魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
かつてのフレイヤ・フォン・ローゼンブルグは、決して最悪な女帝と呼ばれるような人間ではなかった。
あるいはその蕾はあったが、開花することなく消えていく未来もあった。
それも全て、光があったから。
あるいは愛があったからだろう――
神聖ドラグノフ帝国の北端に位置する離宮は、北の地にあるだけあって酷く寒い。
冬が訪れれば一日中猛吹雪が吹き荒れて、人の住む土地ではなくなるのだ。
フレイヤの住む離宮――とは名ばかりの監獄は、その寒さを防ぎきれない。
石造りの部屋はどこを触っても冷たくて、窓からは吹雪が吹き込んでくる。
間違いなく人が生きていける環境ではないが、二人は身を寄せ合うことで生を繋いでいた。
「これ。もっと強く抱きしめぬか」
「わがまま過ぎるだろお前は!」
「ふふん」
そうやって言い合うのは、フレイヤとアレクだ。
防寒着を身に着けたアレクの腕の中で抱きしめられて、フレイヤは幸せそうに笑っていた。
なぜこうなっているかと言えば、猛吹雪に震えていたフレイヤを見ていられなくなったアレクが、勝手に侵入して温め始めたことに起因する。
それに対し、傲慢にももっと強く抱きしめろというのがフレイヤだった。
国に雇われているとはいえ、こんな辺境の庭師の息子なんて貧乏なもの。その手段といえば、ボロボロの防寒着で共に温まるぐらいだ。
そうやって必死に手段を模索しているというのに、フレイヤはなんと傲慢なのだろう。
「……アレクよ。今度は少し熱すぎるぞ」
「お前は文句が多いな! じゃあ離れるか?」
「ならぬ! 離れたら死刑じゃ」
そんなわがままなことを言いながら、フレイヤはアレクの首に腕を回し、逃がさないとばかりにしがみついた。その力は驚くほど強く、フレイヤがいかにこの温もりを渇望していたかが伝わってくる。
「離れては、ならぬ」
そう言って首元に顔を埋め、その匂いを嗅ぎ、ぬくもりを全身に浴びようと強く、それは強く抱きしめる。
「……おい、くすぐったいって」
「我慢せよ。……ん、よし。ここじゃ」
フレイヤは満足そうに鼻を鳴らすと、スンスンと匂いを嗅ぐように胸元で深呼吸をした。
結局フレイヤのわがままも、照れ隠しのようなものだ。素直になれないフレイヤの可愛い一面だった。
「……そなた、日向と土の匂いがするのう」
「庭師見習いだからな。泥臭いって言いたいのか?」
「違う。……落ち着く匂いじゃと言っておる」
フレイヤはとろんとした瞳でアレクを見上げ、ぺたりと頬をすり寄せた。冷え切っていたフレイヤの頬が、アレクの体温で朱に染まっていく。
「この匂いも、この熱も。全部わらわのものじゃ。……誰にも貸してやらぬぞ?」
「俺は別にお前のものじゃねえよ」
「なんじゃと! まさかわらわの下から離れると言うのか!」
「いや……離れないって。大丈夫だ」
「ならば、良いが」
不安に駆られるフレイヤの、頭を優しくなでて言い聞かせる。そうすればほっとしたように、フレイヤは無邪気に笑ったのだ。
アレクは呆れつつも、その愛おしさで胸が一杯になるのを感じていた。
だがしばらくすると、フレイヤは不満げに唇を尖らせた。
「しかし……気に食わぬな」
「何がだよ」
「一方的に施されるのは、わらわの性に合わぬ。これではまるで、わらわがそなたに守られるだけの弱い生き物のようではないか」
「実際、今は弱いだろ」
「無礼者め! まったく……何か返さねば気が済まぬ」
フレイヤは悔し気にキョロキョロと視線を彷徨わせた。しかしこの冷え切った牢獄には、家具の一つもまともに存在しない。あるのは薄い絨毯に冷たい石床と、積もった雪だけだ。
フレイヤがアレクに与えられる財産など、何一つ持っていなかった。
「……何もないな」
「いいよ、別に。礼なんて求めてないし」
「わらわが嫌なのじゃ!」
「うおっと」
そう言ってフレイヤが身じろぎした拍子に、アレクの腕の中で体勢が崩れた。
それを慌てて支えようと、アレクが腕に力を込めたその時だった。
――ふにゅり。
厚手のドレス越しに、柔らかく、けれど確かな弾力がアレクの掌に伝わった。
それはまだ未成熟ではあるが、女性特有の柔らかさを持つ――フレイヤの胸だった。
「――っ!?」
アレクは弾かれたように手を引っ込めた。
顔が一瞬で沸騰し、心臓が早鐘を打つ。
「わ、悪い! わざとじゃねぇんだ、服が厚くてよく分からなくて……っ!」
「…………」
アレクが慌てふためくのを見て、フレイヤはきょとんと目を丸くし、それから自身の胸元に視線を落とした。
そして、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべる。
フレイヤは自分の胸を両手で強調するように持ち上げると、勝ち誇ったように言った。
「ほう? アレクめ、こういうのが好きなのか?」
「ち、違っ……!」
「嘘をつくな。顔が赤いぞ、変態」
「誰が変態だ!」
「ふふん。よいぞ。……特別に許可してやろう」
フレイヤは尊大な態度で、ツンと顎を上げた。
だがその顔は、羞恥で耳まで赤く染まっている。とてもうれしかったのだろう。アレクが自分のことを求めているようで。
故に精一杯の虚勢を張って、嬉しさを隠すようにそう言うのだ。
「温めてくれた礼じゃ。特別に、わらわの胸を触る権利をやろう。……え、遠慮せずともよいぞ? 光栄に思え」
「お前なあ……! そういうのは、もっと大事にするもんだろうが!」
「何を言う。わらわの身体はわらわのものじゃ! 使い道くらい自分で決めるわ!」
ぐい、とフレイヤは体を押し付けてくる。
アレクは狼狽し、必死に首を振った。
「だめだ! そんなの、礼にならねぇよ!」
「なっ……!? わらわの体が不服だと言うのか!?」
「そうじゃなくて……! とにかく、そういうのはダメだ!」
ぶんぶんと首を振るアレクに対し、フレイヤもそれ以上は言えない。
これ以上はまるで痴女のようであり、フレイヤにプライドが許さなかった。
「むぅ……。意気地なしめ!」
故にフレイヤは不満げに頬を膨らませた。
せっかく一番大切なものを差し出そうとしたのに、拒絶されたことが悔しいのだ。
フレイヤなりの精一杯の好意であり、不器用な求愛だったのに。まるで自分を否定されたように、心がとても傷ついてしまう。
だがここで引き下がるわけにはいかない。
「……ならば、また春が来たらにしよう。今日は寒すぎる」
「は? は、はる?」
「うむ。その代わり――今は、これで我慢せよ」
そう言ってフレイヤはアレクの襟首を掴むと、強引に引き寄せた。
有無を言わさぬ力。
アレクが反応するよりも早く――
「んっ……!?」
アレクの目が驚愕に見開かれる。
それは初めての口づけだ。
唇の表面は冷たかったが、すぐに互いの呼気で熱を帯びていく。
フレイヤは下手くそに、けれど必死に唇を押し付けてきた。少しだけ開いた唇の隙間から、湿った熱気が流れ込んでくる。
「フレっ……」
「アレ、ク。ていこう、されたら、悲しいぞ」
顔をりんごのように真っ赤にして、唇をくっつけたままフレイヤは言う。
プライドの高いフレイヤにとって、自分から口づけをするなど恥ずかしくて火が吹きそうな愚行。
しかし、アレクとのキスがしたくてしたくてたまらなかった。凍える心を氷解するような、愛がほしかった。
「……フレイヤ」
そんなフレイヤを見て、アレクも拒まない。拒否しようと思えばできたはずだ。
けれど、アレクはフレイヤを突き飛ばすことができなかった。
勇気を振り絞って、拒絶されないかと恐怖で震えるフレイヤを、なぜ突き放すことができるだろう。
アレクも、嬉しかったのだ。
「ん……ちゅ、ぅ……」
粘膜が触れ合う音が、もう一度響いた。
それは、外の吹雪を忘れさせるほどに生々しく、脳が溶けるほどに温かかった。
ただの接触ではない。命と命が直接触れ合い、互いの境界線が曖昧になるような感覚。
アレクもまた、魅入られたようにフレイヤの背中に腕を回し、その口づけに応えていた。
貧しい庭師の少年と、見捨てられた皇女。
世界中が敵であっても、この腕の中にある体温だけは本物だ。
ただ愛おしかった。ただ守りたかった。
口づけの合間、フレイヤが涙目で、けれど幸せそうに微笑んで囁く。
「……温かいのう、アレク」
その笑顔は、どこまでも無垢で可愛らしい。
◇
「ん……ちゅ、ぁ……」
最初は、ついばむような軽い接触だった。
けれど一度触れ合ってしまった唇は、磁石のように吸い付き、離れようとしない。
冷え切っていたフレイヤの唇はアレクの熱を奪い、瞬く間に火照るような熱さを帯びていく。
「ふ、ぁ……んぅ……」
鼻にかかった甘い吐息が、二人の間に白く漂う。
アレクが少しだけ顔を離し、息継ぎをしようとすると、フレイヤは不満げに眉を寄せてその首に回した腕に力を込めた。
「……逃げるな」
「逃げてない……息が、続かないだろ」
「知らぬ。……もっと、続きをせよ」
フレイヤは潤んだ瞳でアレクを睨み、強引にその頭を引き寄せた。
そうして再び唇が重なる。今度はより深く、より粘着質に。柔らかい唇同士が押し付け合い、形を変える感触が鮮明に伝わってくる。
「ん……ちゅ、る……」
フレイヤが恐る恐る、けれど好奇心に満ちた舌先を忍び込ませてきた。
遠慮がちな舌使い。アレクがそれを受け入れ、自身の舌で迎え撃つと、フレイヤの背中がビクリと大きく跳ねた。
「ひっ、ぅ……!?」
「嫌か?」
「……ちが、う。……凄いのじゃ、頭が、痺れる……」
嫌がるどころか、フレイヤはさらに身体を押し付けてきた。
もう一度、唇をあわせて互いの舌が絡み合う。
湿った粘膜が擦れ合い、唾液が混ざり合うじゅるりとした水音が静寂な石牢に響いた。それは外の猛吹雪さえかき消すほどに音を出す。
アレクは初めて知る女の子の口内の甘さと、熱さに翻弄されていた。
フレイヤは不器用に、しかし必死にアレクの舌を吸い、絡め取り、その全てを味わおうとしてくる。
「はぁ、ぁ……アレク、アレク……っ」
「フレイヤ……」
「……気持ち、いい。……そなたの味が、する……」
口づけの合間、銀色の糸を引きながらフレイヤが夢見心地で囁いた。
その表情は蕩けきっていた。普段の傲慢な態度はどこへやら、今はただ快楽と幸福に溺れる一人の雌の顔をしている。
「……お前、すごい熱いな」
「アレクのせいじゃ……。そなたが、わらわを溶かすから……」
フレイヤは上気した頬をすり寄せ、ねだるように唇を突き出した。
「まだ、足りぬ。……もっと奥まで、入ってこい」
「……命令するなよ」
「命令ではない、願いじゃ。……わらわの空っぽな中身を、全部そなたで満たしてくれ」
その言葉は、理性の最後の留め金を外すには十分すぎた。
アレクは彼女の後頭部を支え、貪るように唇を塞いだ。
レロ、ズチュ、とさらに濃密な音が響く。
呼吸すら忘れて、二人は互いの存在を確かめ合った。唾液を飲み下す喉の動きさえもリンクする。
境界線が曖昧になる。どこからが自分で、どこからが相手なのか分からなくなるほどの密着。
世界にはもう二人しかいない。
このまま溶け合って、一つになってしまいたい。
永遠にこの唇を離したくない。
そんな、甘く幸福な願い。
だがその願いは、最悪の形で叶えられようとしていた。
異変は、唐突に訪れたのだ――
「……んッ、ぁ?」
アレクの背筋に、悪寒が走った。
寒いのではない。熱すぎるのだ。
接している唇の奥から、次の瞬間には魂の根こそぎを持っていかれるような強烈な
「フ、レイヤ……?」
アレクは違和感を覚え、身体を離そうと肩に手をかけた。
しかし、動かない。
フレイヤの細い腕が、万力のような力でアレクの首にしがみついている。
「っ、ぁ……! だ、め……!?」
唇の隙間から、フレイヤの悲鳴のような声が漏れる。
至近距離で見た彼女の瞳。その美しい瞳孔が開ききり、赤く禍々しく発光していた。
血を吸われた時よりも強力な吸引力。
「がっ!?」
アレクの体内から、何かが無理矢理吸い出されていった。
指先の感覚が消える。視界が白く明滅する。それは明確な死の感触だった。
(なっ、んだこれ……!?)
普通ならすでに干からびて即死していただろう。
事実、アレクの視界は急速に闇に覆われ、手足の自由は奪われていた。
だがアレクの心臓はまだ動いていた。枯渇していく命の泉の底から、絶え間なく次が溢れ出てくる。
吸われる端から、無理やりに命を繋ぎ止める。
その拮抗が、脳が沸騰するような激痛と、麻薬的な快楽を同時に生み出していた。
「いや、いやじゃ! とまらぬ、とまらぬぅッ!」
フレイヤが半狂乱になって叫ぶ。
頭では分かっているのだ。今すぐに離れなければ、アレクを吸い殺してしまうと。
けれど、身体が言うことを聞かない。
アレクの命があまりにも甘く、あまりにも濃密すぎて、忌み子としての本能が飲み干すまで離さないと絶叫している。
母を殺した時と同じだ。
これがフレイヤが、北の地で幽閉されている理由だ。
この力を操れず、自分の意思と関係なく周囲の者を吸い殺してしまうから、忌み子として幽閉された。
「はなれろ! アレク、逃げろ! 突き飛ばせ! わらわを殺してでも逃げるのじゃ!」
涙を流しながら、フレイヤはアレクの胸を叩いた。
アレクを捕食しながら、アレクに逃げてくれと懇願する。その姿は本能と理性のぶつかり合いだ。
だがアレクの意識が遠のいていく。
手足はもう動かない。
全身の血が逆流し、心臓が早鐘を打っている。
(ああ、そうか。これが)
アレクは悟った。
これが呪いなのだと。人々が恐れる力なのだと。
でも、だからこそ、手放せない――
「……ガ、ぁ……」
アレクは残った最後の力を振り絞った。それで、腕の中で必死に離れようとするフレイヤを強引につかんだ。
「へっ!? 何をしているアレク! 早く逃げるのじゃ!」
「い、や、だ!!」
アレクは、全力で拒否をした。
ここで逃げたら、フレイヤは一人になる。絶望と恐怖に支配されるだろう。
その辛さは想像でしかわからないが、だからこそ離れるわけにはいかないのだ。
一人にしてはいけないのだ。
アレクは自分を食い殺そうとしている少女の背中に、震える腕を通して力強く抱きしめる。
「一人には、しないっ」
「い、やぁ! アレク、死ぬな! わらわのために死ぬな!」
フレイヤの絶叫が鼓膜を叩く。
アレクはもう言葉を発することすらできなかった。ただ、彼女を強く抱きしめる。
狂乱するフレイヤを安心させるように、暴走する彼女の呪いごとその全てを受け止めるように。
ガクリ、と。
アレクの力が抜け、その身体がフレイヤに覆いかぶさるように倒れ込んだ。
「あ……ア、レク……?」
フレイヤの慟哭が響く。
しかしアレクにはもう、その声は届かない。
視界が完全に闇に落ちる。
これが、忌み子の力であった――