魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
温かい湯の中に身を沈めながら、アレクは天井を見上げた。
ガラスドームには盛大に穴が開いている。花壇の上に瓦礫が積み上がり、ヒュオオオと吹き込む猛吹雪が、温室内の熱気と混ざり合って白煙を上げていた。
(……やっちまったな)
アレクは内心で頭を抱えた。
あんな派手な登場をするつもりなんて、これっぽっちもなかったのだ。
ただフレイヤが十年の間に最悪の女帝になっていて、それを止めるために早く駆け付けなければと思っただけ。
だがその思いが強すぎた。全速力で走って帝都にたどり着き、城を見たアレクが思ったのはとりあえずあそこに行こう、だ。
地獄で十年過ごしたアレクは、人間として常識を欠落しており、許可を取るなんて考えることなくそのまま普通に城へ侵入した。
偉い奴は一番上にいるという脳筋すぎる考えでこっそり最上階まで上がり、城の屋根の上までたどり着いたアレク。そして眼下にあったガラスドームの中に見つけたフレイヤ。
フレイヤを視界にいれた瞬間、アレクはもう何も考えられなくなった。
そのまま飛び降りてドームを突き破り、花壇に落下したのは完全にアレクが野生に染まり切った証明である。
だがそれもしかたのないこと。十年間アレクが過ごしたのは、人の常識が通用しない地獄である。
つねに氷点下を下回る極寒と、そこに適応した魔獣と呼ばれる化け物。食い物すらロクになく、魔獣と食うか食われるかという日々だった。
人類史上誰も生きて帰ったことがない地獄に落ちて、なんで生きていたかはわからない。
だがフレイヤにどれだけ命を吸われても生きていたアレクは、やはり何か異常なのだろう。
落下の衝撃にも、極寒の寒さにも、襲い来る魔獣からも生き残った。どんな状況に陥ろうとも、命が湧き出てきて死ぬことはなかった。
そんな地獄で過ごしたから、気づけば手に入れた圧倒的強さの代償として、少々の常識を失っていたのがアレクである。
「……はぁ」
アレクは一つため息をつくと、かつての己を取り戻さねばと決意する。
そしてプールのように広い浴槽の縁に視線をやった。
そこには、先ほどまで自分が着ていたボロ布――獣の皮やローブが、ゴミのように積み上げられている。
代わりに今の自分は素っ裸だ。裸なんてもはや気にすることもないはずだが、隣にフレイヤがいるのが問題だ。
「……どうしたアレク。湯加減が悪いか? 悪いのであればすぐ調整させる」
すぐ耳元で、甘い声がした。
アレクが視線を戻すと、すぐ目の前に――いや、密着する距離に銀髪の美女がいた。
フレイヤ・フォン・ローゼンブルグ。
アレクの初恋と初キスの相手であり、今はこの巨大な帝国を恐怖で支配する最悪の女帝。
フレイヤはアレクの左腕に自分の体を絡ませ、大きな胸をこれでもかと押し付ける。
上気した顔でこちらを見上げていて、その瞳は獲物を見つけた肉食獣のように妖しく、同時に捨てられた子犬のように潤んでいた。
「……いや、極楽だ。こんな広い風呂に入ったのは生まれて初めてだよ」
「そうか。ならばよい。気になったことは何でも遠慮なく言うのじゃ」
「あ、ああ。ありがとう」
フレイヤは満足そうに微笑むと、アレクの肩に頬を擦り付けた。
柔らかい感触。甘い香り。北の果てで生きてきたアレクにとって、それはあまりに劇薬すぎた。十年ぶりの雌の感覚に、アレクの雄の部分が反応している。
「あー、その……なんかごめんな。天井壊しちゃって。弁償はするよ」
「何を言う。気にするでない。壊したければいくらでも壊して良いぞ」
「いや、壊す趣味はない!」
そんな会話をしつつも、アレクはドキドキが止まらなかった。
何を話せば良いかわからない。どんな態度をとれば良いかわからない。
フレイヤに会うために地獄を生き抜いてここまでやってきたというのに、いざ会うと本当に何もわからないものだ。
「……はは。なんか、難しいな。どんな態度をとれば良いとか」
「十年も離れておれば、それもしかたのないことじゃ。じゃからもう一度わらわと時を歩もうぞ」
「……フレイヤ」
「アレク……」
そう言って二人は見つめあう。その目は恋する男女のもの。
されどその雰囲気に呑まれないのは、周囲の視線があるからだ。
「…………」
アレクは甘い空気に呑まれることなく周囲に視線を巡らせた。
巨大な観葉植物の陰には、数人の侍女たちが直立不動で控えている。
先ほどの有能そうな侍女たちと、入れ替わりでやってきた者達だ。
彼女たちは青ざめた顔で、目の前の光景――自分たちの絶対君主が、薄汚い男にベタベタと甘えている姿を見て、現実逃避するように虚空を見つめていた。
(……まあ、そうなるよな)
アレクは苦笑し、再びフレイヤに向き直った。
話さなければならないことは山ほどある。
「フレイヤ」
「なんじゃ」
「……お前、この十年間、何をしていた」
アレクの声色が少しだけ低くなった。
フレイヤの動きが止まる。彼女はアレクの腕から少しだけ体を離し、湯船の中で膝を抱えるように座り直した。その表情から甘さが消え、どこか拗ねたような子供っぽい顔になる。
「……待っておった」
「待ってた?」
「そなたが迎えに来るのを、ずっと待っておった。……それ以外、何もしておらぬ」
嘘ではないだろう。だがそれだけではないことも、アレクは知っている。
ここに来るまでに見下ろした帝国の惨状。酒場のマスターから聞いた話。煙突から煙の上がらない街。死んだような人々の目。
そして何より先ほどアレクに向けられた殺意と、命を啜る力。
「……街が死んでたぞ。みんな絶望していた」
「知らぬ」
「お前がやったのか、フレイヤ」
「……わらわの心が寒いのじゃ。だから世界も寒くなっただけじゃ」
フレイヤは悪びれもせず言った。
まるで「天気が悪いのは私の機嫌が悪いからだ」とでも言うような、傲慢極まりない理屈。
そんなフレイヤを見て、目じりが鋭くなるアレク。
「……人は?」
「食った」
フレイヤは短く答えた。
アレクの目を真っ直ぐに見据えて。
「腹が減って仕方なかったのじゃ。わらわは人を食わねばならぬ。それが生まれたときからの宿命じゃ。これは我慢でどうにかなるものでもない。じゃから、食った」
侍女たちがヒッと息を呑む気配がした。
それは帝国の日常であり、最大の恐怖だ。この十年で何千、何万人という人間が、フレイヤの飢えを満たすための生贄となり消えていったのだ。
「っ…………」
それがフレイヤの持つ呪いであるのはわかっている。望まず手に入れた、呪いだとわかっている。
食わぬという意思を持ったとしても、恐ろしい飢餓感がフレイヤを襲って命を食わせようとする。
人が飯を食って生きるように、フレイヤは命を食って生きる。それが自然界の摂理だ。
だが――人であるなら手段はあったはずだ。
「フレイヤっ……お前は」
食う相手を罪人にすれば良かった。それでも足りなければ仕方なく次に老人と、相手を選べば呪いの中でバランスは取れただろう。
食ってしまうのは呪いが悪いとしても、やりようはいくらでもあった。
だが民から一番美味い者をフレイヤは食った。そして国を破壊しようとした。
大きな大きな罪を、フレイヤは抱えている。
普通の人間なら、ここでフレイヤを罵倒するだろう。「化け物」「人殺し」と。
だが、アレクはそれ以上の言葉を呑みこんだ。ここでぶちまけて罵倒して、それでいまさら何かが変わるとは思えない。
故にあるのは、深い深い自責の念だけだ。
(……俺のせいだ)
約束をしたのに。その飢えを死なない自分が満たしてやると約束したのに。
ヘマをして捕まって、十年も北の果てを彷徨って、フレイヤを飢えさせてしまった。
だから全てを己の罪だとアレクは思う。それがアレクという人間だ。
「悪かったな。ひもじい思いをさせて。お前に人を食わせてしまった」
「……っ」
フレイヤの瞳が揺れた。
「そ、そなたは何も悪くない! 悪いのはそなたを捨てたクソ共じゃ!」
「俺がミスをして、俺が弱かったからだ。ごめんな。もう、どこにもいかない」
「アレク……!」
その言葉に、フレイヤは再びアレクに抱き着いた。今度は力強く、爪が食い込むほどに。
「その罪を、俺も背負う。ごめん。ごめんな」
フレイヤの罪は消えない。殺された人々は帰ってこない。
だからこそ、アレクは背負うと決めた。もう二度と誰も殺させない。フレイヤの飢えはアレクが満たすのだと。
しばらくの間、二人は無言で体温を確かめ合っていた。
だがそれは、とってもグチャグチャで、まるで薄氷の上にあるような、そんな脆さがあった。