魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
その瞬間、温室内の気温は氷点下をも下回ったようだった。
侍女のアレロナは、ガチガチと鳴る奥歯を噛み締め、床に額を擦り付けていた。
終わった。何もかもが終わった。
女帝の裸体を見た男も、それを防げなかった自分たちも、等しく処刑されて終わるだろう。これから地獄が始まる。
「……汚らわしい」
フレイヤの声は怒りを超えて、絶対零度の冷徹さを帯びていた。
目の前にいるのは、ただのボロ布を纏った侵入者だ。取るに足らない羽虫と言える。
だが、その羽虫の視界に自分の裸が映ったという事実だけで、フレイヤのプライドは許容限界を超えていた。
「わらわの聖域を穢し、わらわの姿を盗み見た罪……万死に値する」
フレイヤが裸のまま歩き、花壇の上で唖然とする男へ濡れた手を伸ばす。
美しくも鋭い爪が、男の顔面を鷲掴みにした。
「ひっ……!」
侍女の誰かが悲鳴を上げた。
次に起こることは明白だ。その掌から放たれる吸命によって、男は一瞬にして干からび、ミイラとなって崩れ落ちるだろう。
しかし男は逃げなかった。
抵抗もせず、命乞いもせず、ただされるがままにフレイヤの手を受け入れた。
その態度が、フレイヤの癇に障った。
「……何じゃ、その目は」
男の瞳は死を前にしてなお、恐怖の色がない。それどころか安堵したような、慈しむような目でこちらを見ている。
不愉快だ。吐き気がする。
人間ごときが、捕食者である己に対してその態度は何だ。
「消えよ」
フレイヤは吐き捨て、容赦なく力を発動させた。
魂を啜る音が、鼓膜ではなく脳内に直接響く。男の体から生命力が引き剥がされ、フレイヤの掌を通じて流れ込んでくる。
どうせまた、泥水のような味だ。恐怖と欲望にまみれた、不味くてザラザラした吐き気を催すような人間の味。
それを飲み下す不快感に、フレイヤはあらかじめ顔をしかめ――
「――っ?」
動きが、止まった。
フレイヤの赤い瞳が、限界まで見開かれる。
ドクン、と心臓が早鐘を打った。
流れ込んできたのは、泥水ではなく、極上のとても懐かしい大好きな味だった。
温かくて、優しくて、とろけるように甘い。
十年もの間、乾ききってひび割れていたフレイヤを一瞬にして満たしていく熱量。
知っている。フレイヤはこの味を知っている。
世界でたった一つ。フレイヤの空腹を満たせる、唯一無二の命の味。
「……あ……?」
殺意が霧散した。掌から放出していた命を吸い取る力が、ふっと消える。
だが手は離せない。男の頬に触れたまま、フレイヤはガタガタと震え始めた。
まさか。
ありえない。
そんなはずはない。
死んだはずだ。十年前、フレイヤのわがままのせいで北の果てに捨てられたはずだ。
恐る恐る、男の顔を良く見ようとする。
薄汚れている。髪も目元を隠すほどボサボサだ。頬には凍傷の痕があり、まるで野獣のような風貌をしている。
けれど――その奥にある瞳。黄金に輝くその瞳だけはあの日のままだ。
「……う、そ……」
フレイヤの唇から、掠れた声が漏れた。
一部の侍女たちが、主人の異変に気づいて顔を上げる。
そして彼女たちの目に映ったのは、信じられない光景だった。
つい先ほどまで、国を滅ぼしかねないほどの激怒をまき散らしていた女帝が、今は顔に涙をいっぱい溜めているのだ。
フレイヤの指先が、男の頬についた泥を拭う。
男は、されるがままに目を細めた。
幻覚ではない。
夢でもない。
「……うそじゃ……うそじゃ、うそじゃ……ッ!」
ポロポロと、大粒の涙が零れ落ちた。
フレイヤは子供のように首を振り、嗚咽を漏らした。
罵倒したいのに、殴ってやりたいのに、言葉が出てこない。
嬉しくて、懐かしくて、どうしようもないほどの愛しさが込み上げてきて、胸が張り裂けそうだ。
男が、苦笑した。
そして、自分の頬に添えられたフレイヤの手に、そっと自分の手を重ねる。
その手は無骨で、傷だらけで、けれど何よりも温かかった。
「……遅くなって悪かったな」
男――アレクは、いつかと同じようにぶっきらぼうに言った。
「命からがら生き延びて、どうにか戻ってこれたよ」
「ばか……ッ! 大馬鹿者ぉ……ッ!」
「ああ。……で、どうだ?」
アレクは少しだけ首を傾げ、ニッと笑った。
十年前に見せてくれた、あの頼もしい笑顔で。
「少しは、腹の足しになったか?」
その言葉を聞いた瞬間、フレイヤの中で何かが決壊した。勢いよくアレクの胸に飛び込んだ。
二度と離さないように。その命を、その愛を一滴残らず確かめるように。
侍女たちは呆然と見守るしかなかった。
砕けたガラスの天井から、雪が舞い落ちてくる。だが、フレイヤはまったく寒さを感じていなかった。
◇
アレロナ・クローブは、自分の人生が終わったことを確信していた。
目の前で不敬極まりない侵入者が、女帝陛下の裸を見た。周囲の人間諸共理不尽な連帯責任で終わりである。
だからアレロナは目を閉じ、耳を塞ぎ、床に額を擦り付けて、過ぎ去るはずのない嵐が過ぎ去るのを待っていた。
だが――
「…………?」
音が、しない。
男の断末魔も、肉体が崩れ落ちる音も、そして女帝の激昂した声も聞こえてこない。
聞こえるのは、吹雪の音と――すすり泣く声だ。
アレロナは混乱した。誰が泣いているというのか。
男が命乞いをしているのか? いや、あの不遜な男が今更泣くとは思えない。
では侍女の誰かか? ありえない。陛下の御前で声を上げて泣くなど、即座に処刑対象だ。
恐る恐る、本当に恐る恐るアレロナは顔を上げた。
薄目を開け、浴槽の方を覗き見る。そこにはアレロナの脳みそが拒否反応を起こすような光景が広がっていた。
「……うそ……でしょ?」
思わず、唇から言葉が漏れた。
不敬だと分かっていても、止められなかった。
あろうことか、あのフレイヤ・フォン・ローゼンブルクが。触れられることを何よりも嫌い、他者を汚物のように扱う潔癖の化身が。
泥だらけの、乞食のような恰好をした男の胸に飛び込み、しがみついていたのだ。
殺すためではない。
あれは――抱擁だ。
男のボロボロの服は、汚れと泥にまみれている。その汚い服にフレイヤの肌が押し付けられている。
普段なら、服の裾が少し触れただけでその服ごと相手を消し炭にするお方が、自ら進んでその汚れに顔を埋めている。
「……おいおい、泣くなよ。鼻水がつくぞ」
「うぅっ。な、なぜじゃ。なぜ、生きておる!」
「そりゃ生きてるだろ。お前に命を吸われて唯一生きていた男だぞ。北の果ても、お前の呪いより楽勝だったよ」
「アレクッ!!」
男が苦笑しながら、フレイヤの濡れた銀髪を撫でている。
その薄汚い手で、国宝よりも価値ある女帝の頭をポンポンと叩いているのだ。
信じられない。あんなことをされて、なぜ陛下は怒らない? なぜあの男の首を切り落とさない?
「……夢だ」
隣で震えていた同僚の侍女が、うわごとのように呟いた。
「これは悪い夢よ……。私たちはきっと、さっきの衝撃で気絶して、集団幻覚を見ているのよ……」
「そ、そうよね。でなければ説明がつかないわ……」
アレロナも同意したかった。
だが、現実はあまりに鮮明だった。
フレイヤが顔を上げる。その顔を見て、アレロナは息を呑んだ。
見たことがない。十年以上仕えてきて、一度たりとも見たことがない表情だ。
冷徹な仮面は跡形もなく消え失せ、そこにあったのは、恋焦がれた相手に再会して泣きじゃくる、ただの愛らしい少女の顔だった。
「……腹が減ってるんだろ? まだ食わなくていいのか?」
男がニヤリと笑って言うと、フレイヤは顔を真っ赤にして、また男の首筋に顔を埋めた。
「もうお腹いっぱいじゃ! 今はそなたに抱きしめられたい」
「そりゃよかった。ここまで腐るほど魔獣を食って、精をつけてきた甲斐があったってもんだ」
「……馬鹿者。もう放さぬぞ」
フレイヤは男の首筋に甘噛みし、所有の証を示すようキスマークをつける。
それは吸血鬼のようであり、母親の乳を求める赤子のようであり、そして熱烈な恋人同士のようでもあった。
アレロナたちはただ呆然と、口を開けてその光景を見守るしかなかった。
(陛下は……狂ってしまわれたのかしら)
アレロナの脳裏に、不敬な考えがよぎる。
過度なストレスと孤独で、ついに精神が崩壊し、目の前の薄汚い男を王子様だと錯覚しているのではないか。
そうでなければ説明がつかない。
あの男は何者だ? ただの不審者ではないのか?
男がふと、こちらに視線を向けた気がした。
アレロナはヒッと小さく悲鳴を上げ、体を縮こまらせる。だが男の目はすぐにフレイヤへと戻った。
「……フレイヤ」
「なんじゃ」
「そろそろ離れろ。お前の侍女たちが、見ているぞ」
男の言葉に、フレイヤがビクリと肩を震わせた。
そしてゆっくりと、本当に名残惜しそうにフレイヤは男から体を離す。
その目はゆらりとこちらを向いた。
アレロナは心臓が止まるかと思った。
殺される。この痴態を見られた口封じに、今度こそ全員殺される。
「……侍女共よ」
名前を呼ばれた。
逃げられない。
「は、はひッ!!」
裏返った声で返事をし、アレロナは床に頭を打ち付ける勢いで平伏した。
家族に別れの手紙を書いておけばよかった。そんな思考がぐるぐると周り、とにかく謝罪の言葉を口にする。
「も、申し訳ございません! み、見ておりません! 何も見ておりません! 私たちはただの石ころでございます、どうか、どうかお慈悲を……!」
「……何をしておる」
だが降ってきたのは、処刑宣告ではなかった。
呆れたような、しかしどこか浮き足立った弾むような声だった。
「顔を上げよ」
恐る恐る顔を上げる。
そこには、満面の笑みを浮かべたフレイヤがいた。
「侍女としての仕事を忘れたか。客がきたというのに無様に土下座とは」
そして飛び出るその言葉に、呆けるアレロナ含めた侍女たち。殺されると思ったのに、飛び出るはさっさと仕事しろだ。
「大切なお客様じゃ。……いや、客ではないな。この男は……」
少し言い淀み、フレイヤは頬を染めて男を見上げた。
「と、とにかく! もてなせ! 今すぐじゃ!」
慌てるようにフレイヤが叫んだ。
その声には、いつもの陰湿な重圧はなく、祝祭のような響きがあった。
「最高級の服を持ってこい! 特注品じゃ、倉庫の奥にある王族用の生地を使え!」
「は、はあ……」
「それと食事じゃ! とにかく考えられるだけの美食を用意せよ。酒もじゃ! 地下のヴィンテージを開けろ! 全部じゃ、全部持ってこい!」
「え、えええ……!?」
「部屋の用意もじゃ! わらわの寝室の隣……いや、わらわの寝室にベッドをもう一つ運び込め! 最高級の羽毛布団じゃ! 今すぐ! 一秒でも遅れたら承知せぬぞ!!」
矢継ぎ早に飛んでくる命令。その内容のあまりの破格さに、アレロナの思考が追いつかない。
王族用の服? 豪華な食事にヴィンテージワイン? 寝室への同室?
この薄汚い不審者に? もう意味がわからない。
「ぼーっとするでない! 早う行け! アレクが風邪でも召されたら、貴様ら全員市中引き回しの上、張り付けにするぞ!!」
そして最後の一言は、いつものフレイヤらしい理不尽な脅しだった。
「は、はいぃぃぃぃッ!! ただちに!!」
フリーズしていた侍女たちであるが、その言葉に弾かれたように立ち上がった。
理解などできない。納得もできない。
何が起きているのかと未だ混乱の果てにいる。だがとりあえず命の危機は過ぎ去って、今すぐフレイヤの願いを叶えないといけないというのだけはわかる。
故に侍女たちは、城中に声をかけてフレイヤの願いを叶えるために動き出す。
もうアレロナは、考えることをやめた。