魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
少年が忌み子を救済してから十年の月日が経った。
あの始まりの日から――現在。
神聖ドラグノフ帝国の帝都は、分厚い鉛色の雲に覆われていた。
街を行き交う人々は皆、病人のように痩せこけている。その目は未来への希望を捨てていて、まるで死人が動いているようだった。
それもそのはずで、この国において人間は民ではない、資源だ。
税の代わりに寿命を納め、労働力の代わりに生気を捧げる。
運が悪ければ城へ連行され、二度と戻らない。
こんな狂った国を作ったのは、十年前に即位した女帝である。
先代皇帝たる父を殺し、恐怖により神聖ドラグノフ帝国を一夜にして支配した最悪な女帝。
そんなこの国に完全なる支配を敷いている最悪の女帝は、帝都の中央にある帝城にて目覚めを迎えていた。
「……ふぁ、んぅ。不味い。空気が腐っておる」
天蓋付きの巨大な寝台で、美しき女帝が目を覚ます。
その者の名前はフレイヤ・フォン・ローゼンブルグ。かつて忌み子と呼ばれ、北の地で幽閉されていた少女が、美しき女性へと成長しその玉座を我が物としていた。
「ふぁ……ん」
もう一度フレイヤが欠伸をすれば、豪奢なネグリジェの肩紐がずれ落ち、露わになった胸元がたわわに揺れた。
子供の頭ほどもある豊満な胸。重力に逆らうようなハリと、雪のような白さ。まるで芸術品のような肢体だ。
だがその寝台の傍らには――見るも無残なゴミが転がっていた。
それはかつては屈強な近衛兵だったであろう男の死体だ。いまや水分の一滴まで絞り取られ、ミイラと化している。
「貴様らはゴミを掃除せず見ていることしかできぬのか? 侍女共よ?」
「は、はい! おはようございます陛下。直ちに清掃を……」
控えていた侍女たちが、その言葉に悲鳴を押し殺して駆け寄る。
そして紅いの瞳が、足元の死体を冷ややかに見下ろした。
「はぁ。若いくせにコクがない。まるで水で薄めた安物のワインじゃ。……最近の雄は、どいつもこいつも栄養失調なのかのう」
フレイヤは不満げに鼻を鳴らすと、死体を跨いで寝台を降りた。
そこに人間を見るような目線はなく、食事を終えた後の皿を見る目だ。
フレイヤが肌を許し、人間として見ているのはこの世でただ一人と決めている。それ以外はすべて、手すら触れさせる価値のない餌に過ぎない。
ただ
「まあよい。……着替えさせよ。今日は黒の気分じゃ」
フレイヤはこの惨状に幾ばも心が揺らぐことなく、死体が転がった部屋の中で侍女に着替を命じていた。
◇
正午。謁見の間。
深紅の絨毯が敷き詰められた広大なホールの最奥。
見上げるような高さにある玉座に、フレイヤは頬杖をついて座っていた。
その姿はあまりにも美しく、あまりにも禍々しい。
漆黒のドレスは彼女の透き通るような肌の白さを際立たせていた。胸元はカットされ、深遠な谷間が露わになっている。組まれた足は、ドレスのスリットから眩しいほどの太ももを覗かせていた。
玉座の下には、数十人の官僚たちが青ざめた顔で整列している。
その中央で、泥にまみれた一人の男が額を床に擦り付けていた。地方の領主である。
「へ、陛下! どうか、どうかご慈悲を! これ以上の生気徴収は不可能です! 我が領地の男たちは皆、あらかた吸い尽くされ、畑を耕す力も残っておりませぬ!」
男の悲痛な叫びが謁見の間に響く。
だがフレイヤは欠伸を噛み殺し、興味なさそうに自身の爪先を眺めていた。
「慈悲、か。……おい、宰相。わらわの辞書にそのような単語は載っておったか?」
「いえ、陛下。そのような無駄な言葉は、先代皇帝と共に燃やしてしまいましたゆえ」
「そうじゃったな」
フレイヤはクスクスと笑う。鈴を転がすような、しかし聞く者の心臓を凍らせる笑い声。
「よいか、愚民。勘違いをしておるようじゃが、貴様らが畑を耕すのは何のためじゃ? 自分たちが食うためか? 家族を養うためか?」
「そ、それは……」
「違うであろう。わらわに捧げる極上の食材を育てるためじゃ」
フレイヤの声には一点の曇りもない。それは本心からの言葉だ。
彼女にとって、国民とは牧場の牛豚と同じ。肥えさせ、増やし、そして食べる。それ以外の存在意義など認めていない。
「男が痩せ細っておるなら、もっと産ませればよい。もっと働かせればよい。家畜が飼い主に向かって疲れたから乳を出せないなどと……」
スッ、と。フレイヤの瞳が細められ、怪しい光を放った。
「わらわの食糧事情に口を出すなど、万死に値するとは思わぬか?」
フレイヤが玉座から、気怠げに人差し指を向けた。
距離にして二十メートル。物理的な凶器など届くはずもない距離。
だが、この国の支配者にとって、距離など無意味だ。
「ひっ、お、お助け……! 私には妻が、娘もいるのです!」
「黙れ。耳障りじゃ」
パチン。
指を弾く乾いた音が、静寂を切り裂いた。
瞬間。
領主の口と鼻から、青白い霧のようなものが噴き出した。
男は悲鳴を上げる暇もなかった。
肉体が内側から急速に萎んでいく。皮膚が水分を失って張り付き、眼球が溶け、髪が抜け落ちる。
カラン、と乾いた音がして、床に転がったのは――衣服に包まれたミイラのような残骸だった。
一瞬前まで生きて懇願していた人間が、ただのゴミへと変わる。
あまりにあっけない命の冒涜。
フレイヤの指先に吸い込まれた青い霧を、彼女は舌でペロリと舐め取った。
「……不味い。酸味が強すぎる。下の下じゃな」
フレイヤは汚いものを見る目で、かつて領主だったものを見下ろした。
人の命を吸ったというのに、そこに対する感想は何もない。
「掃除しておけ」
「は、はっ!」
「……はぁ、退屈じゃ。どいつもこいつも、すぐに壊れる。すぐに死ぬ。脆すぎるわ」
フレイヤは深い溜息をつき、豊満な胸を大きく上下させた。
この世界は、もうフレイヤにとって巨大なビュッフェ会場に過ぎない。
好きな時に、好きなだけ、好きなものを食らう。
誰も彼女を止められない。誰も彼女を咎められない。彼女の美貌と力は、絶対的な法として君臨している。
だが、満たされない。
何千人を殺そうと、どれだけ豪華な宮殿に住もうと、胸の底に空いた穴が塞がらない。
あの雪の日に味わった、脳が溶けるような命の味が忘れられないのだ。
「わらわの腹を満たす唯一はもういない――」
フレイヤは玉座に深く沈み込み、遠い目をした。
思い出すのは、あの日の少年の顔。
黄金の瞳。不遜な口調。そして、己を受け入れた熱い血の味。
だが、もういないのだ。フレイヤがいつ最悪の女帝になったのかと聞かれれば、少年を失った日と答えられる。
アレクさえいればよかった。アレクさえいれば女帝は生まれなかった。だが失ったから、人々が懸念していた通り、最悪の忌み子が最悪の女帝になってしまった。
人の命を吸いとる最悪の魔女。あるいは魔王。
これが、あの日の救済の成れの果てだ。
一人の少年が見捨てられるべきだった怪物を救い、その心に愛という名の呪いを刻み込んだ結果。
世界は今、一人の女の満たされぬ空腹によって滅びようとしていた。