魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
昔、昔の話だ。
とても寒い、吹雪の舞う町があった。帝国領最北に位置して、忘れられた離宮が存在するという以外特筆して何かあるわけでもない、最北にある寂れた地。
そんな地に住む庭師の父と、針子の母の間に生まれた普通の男の子。それがアレクだ。
そんなアレクにとって、父は尊敬するべき人物だった。
離宮に雇われ、毎日のように丁寧な仕事をする父。
高い技術を持ちながら、とても厳格で優しい父への尊敬の念は、すでに幼少の頃から生まれていたのだろう。
「父さんは、なんでそんなに丁寧なの?」
「……どうした、アレク」
そんなある日。
見習いとしてその仕事を手伝う中で、ふとアレクはそんな疑問を呈していた。
「兵士達はいつも酒ばかり飲んで、適当だ。この離宮に勤めてる人はみんなそうだよ。出世もないし、陛下の目も届かないからって。いつも、適当に仕事してる」
「……そう、だな」
父は一度、剪定バサミを動かす手を止めた。
そして父は無愛想に、けれど愛おしそうに目の前の枝を見つめ、それからアレクの方を向き直った。
「アレク。お前は、誰のためにこの土を弄っている」
「え? そりゃ、離宮の庭を綺麗にするためだけど……。でも、誰も見てないし、陛下だって一度もここには来ないし……誰、だろ」
離宮に勤める者たちは、中央から左遷されてきたような者ばかりだった。彼らは日々を怠惰に過ごし、酒に溺れ、雪に閉ざされたこの地を呪っている。
そんな者たちに、庭の造形がどうだとか、花の美しさがどうだとかを理解する感性などあるはずがない。
だからこそ幼いアレクには、父のその徹底したこだわりが、報われない無駄な努力のように見えていたのだ。
だが父はふっと、息を吐いた。
「いいか。庭師の仕事はな、誰かに見せて褒めてもらうためのものじゃない」
父はしゃがみ込み、雪がとけて露わになった地面を大きな手で撫でた。
「土は嘘をつかない。手を抜けば根は腐り、心を込めれば春に必ず芽吹く。俺がこの庭を丁寧に整えるのは、陛下の目を恐れているからでも、役人に認められたいからでもない。この目が、自分の仕事を厳しく見張っているからだ」
父の瞳は、職人の誇りに満ちていた。
「もし俺が適当な仕事をすれば、この庭は死ぬ。……誰が見ていなくとも、俺が俺を尊敬できるように働く。それが男の、職人の格好良さというものだ。わかったか、アレク」
その言葉は、少年アレクの胸を貫いた。
誰の賞賛もいらない。ただ自分という観客に対して、誇れる仕事を成し遂げる。
それまで面倒な作業だと思っていた草むしりや土運びが、その瞬間から無駄な努力ではなく大切な作業のように思えてきたのだ。
「……うん。父さん、かっこいいや」
「ふっ。だが、人に見られるということもしっかりと意識しなければな。庭は自分のためだけに作るものではない。独りよがりな仕事。それもまた駄目だ」
そう言いながら、アレクの頭を父は無骨な手で乱暴に撫でた。
「俺も、父さんみたいな立派な庭師になるよ!」
「はっはっは。頑張りなさい。そうして……母さんみたいに綺麗な嫁さんをもらって、幸せになるんだ」
「うん!」
そんな、古い記憶があった。まだ離宮にフレイヤが来る前。アレクもとっても幼くて、まだ庭師のイロハもわかっていなかった頃。
そんな幸せな記憶が、あった――
◇
帝国の暗部というのは非常に優秀な存在だった。それが総員でとなれば、すぐに結果をもたらすもの。
アレクの両親を探すよう命じた数日後の朝、まだ寝巻用のドレスを身に着けたフレイヤは、アレクを起こさぬよう起き上がり、執務室にて腰かけていた。
「……報告せよ」
フレイヤの目の前にいるのは、暗部の長。
その手には、数枚の報告書があり、フレイヤの命令にすぐさま差し出してくる。
報告書を受け取るフレイヤの指先は、わずかに震えていた。
暗部の長は無機質な声で、淡々と事実を紡ぎ出す。
「アレク様のご両親は五年前、大寒波の影響で故郷を捨てて移住をしたようです。北部の中心都市へ入った記録が残っておりました」
「……そうか。ならば、そこにおるのじゃな?」
フレイヤの声は、縋るように震えていた。
そんなフレイヤに、感情を見せず男は告げる。
「いえ……当時の都市は急激な難民の流入、そして男手の不足により経済が完全に崩壊しておりました。そんな状況では働き口はなく、食料も枯渇。記録によれば、二人は移住から三か月後の夜、路上にて餓死した状態で発見されております」
ドクン、とフレイヤの心臓が鳴り響いた。
「現在は都市の外れにある共同墓地にて身元不明、あるいは引き取り手のない死体として、一括で埋葬されております」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
思考が上手く働かない。どうにか暗部の長を下がらせて、フレイヤは崩れ落ちるように椅子に深く沈み込み、報告書を握りしめたまま込み上げる嘔吐感に堪えた。
「わ、わらわが……殺した?」
確信だった。
大寒波という天災はきっかけに過ぎない。町に男手があれば、大寒波も凌げたはずだ。
都市に活気があれば、二人は働き口を見つけ、温かなスープを飲んで冬を越せたはずだ。その全てを、フレイヤの暴食が奪ったのだ。
「おぇ……、げほっ……!」
激しい吐き気に襲われ、フレイヤは口元を押さえた。
腹部の奥。昨夜アレクに注ぎ込まれた精液が、とても気持ち悪く思えた。こんな最悪の女の胎に、アレクの精液など入っていて良いはずがない。
「アレク…………アレクッ」
そして自らの存在そのものが、この世で最も汚らわしい呪物のように思えた。
アレクの両親が極寒の路上で、飢えに苦しみながら命を散らしたその時、自分は何をしていた?
王座に座り、つまらぬ顔で誰かの命をすすっていた。
フレイヤの瞳から、ボロボロと涙が溢れ出した。
報告書を火に投げ込めば、この事実は闇に葬れる。
アレクには何も言わなければ良い。これは優秀な帝国の暗部だから得られた情報。戸籍を必死に見ることしかできないアレクでは、掴むこともできないだろう。
そうすればアレクはいつか諦め、これからも自分の隣で笑ってくれるだろう。
いつものように愛していると囁き、優しいキスをくれるだろう。
隠し通せば、この〝幸せ〟を守ることができる。
「……ぁ、ああ……」
だがその思考が浮かんだ瞬間、フレイヤの脳裏にはアレクが毎晩必死に書いている紙面が浮かんだ。
拙い文字で並んだ、二人の名前。アレクはあんなにも純粋に、自分と並び立とうとしてくれている。
それなのに自分は、アレクの家族が死んだ事実を隠し、さらに嘘という裏切りを重ねて、その隣に居座り続けるのか?
それは、愛ではない。
最も醜き、ドス黒い悪だ。
「隠せば……わらわは死ぬまで、アレクの顔を見るたびにこの報告書を思い出す。あやつの唇が触れるたびに、両親の死を思い出す。……そんな地獄に、耐えられるはずがないっ」
フレイヤは、自分の震える手を強く握りしめた。
爪が食い込み、血が滲む。その痛みが、わずかに理性を繋ぎ止めてくれた。
アレクに言えば、すべてが終わる。
アレクは自分を憎むかもしれない。軽蔑し、怒り、二度と触れてはくれなくなるかもしれない。
これまで築いてきた平和な日常も、甘い日々も、すべては泡となって消えるかもしれない。
――怖い……。
アレクに嫌われるのが何よりも怖い。見捨てられるのが、死ぬよりも恐ろしい。
「うぅッ……ごめんなさい。ごめん、なさい」
フレイヤは子供のように声を上げて泣きたかった。
だが、同時に理解していた。
アレクを本当に愛しているというのなら、アレクの知る権利を奪ってはならない。アレクに復讐する機会さえ与えないのは、最大の傲慢だ。
「……償うのじゃ。わらわは……それしかできぬ」
掠れた声で、フレイヤは呟いた。
この事実を告げて、アレクにすべてを委ねる。
刺し殺されるなら、それでもいい。嫌われるなら、それもいい。いや、やっぱ嫌だ。殺されるのはいいが、嫌われるのだけは嫌だ。そんな傲慢がフレイヤを支配する。
「っ……」
フレイヤは震える手で報告書をまとめると、ゆっくりと立ち上がった。
寝巻のドレスを整える。鏡に映る自分の顔は、死人のように青白い。
執務室を出て、寝室へと向かう。
一歩踏み出すごとに、足が鉛のように重くなった。
この廊下の先に、アレクがいる。何も知らずに、まだ夢の中で自分を待っているかもしれない愛しい男がいる。
扉の前に立ち、フレイヤは深く息を吐いた。
下腹部に感じる昨夜のアレクの残滓が、最後に一度だけキュンと疼いた気がした。
「……おはよう、アレク」
扉の前で小さく呟く。
フレイヤは扉に手をかけて、ゆっくりと押し開けた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
ベッドの上で、半裸のアレクが起き上がって伸びをしていた。
アレクはこちらを見て、いつものように……世界で一番優しい笑顔を浮かべる。
「あ、フレイヤ。おはよう。早いんだな」
「アレク……」
その声を聞いた瞬間、フレイヤの心臓は張り裂けそうになった。
けれど、フレイヤは逃げなかった。
握りしめた報告書を隠すことなく、ゆっくりとした歩調で、歩み寄っていった。
◇
――〝そうか〟。
震える声で全てを報告したアレクの第一声は、それだった。
その声音には途方もない悲しみがある。絶望や、後悔。様々な負の感情がある。
しかし――フレイヤに向けるべき恨みはなかった。
「…………」
アレクは、フレイヤから差し出された数枚の報告書を、ただ静かに見つめていた。
フレイヤは足元に崩れ落ち、床に膝をついたまま、震える声で言葉を絞り出す。
「……すまぬ。すまぬアレク! わらわが、わらわの命令が……そなたから両親を奪ったのじゃ!」
フレイヤによる謝罪の言葉は、血を吐くような悲鳴だった。
フレイヤは、アレクに激昂してほしかった。首を絞められ、罵倒され、その憎しみの炎で自分を焼き尽くしてほしかった。
そうされることでしか、この胸を切り裂くような罪悪感から逃れる術はない。
だがアレクの返答は、フレイヤが最も恐れていたものだった。
「…………フレイヤ。お前が謝ることじゃない」
アレクは、とっても優しかったのだ。
アレクはゆっくりとベッドから降りると、力なく床に伏せるフレイヤの肩に、そっと手を置いた。
「……何、を。アレクの家族を路頭に迷わせたのはわらわなのじゃぞ!? 暴食のように人を食らい、崩壊させ、飢え死にさせたのは……わらわが命じたからなのじゃ!」
「そうだな。……でも、それは俺が十年前、お前を一人にして離れたから、お前をあんな風に歪ませてしまった。……俺がもっと早く帰ってくれば、こんなことにはならなかったんだ」
「アレクが悪いわけあるか! あのクソどもが、アレクを北の果てへと追放したからじゃ!」
「……俺が! へまをして見つかったからだよッ!!」
そう叫んで、そしてゆっくりと、アレクはフレイヤの頭を撫でた。
アレクはフレイヤを恨むどころか、その罪の半分を、いや――全てを自分の責任だと背負い込もうとしていた。
その瞳にはフレイヤへの怒りなど欠片もなく、ただ自分自身の無力さに対する、底知れない絶望だけが沈んでいた。
「な……なぜじゃ。なぜ、わらわを責めぬ……っ! わらわは、そなたの両親を殺したも同然なのじゃぞ!? 憎め! わらわを呪ってくれ! お願いじゃ、アレク……。そんな顔で、わらわを見るなッ!」
フレイヤは、アレクへ縋るよう泣き叫んだ。
恨まれない。怒られない。その事実が、刃物となってフレイヤの心臓を執拗に突き刺す。
アレクが自分を許してしまえば、フレイヤは永遠にこの罪を贖うことができなくなる。
アレクに嫌われるという罰すら与えられないまま、自分を愛し続けてくれる男の隣で、死ぬまで自らを責め続けなければならない。
それは、死ぬよりも残酷な地獄だった。
昨夜、アレクと睦み合った時の、腹の奥に残る精液を感じる。
その愛の証が、今はフレイヤを汚す呪いのように感じられてならない。
両親を殺した女の胎を、その息子の種が満たしている。そのおぞましい矛盾に、フレイヤは再び嘔吐しそうになった。
「アレク、お願いじゃ……。わらわを罰してくれ! このままでは、わらわは……っ」
「フレイヤ。俺にお前を責める資格なんてない。家族を守れなかったのは俺なんだ。俺が、一番いけなかったんだ」
アレクは、そう言ってフレイヤを抱きしめた。
その抱擁は優しく、温かいのに、とても冷たかった。
贖罪の機会すら与えられず、ただ共に絶望することを強要される。
これほどまでに、優しさが憎いと思ったことはなかった。
「あ、あぁぁ……っ。アレク、アレクぅ……っ!」
フレイヤはアレクの胸の中で、声を上げて泣き続けた。
どれほど謝っても、アレクは「大丈夫だ」と笑うだけだろう。その笑顔に、フレイヤは一生かけて、じわじわと焼き殺されるのだ。
これが罪だ。
フレイヤが認識していた人を殺す罪などというのは、とても軽い綿菓子のようなものでしかなかった。
因果は巡り巡って返ってくる。成した結果と同じぐらい、重い因果が応報のようにフレイヤを押しつぶそうとしていた。
アレクはフレイヤの腕をそっと解き、窓の外の空を見つめた。
「……フレイヤ」
アレクの声が、静かに響く。
「な、なんじゃ?」
「俺を、案内してくれないか? 父さんと母さんが眠っている、その場所まで」
「っ」
その言葉に、フレイヤが震えた。
しかしすぐに頷き立ち上がる。
「……う、うむ。もちろんじゃ。承知した。すぐに手配させよう」
「ありがとう。フレイヤ」
「……当たり前の、ことじゃ」
震える声で頷いて、幽鬼のような足取りで部下へ命じるべく歩き出す。
かつて最悪の女帝がなしたことは、今の改心したフレイヤへと、降りかかっていた。