魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
かつての帝城の執務室とは、息をするのも躊躇われるほど張り詰めた空間だった。
それはまさに地獄というのが相応しく、官僚たちはつねに恐怖と隣り合わせ。
だが今は違う。羽ペンが紙の上を走る軽快な音が、部屋の中で楽し気に響いていた。
そのペンの主、女帝フレイヤ・フォン・ローゼンブルグは、山のように積まれた書類を次々と処理していた。
その表情は真剣そのものだが、時折甘い溜め息が混じる。
「……んふっ」
ペンを走らせながら、フレイヤの唇が勝手に弧を描く。
まただ。また思い出してしまった。
意識を仕事に向けようとしても、思考はどうしても昨夜の記憶を思い出す。
フレイヤ体の奥、下腹のあたりがじんわりと熱かった。
昨夜アレクに注ぎ込まれた精液が、まだお腹の中に残っているような気がするのだ。
(昨日のアレクは、凄かったのう……)
フレイヤの脳裏に鮮明な映像が蘇る。汗に濡れたアレクの顔。耳元で囁かれた蕩けるような愛の言葉。
そして何より、フレイヤの子宮まで貫き、頭が真っ白になるほど命を注ぎ込んでくれたあの男根の感覚。
かつてフレイヤを苦しめていた飢えはもうない。
アレクの体液を、そして命を飲むたびに、空っぽだったフレイヤの魂は満たされていく。今はただ、アレクに愛されているという事実だけで、胸が張り裂けそうになるほど幸せだった。
(早く会いたい。早く夜にならぬか。今日はどんな風に愛してもらおうか……)
妄想は止まらない。
机の下で、フレイヤは無意識にもじもじと脚をすり合わせた。
早くアレクの声が聞きたい。あの大きな手で頭を撫でてほしい。「いい子だ」と褒めてほしい。
そのためにフレイヤは今、必死に政務と格闘しているのだから。
「……陛下?」
そして不意にかけられた声に、フレイヤはびくりと肩を震わせる。
顔を上げると、官僚が心配そうな顔をしていた。
「あ、……な、なんじゃ?」
「いえ……先程からペンが止まっておられますが。それに、お顔が少々赤いようです。もしやご気分でも優れませんか?」
「なっ……!」
フレイヤは慌てて自分の頬に手をやった。熱い。鏡を見なくても分かる、今の自分はきっと、だらしなくニヤけた顔をしているに違いない。
威厳ある女帝の仮面が、剥がれ落ちているのだ。
「な、なんでもない! 少し……そう、部屋が暑いだけじゃ!」
「なるほど。では窓を開けましょうか?」
「不要じゃ! それより次の書類をよこせ。さっさと終わらせるぞ!」
フレイヤは顔を伏せ、誤魔化すように再びペンを握った。
官僚は不思議そうに首を傾げながらも、新しい書類の束を差し出す。
危ないところだった。だが、この高鳴る鼓動だけはどうにもならない。
フレイヤは心の中でアレクの名を呼びながら、逸る気持ちをペンの速度に変えていった。
◇
窓の外が茜色に染まる頃、ようやく最後の仕事を終えた。
フレイヤは大きく伸びをする。
「終わった……!」
完璧だ。今日の仕事はすべて達成した。これで心置きなくアレクの元へ行ける。
今日はアレクに抱きしめてもらって、キスをしてもらい、そのままベッドへ連れ込もう。
そうと決まれば善は急げだ。フレイヤは弾むような足取りで席を立った。
侍女たちの同行を断り、スキップ交じりに部屋へと戻る。
そして笑顔で扉を開けた。
「アレク! 終わったぞ、待たせたのう!」
しかし部屋に、アレクの姿はなかった。
「むぅ……アレク?」
フレイヤの笑顔が固まる。
いない。気配もしない。最近、こういうことが増えていた。
フレイヤが仕事に集中している隙を見て、アレクはどこかへ行っているのだ。
「また、いないのじゃ……」
胸の奥にチクリと冷たい棘が刺さる。
最初は気にしていなかった。元庭師として、庭でも見に行ったのだろうと思っていた。
だが、戻ってきた時のアレクは、いつもどこか疲れた顔をしている。
そして「どこへ行っていた?」と聞いても、「ちょっと散歩にな」と曖昧に笑うだけだ。
「なぜじゃアレク。いつもどこへ行くのじゃ……」
ポツリと呟き、不安がフレイヤの心に滲み出していく。
その脳裏を駆けるのはロクでもない思考だ。
アレクを疑いたくはない。あの愛が偽りだなんて思わない。
けれど、アレクは優しすぎる。その優しさにつけ込んで、彼を誑かそうとする者がいたら?
悪い想像ばかりが膨らむ。
例えば、城内のどこかに潜む女狐。
フレイヤに隠れてアレクに媚を売り、アレクの優しさにつけこんで彼を独り占めしようとする泥棒猫がいたら?
『アレク様ぁ、私の方がお似合いですよぉ……』
そんな幻聴が聞こえた気がした瞬間。
ピキッ――。
乾いた音が響き、フレイヤは部屋に落ちていたペンを踏んで真っ二つにする。
「……殺す」
無意識に、言葉が漏れた。許さない。
アレクは己のものだ。髪の毛一本、視線ひとつに至るまで、すべてがフレイヤだけの所有物だ。
それを奪おうとする輩がいるのなら、それが誰であろうと生かしてはおかない。
手足を氷漬けにして砕き、その心臓を抉り出して……。
「っ、――ぁ」
そしてはっとして、フレイヤは自分の口元を押さえた。
全身が震える。今の自分の思考にだ。
(何を考えておる……わらわは……)
アレクは言ったはずだ。「もう誰も殺すな」と。
二人で罪を償い、平和な国を作ろうと約束したはずだ。
それなのにフレイヤは今、影も形もない相手に対してかつての暴君そのものの殺意を向けた。
気に入らない者は消す。邪魔者は排除する。
それは一番、アレクが悲しむことだ。
「……だめじゃ。落ち着け。落ち着くのじゃ」
深呼吸を繰り返す。
もし、こんな嫉妬に狂った醜い姿を見られたら、アレクに嫌われてしまうかもしれない。
それだけは嫌だ。死ぬよりも辛い。
(アレクを信じるのじゃ。きっと何か、事情があるはず……)
フレイヤは震える拳を握りしめ、乱れた心を必死に鎮める。
確かめに行こう。
ここで一人で考えていても、悪い妄想が膨らむだけだ。
アレクを探して、その顔を見て、ギュッと抱きしめてもらえば、こんな不安なんてすぐに消えるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、フレイヤは誰もいない部屋を後にした。
◇
静かにフレイヤは帝城を歩く。アレクを探すというのは一見難しいことのように思えるが、この城には多くの人間がいる。
何人かに尋ねて話を聞けば、目撃している者が居る。あとは情報を重ね合わせれば、アレクの居場所は見えてくるのだ。
それによるとアレクがいるのは城の外れ。戸籍などが保管されている部屋らしい。
普段人が訪れないというそこは、確かに浮気場所にはピッタリだ。そんな嫌な予感に支配されたフレイヤは、静かに歩いて戸籍管理室へ近づいていく。
すると光の漏れる扉の奥から、確かな声が聞こえてきた。
(……見つけたぞ)
フレイヤは密かに部屋の前に立つ。中から聞こえてくるのは愛しいアレクの声だ。
だがそのトーンはいつもの明るいものではなく、どこか低く沈んでいる。
「……駄目か。南部の都市部にも名前はない」
深刻そうな声。
フレイヤは唾を飲み込み、心臓が脈打つのを抑えながらそっと扉の隙間から中を覗き込んだ。
(アレクめ、いったい何を……)
そう考えながら、フレイヤは視線を走らせる。しかし、そこにいたのはフレイヤの思うような泥棒猫ではなかった。
書類の山に埋もれるようにして座っていたのは、白い髭を蓄えた老人――確か元内務大臣だ。
「……むっ?」
その光景にフレイヤは拍子抜けして、張り詰めていた肩の力を抜いた。
なんだ泥棒猫はいなかったのかという安堵と、馬鹿な妄想をしてアレクを疑ってしまった罪悪感。そしてなら何をしているのだという好奇心がフレイヤの中で渦巻いた。
(驚かせおって……。まったく、アレクも物好きじゃのう)
故にフレイヤは、脅かしてやろうかと思案した。「こんな遅くまで何をしておる!」と飛び出して、驚くアレクに抱きついて甘えてやろう。
フレイヤは悪戯っぽい笑みを浮かべ、ドアノブに手を掛けた。
――その時だった。
「やはりアレク様のご家族を探すのは至難の業かと」
そんな声が聞こえてきて、瞬間フレイヤは背筋をゾクッと凍えさせた。
アレクの家族。その言葉に何やら嫌な予感というか、悪寒がこみ上げる。
「だけど、諦められません。どれだけ難しくても、全部確認します」
「ええ。私も存じております。ならなおさら二人では難しいのです」
言葉のふしぶしから察するに、どうやらアレクは家族を探しているらしい。
だが家族なんて、故郷にいるはずだ。まさか引っ越したのかと考えるが、民がそう簡単に引っ越すはずがない。
何か引っ越さねばならない理由がなければ――
「あっ……」
その瞬間脳裏を駆けるのは、フレイヤが犯した過去の罪だ。
報告を受けたではないか。北部の徴収が規定通りに行っていないと。徴収は許してくれ、滅んでしまうと嘆願書が届いてたはずだ。
その報告は、何度も聞いた。何年も前から聞いている。
そしてその度に、フレイヤも全てがどうでもいいと徴収を命じた。
労働力を失った北部が、どうなるかをわかって命じた。
「ぁ……アレ、ク……」
北部は厳しい寒さの世界だ。フレイヤが求める生命力に満ちた若い男を徴収すれば、村々は滅ぶだろう。
その中にアレクの故郷があったとしたら?
かつてフレイヤが暮らした離宮があり、アレクが生まれた最北の町。最も冬の寒さが厳しいあの地から若い男を取るだけで、立ち行かなくなることは、あの寒さを経験したフレイヤは痛いほどわかるのだ。
「あっ……い、あ。――――おぇ……」
嘔吐感が込み上げてきた。
己が犯した罪を、今、目の前へ突き付けられた。
何よりも大切なアレクの家族を、フレイヤは間接的にでも殺したのだろうか。
あるいは今まで食った中で、アレクの親しい友人がいたのだろうか。
それを考えた瞬間、眩暈や吐き気、罪の意識にフレイヤの心臓は締めあげられる。
フラフラと足取りが乱れた。
「――なので人手が必要かと存じます。あの大寒波の日から五年分の記録を探すとなると、二人では年単位の時間がかかってもおかしくありません。私の伝手でもう何人か」
「いえ、あまり大事にするとフレイヤの耳に届いちゃいそうで」
そんなアレクの言葉が、フレイヤの耳をうった。
ドアの隙間から見えるアレクの横顔は、憂うように美しい。
「今フレイヤは、変わろうとしているんです。そんなフレイヤにとって、これは大きすぎる現実だ」
アレクは、フレイヤを良くわかっている。
「受け止めて、反省するということを通りすぎてしまうと思います。だからフレイヤが受け止められるようになるまでは、知られたくないんです」
「……アレク様は、優しいですな」
その言葉を聞き、フラフラと、フレイヤは扉から離れた。
「はぁ、はぁっ……」
その足取りは幽鬼のようであり、罪を抱えた咎人のもの。
アレクはよくわかっている。もしアレクの家族を殺してしまったかもしれないとフレイヤが知ったら、平常でいられるはずがない。
フレイヤの中にはアレクしかいないのだ。アレクだけが何よりも大切なもの。
その最愛の人の家族を、己の手が奪ったとしたら?
その現実にフレイヤは壊れてしまう。受け止めきれるはずがない。
「さ、探さねば……」
フレイヤはポツリと呟いた。
女帝としての全権力を以て、アレクの家族を探し出す。それがフレイヤのできることだ。
見つかればそれで良い。しかし見つからなかったら。あるいは死体が見つかってしまったら。
フレイヤは己を許すことができなくなるだろう。
幸せだった日々が一変し、過去がフレイヤに絡みつく。
己が罪は、決してフレイヤを逃がしてくれなかった。