅ……いたた」
花壇の中から、その男が立ち上がったからだ。
ボロボロのローブに、伸び放題の黒髪。男は全身泥まみれになりながら、呆然とした様子でキョロキョロと周囲を見回した。
美しきの花々、砕け散ったガラス、そして目の前に立つ一糸纏わぬ銀髪の美女。
視線が交差する。
その瞬間、温室の空気が絶対零度まで凍り付いた。
「……きッ、さま!!」
フレイヤの白磁の肌が、怒りによって朱に染まる。その声はこの十年で一番の怒りに染まっていた。
羞恥ではない。己の尊厳を泥足で踏み躙られたことへの、烈火の如き激怒だ。
フレイヤにとって、愛する男以外の視線は汚物でしかない。ましてや裸を見られるなど、万死に値する冒涜だった。
「わらわの庭園に無断で立ち入り、わらわの裸体をその目に映すとはッ!」
地獄の底から響くような声と共に、フレイヤが右手を突き出す。
「死ね。その網膜ごと焼き尽くしてくれるッ!」
問答無用。弁解の余地なし。
この汚らわしい害虫の全身から一滴残らず生気を搾り取り、干からびたミイラに変えてやる。それは即座なる死刑執行の構えだ。
侍女たちがヒッと息を呑む中、処刑台に乗せられた男は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「……これは、失敗したな」
その言葉が、男の遺言だった。直後、フレイヤによる命の徴収がスタートする。