魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
「うお……すげえ」
「ふふ。そう言ってもらえたのなら何よりじゃ」
案内されるがままにたどり着いた大広間は、目が痛くなるほど煌びやかだった。
天井からは巨大なシャンデリアが吊り下げられ、無数の蝋燭が昼間のような明るさを作り出している。
中央に鎮座する長大なテーブルには、銀の食器と山のような料理が並べられていた。
「……おいおい」
そしてアレクは席に着くなり、引きつった笑みを漏らした。
目の前にあるのは、仔牛の丸焼き、七面鳥のロースト、新鮮な魚介のマリネ、山盛りのフルーツ、そして年代物のワイン。
湯気と共に漂ってくる濃厚な香りは、これだけで家が建ちそうだ。
「どうしたアレク。足りぬか?」
茫然とするアレクの隣で、フレイヤが小首を傾げた。
フレイヤは上座に座ることなく。アレクの席のすぐ真横。給仕たちが「近すぎでは?」と目で会話するほどの至近距離に椅子を並べ、アレクの腕にへばりついていた。
「足りないわけないだろ。これ何人分だ? 俺とフレイヤの二人だけだぞ」
「全てアレク一人の分じゃ。わらわは腹が減っておらぬからな」
「いや……なら多すぎるというか」
「お腹一杯になったら残せ」
「お、おう」
残せと言われても、長く地獄を生きてきたアレクにとってはもったいないという思いしかない。
故に残ったら明日食べようとそう決める。
「他に食べたいものはあるか? 何でも用意させるぞ」
「い、いや。十分だ。これ以上お腹いっぱいになっちまう」
「ならば良いが」
チラッと周囲を見れば、いくらでもお代わりを持ってきそうなほど真剣な顔の侍女や給仕の姿がある。
彼らの目は一様にアレクを見て、決して不快にさせないぞと決意に満ちていた。
「では、食すぞアレク。冷めてしまう」
「ああ、頂くよ。……魔獣の肉以外の食事なんて、いつぶりかな」
アレクはナイフとフォークを手に取った。
マナーなど忘れてしまったが、今はとにかく腹に何かを入れたい。目の前のステーキにナイフを入れようとした、その時だった。
「待て」
すっと、白く細い手が伸びてきて、アレクの手を止めた。
「……フレイヤ?」
「なぜ自分で食べようとする?」
「は? いや、飯ってのは自分で食うもんだろ」
「ならぬ」
フレイヤは真顔で言った。
そして、アレクの手からナイフとフォークを取り上げると、自らステーキを一口大に切り分け始めた。
「そなたの手は、わらわを抱くためにあるのじゃ。食事ごときで疲れさせるわけにはいかぬ」
「いや過保護すぎるだろ……」
「口を開けよ。わらわが食べさせてやる」
アレクの言葉など一切聞かず、フレイヤは肉をフォークに刺して口元へと運ぶ。
それはいわゆる「あーん」である。帝国の支配者が、男に「あーん」をしようとしているのだ。
カチャリ、と背後で給仕の誰かがトレイを取り落としかける音がした。
幸いフレイヤはアレクしか見ていなかったため命拾いしたが、それも仕方ないほど異様な光景だ。彼らの常識を百八十度変える景色だ。
「ほら、どうした? あーん」
フレイヤは自分の口まで小さく開けて、アレクを促す。その顔は至って真剣であり、拒否権など存在しないという圧力を放っている。
アレクは観念した。ここで拒めば、フレイヤは「この肉が気に入らぬのか?」と激怒しかねない。
「……あー」
「んっふふ、よい子じゃ」
パクり。
口の中に極上の肉汁が広がった。柔らかく、噛む必要すらないほどの肉質。濃厚なソースの味。間違いなく一流の料理人が一流の食材を使って作ったものだ。
十年ぶりのまともな食事に、アレクの脳が震える。
「……うまい!」
「そうかそうか! ふふふ」
フレイヤは自分のことのように喜び、また次を切り分ける。
「次は野菜じゃ。バランスよく食わねばいけぬぞ」
「いや、自分で食うって」
「黙れ。わらわに任せるのじゃ」
そう言いながら食べる間も、次々と料理が運ばれてきた。
アレクは咀嚼マシーンと化し、フレイヤは給餌マシーンと化す。
その異様な光景に、周囲の侍女たちは白目を剥きかけていた。あの残虐非道な女帝陛下が、甲斐甲斐しく世話を焼く新妻になっている。
これは夢か。あるいは集団幻覚か。そんな奇妙だが、平和な時間が流れていた。
――その瞬間までは。
一人の若い給仕が、ワインの追加を注ごうと近づいてきた。
だが少し震えている。無理もない。意味不明な光景が目の前では繰り広げられていて、どこに地雷があるかわかったものではないからだ。
故にミスをしてしまう。
「あ……」
わずかに躓いたせいで、トレーの上で滑った赤ワインのグラスから、赤い液体が飛んでしまう。
そして――アレクが着ているシャツの袖口に、バシャっとかかり、赤いシミができてしまった。
それに一瞬、時が止まった。大広間の空気が文字通り凍り付いたのだ。
だがアレクは「あ、汚れたな」程度にしか思わなかった。
服など洗えばいい。これはフレイヤの物であるが、服などいくつもあったしアレクから謝れば問題はないだろう。
「す、すいません……! 申し訳ございません……ッ!」
「あ、ああ。気にす――」
給仕が真っ青な顔で悲鳴のような謝罪を口にする。アレクも許そうと口を開く。
だが、その声は遮られた。
「…………貴様」
カチャン、とフレイヤが手に持っていたフォークを皿に置いて、その音で全てがかき消されたのだ。
先ほどまで漂っていた甘い新婚のような空気は瞬時に霧散し、肌を刺すような殺気が広間を支配した。
フレイヤはゆっくりと、本当にゆっくりと首を動かし、震える給仕を見下ろしていた。
その瞳からは、アレクに向けていた蕩けたハートマークなど跡形もなく消え失せている。
あるのは、ゴミを見る目ですらない。存在してはいけない汚物を見る虚無の瞳だ。
「……誰が」
鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声。
「誰が、汚してよいと言った?」
「ひッ、あ、あう……へ、陛下、お許しを……!」
「答えよ! 誰の許可を得て、その薄汚いワインをアレクに垂らした!!」
フレイヤが立ち上がる。
怒りが顔に張り付いている。
命を吸い取る前兆が見える。
アレクの服が汚れた。たったそれだけのことだ。
だがフレイヤにとっては違う。アレクはフレイヤの命だ。フレイヤの魂だ。もう二度と傷つけさせないし、奪わせない。
アレクを傷つけるものがいたら、一族郎党皆殺しにするほどの愛がある。
それはワインをかけられたとて同じ。
許せるはずがない。万死に値する。いや、死ぬことすら生温い。
「……わらわのアレクを汚したな」
冷たい声音で呟いて、氷点下を下回る眼差しを給仕への向ける。
「その手を切り落とせ。……いや、足りぬな」
フレイヤは無慈悲に宣告した。
「一族郎党、全員を生きたまま皮を剥ぎ、塩を塗り込み、カラスの餌にしてくれる! ……アレクを汚した罪、その血と悲鳴で償うがよい」
「ひいっ……申し訳ございません! 申し訳ございません!」
それは冗談ではなかった。フレイヤは本気だ。
アレクにワインをかけた罪を一つを償わせるために、給仕とその一族を本気で皆殺しにしようと言うのだ。
あるいはワインをかけられたのがフレイヤであれば、アレクが傍にいる今、頭からひっくり返されたとしても激怒して罵倒するぐらいにとどめるだろう。
しかしことアレクが関われば違う。十年も恋焦がれたアレクへの狂気的な愛により、完全に正気を失っていた。
これが最悪の女帝。この世で最も恐ろしく、誰もが恐怖する女帝だ。
給仕は愕然として口をきけなくなり、他の侍女たちも悲鳴にならない声をあげる。料理人も絶句して、楽しい食事は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
ただ一人、アレクを除いて――
「…………はぁ」
アレクは溜め息をつき、ナプキンで袖のシミを拭った。
そしてゆっくりと立ち上がる。
その目は完全にブチ切れていた。