魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
大広間の空気は、完全に死んでいた。
誰も彼もが恐怖に氷つき、その当事者たる給仕の男は床に頭をこすり付け、涙と鼻水を流しながら懇願する。
「へ、陛下……お慈悲を……! いくらでも謝罪しますので、私の家族だけはどうか!」
「…………」
給仕は悲痛な叫びをあげているが、フレイヤは見向きもしない。
フレイヤの瞳にあるのは慈悲ではなかった。あるのはアレクを汚されたことへの底なしの憎悪だけだ。
「黙れ。虫けらの鳴き声など耳障りじゃ」
フレイヤが指を上げる。周囲の兵にハンドサインで命じ、その身を拘束しようとした。
先の言葉通り、手足を切り落とされ一族諸共カラスの餌にされるのだろう。
給仕の顔が真っ青になる――
「――おいやめろ、フレイヤ」
故にその地獄を止めようと、アレクが怒り顔で割って入った。
アレクはフレイヤの前に立ち塞がり、その視線を遮るように給仕を庇う。その行動に、兵達は動きを止めて、どうするべきかと右往左往。
「どくのじゃ、アレク。そなたには見せたくない」
「どかない。たかがワインをちょっとかけられたぐらいだぞ。こんなことで人を殺すな!」
「たかが、ではない!!」
フレイヤが叫んだ。
「そなたはわらわの全てじゃ! わらわの所有物じゃ! それを……ワインで汚すなど、万死に値する!」
「フレイヤ……っ。お前」
「もう、そなたを奪わせぬッ!!!」
魂からひねり出してきたような叫び声。フレイヤはそう本気で言っているのだ。
アレクにとってはどうでもいいことでも、フレイヤにとっては自分の愛する人を傷をつけられたのと同じ。いや、それ以上だ。
もう奪わせないという狂気的なまでの執着。たかがワインですら汚されたと感じる恐怖心。
フレイヤの愛は重すぎて歪んでいる。十年の歪みが、フレイヤを最悪の女帝にまで落としていた。
「俺が許すと言ってるんだ。俺が良いならそれでいいだろ」
「駄目じゃ! そなたが許しても、わらわが許さぬ!」
言葉が通じない。フレイヤは怒り狂ってもう冷静ではないのだ。
それが唯一大切だったアレクを十年も奪われたフレイヤの末路。もう二度と奪わせない。もう二度と傷つけさせないという強すぎる思いが、この怒りを生み出している。
アレクは歯噛みした。
フレイヤは恐怖に囚われている。自分の感情を制御できず、破壊することでしか精神の均衡を保てない状態だ。
(……言葉じゃ届かないか)
アレクは瞬時に思考を巡らせた。
力ずくで止める? いや、それではだめだ。フレイヤは抵抗すればするほど不安と恐怖に支配される。
今フレイヤを止めるには、安心させるしかないのだ。そのためにはたった一つだけ――
アレクは周囲にたくさんの人がいるのも考えず。一歩フレイヤに踏み込んだ。
「邪魔だと言うなら、そな――んぐっ!?」
フレイヤが何かを言いかけた瞬間だった。
アレクはフレイヤの細い手首をガシッと掴み、強引に自分の方へ引き寄せた。
よろめくフレイヤ。その無防備な顔に向けて、またあの日のように――
――キスをした。
重なる唇。
それはフレイヤに愛を伝え、安心させ、その胸に渦巻く恐怖を取り除くためのキス。
「――んんッ!?」
フレイヤの喉から、くぐもった悲鳴が漏れた。
何が起きたのか理解できていない。処刑命令を下そうとしていた口が、アレクの唇によって完全に封じられているのだ。
アレクは容赦しなかった。
逃がさないとばかりに後頭部に手を回し、さらに深く、強く押し付ける。
舌をねじ込み、フレイヤの口内を蹂躙する。
十年ぶりの甘いキス。あの頃飽きるほどにしたキスだ。それを今、している。
大広間に、二人の淫らな水音が響き渡った。
静まり返った空間だからこそ、その猥褻な音は大きく聞こえる。
使用人たちは全員目を丸くして、何が起きているんだと硬直していた。
数秒。あるいは数十秒。二人のキスは大広間の中心で行われて、その世界には二人しかいない。
たっぷりと愛を伝え、アレクが唇を離すと、銀色の糸が二人の間でとろりと引いた。
「……ぷはっ」
アレクが息を継ぐ。
目の前のフレイヤは、完全にフリーズしていた。
「…………ぁ♡」
フレイヤは呆然と口を開け、焦点の定まらない目でアレクを見上げていた。そこには先ほどまでの殺気が嘘のように四散している。
怒りという感情が、アレクに乱暴にキスされたという衝撃によって完全に上書きされたのだ。その愛を感じて、もう怒りもどうでも良くなる。
「……うるさいぞフレイヤ」
「ア、レク……」
アレクはわざとらしく、フレイヤの顎に手を添えて目線を合わせると低い声で囁いた。
親指でフレイヤの濡れた唇をぬぐう。目を細めてフレイヤを見つめる。
フレイヤはそんなアレクに力が抜けて、完全な雌の顔を浮かべていた。
「飯が不味くなる。……その口は、人を殺す命令を出すためにあるのか?」
アレクはフレイヤの耳元に顔を寄せ、底冷えするような声色で告げた。
「違うだろ」
その瞬間。
ボンッ、と音がしそうなほど、フレイヤの顔が真っ赤に染まった。
「あ……ぅ……」
フレイヤの瞳が潤み、トロンと蕩ける。一番偉い女帝なのに、全てを支配し、誰もが恐怖する女帝のはずなのに、アレクに屈服してしまう。
怒りは消滅した。代わりに点火したのは、十年分の渇きを一気に刺激された爆発的な発情だった。
アレクはフレイヤを黙らせた。力ずくで、乱暴に、皆が見ている前で。
その事実が、フレイヤの被虐心を満たしていく。怒りなんてわくはずがないのだ。
「……アレク」
「わかったか?」
「うん。うん。わかった」
「そうだな。こんなことで怒っても、俺は喜ばないぞ」
腰砕けになったフレイヤの腰にそっと手を置いて、至近距離で目を合わせながら言い聞かせる。
「俺の知るフレイヤは寂しがり屋で、でももっと優しい子だったはずだ。
「あっ――」
そしてアレクその台詞を口にした瞬間、フレイヤの顔が一気に青ざめた。
怒りや興奮は吹き飛んで、逆に恐怖で支配される。
今自分は何をしようとした。アレクの服が汚れた。ただそれだけのことで、給仕をその家族ごと惨殺しようとしたのだ。
アレクの目の前で。再会したばかりの、最愛の人の目の前で。
「ち、ちが。そのっ」
ガタガタと震えて、血の気が失せる。さっきもう人は殺さないと誓ったばかりなのに、舌の根の乾かぬ内にこの醜態だ。
「ご、ごめんなさい! わらわが悪かった。許してくれ。何でもする。ごめんなさいっ。ごめんなさいっ!!」
「……それを謝るのは俺じゃないだろ?」
その台詞に、慌ててフレイヤは給仕に向かって頭を下げた。
「ご、ごめんなさいなのじゃ。わらわが、悪かった」
「「「えっ?」」」
謝罪の言葉と、周囲の絶句。
あの最悪の女帝が、給仕に向かって頭を下げながら謝罪の言葉を口にした。
意味が分からない光景。この十年で一度も見たことがない姿に、給仕どころか周囲の者たちも目を白黒させている。
「あ、い、いえ! 撤回していただけるのであれば! 何の問題もございません!」
「そうか。すまないな。俺からも謝らせてくれ」
「い、いえ! 頭を上げてください!!」
アレクが頭を下げれば、ぶんぶんと給仕は手を振ってその頭を上げようとする。
これ以上は給仕にとっても負担であろうとアレクは頭を上げる。
周囲の空気は弛緩して、最悪の未来が切り抜けられたことに腰が抜けたような静寂だ。
そしてフレイヤは――
「反省したかフレイヤ?」
「反省した。反省したのじゃ。もうしない。許してくれっ」
アレクに嫌われたくない一心で、フレイヤは涙ながらに反省の言葉を口にする。
その姿は、飼い主に叱られて怯える子犬そのものだ。これならもう最悪な女帝になることはないだろう。
そうアレクが安心した――その直後だった。
「……ん、ぅ……アレク。ごめん、なさい、なのじゃ」
フレイヤが、すり寄るようにアレクの体にしだれかかってきた。
華奢な手が、アレクの服を――先ほど汚されたはずのシャツを、今度は自分の手汗と体温で汚すように、ぎゅっと握り締める。
「……おい、どうした? どこか具合でも悪いのか?」
アレクが尋ねるのも無理はない。
フレイヤが頬を林檎のように真っ赤に染め、内股をモジモジと擦り合わせながら、何かを堪えるように身をよじっていたからだ。
その息遣いは荒く、熱っぽい。
「……ちがう」
「違う?」
「……変なのじゃ」
フレイヤが潤んだ瞳で、上目遣いにアレクを見上げた。
そこにあるのは反省の色。そして内から湧き上がる途方もない興奮だ。
フレイヤとろりと蕩けた瞳をして――雄を求める、雌の顔を浮かべていた。
「怒られたのに……そなたに強く言い聞かせられたら……お腹の奥が、熱くて、変になってしまったのじゃ……」
「お前なあ……」
「……うずくのじゃ。アレクに叱られた場所が、胸の奥が、ジンジンして……」
フレイヤは恥じらうように、けれど扇情的に腰をくねらせた。
叱責され、支配されたという事実が、フレイヤの中に眠っていたマゾヒズムを爆発させてしまったらしい。
「……あ、あの。アレクぅ」
「何だ?」
甘く、粘つくような声。
フレイヤはアレクの首に腕を絡ませ、耳元で熱い吐息と共に囁いた。
「そなたが、欲しいのじゃ♡ じゃないと、もう、変になりそう」
「……まったく。まだ食事の途中だろ? 十年経ってもわがままだな」
「あ、ん♡ だ、だって。アレクは、嫌か?」
アレクは溜め息をついた。だが作戦は成功だ。成功しすぎたと言ってもいい。
給仕の命は助かったが、代わりにアレクが襲われそうだ。しかしもうそれでいい。
この雌は一回ちゃんと躾ないといけないと、アレクの雄の部分が訴えるから。
「いいや、ベッドに行こうか」
「や、やった」
アレクが頷くと、フレイヤはパァっと花が咲くような笑顔になった。
フレイヤはアレクの腕を引くと、競歩のような速さで歩き出す。
「急ぐぞ! 一秒も無駄にはできぬ! 今すぐわらわを無茶苦茶にするのじゃ!」
「おい、走るな。転ぶぞ」
「知らぬ! もうお腹の奥が変になってしまったのじゃ!」
恥じらいもなく叫びながら、フレイヤはアレクを引きずって出口へと向かう。
それに苦笑しながら引きずられて、アレクはちらりと後ろを振り返った。
そこにはまだ茫然としている給仕と、アレロナたち侍女がいた。
彼らはまだ、動けない様子。
アレクはそんな彼らに向かって困ったように眉を下げ、片手を上げてみせた。
それは『すまないな、あとは任せてくれ』そんな意味を込めた、無言のジェスチャー。
それを見た瞬間、アレロナの目から涙が溢れ出した。
「……神よ」
誰かが呟いた。
「救世主が……降臨された」
あの絶対的な死の宣告を、たった一度の口づけで覆した。
最悪の女帝を完全なる雌にして、連れて行ってしまった。初めて死が覆り、使用人たちは奇跡だと言うのだ。
これが求め続けた救いだ。
「……勇者だ。彼が勇者なのだ!」
誰かがそう叫んだ。
勇者とは、魔王を倒す英雄のこと。古き物語に登場する英雄のこと。
魔王たるフレイヤを従えた、アレクこそが勇者であると彼らは言う。
それはアレクにとっては間違いかもしれないが、彼らにとっては間違いではなかった。
「っ何をしているのですか!」
そして侍女アレロナが叫んだ。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだが、瞳には希望の光が宿っている。
「アレク様が、御身を呈して陛下を鎮めてくださったのです! 私たちは私たちの仕事を全うしますよ!」
アレロナは少しだけ頬を染め、しかし力強く指示した。
「精のつくお夜食の準備を! あのお二人の夜は、きっと長くなりますから!」
「「「はいっ!!」」」
使用人たちの返事が、大広間に響き渡った。
それは恐怖による悲鳴ではなく、十年ぶりに彼らが取り戻した人間としての声だった。