魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
侍女頭アレロナは、この一年弱のフレイヤを良く知る少女である。
側付きの侍女として何年にもわたって最悪の女帝の怒りを買うことなく勤め続けたのは、アレロナが有能であったからだ。
そんなアレロナは、フレイヤが変わったことを良く知っている。
アレクとの再会により、かつての最悪の女帝は死に、今の優しきフレイヤに変化した。
フレイヤがアレクをどれだけ愛しているかも知っているし、今の人生をどれだけ大切にしているかも知っていた。
だからアレロナは、フレイヤは此度の帝国中で起きている呪殺事件には関与していないだろうと思っていた。
だがアレロナ以外は違うらしい。当たり前だ。
フレイヤが変わったのはここ一年弱の話なのだから。
その前に、十年に渡って最悪の女帝として絶望を振りまいていた過去がある。多くの人には、その時のフレイヤが印象付いている。
雪の舞う冬の帝都を歩くだけで、その耳には聞こえてくるのだ。
民達の、言葉が。
「……また出たらしいな。今度は雑貨屋の親父だ」
「聞いたよ。干からびてミイラみたいになってたんだろ? あぁ、恐ろしい……。あんな殺し方、あの女帝以外に誰ができるってんだ」
軒下で肩を寄せ合う男たちのひそひそ話。かつてなら不敬罪で即刻処刑されるような内容だが、今の彼らの声には、罰を恐れる気持ちよりも、「やっぱりな」という確信に満ちた絶望が勝っていた。
外套を深く被ったアレロナは、その言葉を聞いて首を振る。
彼らの気持ちも十分にわかる。だから否定はできない。
アレロナも改心した姿をその目でみなければ、まったく同じ感想を抱いただろう。
「改心したなんて、結局は猫を被ってただけさ。税を安くして、優しい顔を見せて……俺たちを油断させてから、また一人ずつ食い始める。最悪の趣味だよ」
「勇者が現れて救われた、なんて嘘八百さ。結局、あの魔女を止められる奴なんてこの世にはいないんだ」
アレロナは唇を噛み締め、俯いた。
違う、と叫びたかった。フレイヤはこの一年、寝る間を惜しんで帝国を良くしようと働き、アレクの前で見せる笑顔を守るために、どれほど自分を律してきたか。
しかし、別の場所からも、同じような声が聞こえてくる。
「女帝は改心した? 笑わせるな。十年間も人を吸い殺してきた化け物が、たった一年で人間になれるわけがないだろう」
「あぁ、死んだ俺の兄貴もあんな風にミイラにされたんだ。あの女が生きている限り、この国の呪いは終わらないのさ。……いいか、夜道には気をつけろよ。陛下がお腹を空かせて歩いてるかもしれないからな」
「ははは。笑えないジョークだよ」
そこには、疑念など微塵もなかった。
民たちにとって、此度の事件は犯人探しをする必要なんてなかった。ミイラという死体は、すなわちフレイヤ・フォン・ローゼンブルグがやったことと同義だ。
十年という長い歳月が刻み込んだ恐怖は、たった一年の善行では決して洗い流せないほど深く、民の脳裏にこびりついている。
「……救いがない。一体何が起こって、どうなってしまうのですか」
アレロナはポツリと呟いた。
フレイヤがどれほど正しく振舞い、どれほど誠実に支援を行おうとも、民の目には獲物を誘い出すための餌にしか映らない。
アレロナは、雪に濡れて冷たくなった拳を強く握りしめた。
これがフレイヤのやってきたことの結果であろう。十年も最悪の女帝であったのは、あまりにも長かった。
人の命を奪いすぎた。
それを理解するし、納得も共感もできるから、アレロナは足早に歩き出す。
冬の帝都はとても寒い。人の心が冷めているから、特に寒い気がした。
◇
帝国各地で起きている呪殺事件に、一切の進展はなかった。
その呪いの正体も、犯人も、霧ほど掴めず、犠牲者を止めることもできない。
ただ一つ確定となったのは、明らかに超常の力が働いているということだ。
死の瞬間を目撃した者によれば、何の脈絡もなく急に命を吸い取られるようにミイラになったという。
その周囲には怪しい人間はおらず、目撃者も死ぬことはなかった。
それらのことから、まるで災害のようである、などと言われている。
そこから進展はなく、日々犠牲者は出続けている。
そしてフレイヤはやはり一切怪しい動きをすることなく、故にこそ不安が高まっていくのだ。
一体何が起きているのか。帝国はどうなってしまうのか。帝城に勤める人々の間にも、不安が渦巻いていた。
「…………ふぅ」
それを最も理解しているのは、フレイヤであろう。
一向に進まぬ原因究明。その不安は全てフレイヤへと向けられて、気高くふるまうが、憔悴しているのは近くにいるアレクにはすぐ理解できた。
「フレイヤ、少し休んだらどうだ?」
「……そんな暇はない。一刻も早く解決せねばならぬのじゃ。もう犠牲者はわかっているだけで三百人を超えた」
「それは、そうだが……」
苦し気に言うフレイヤに、アレクは言葉を持てないでいる。
死者の数は減るどころか増え続け、ペースを加速させている。あまりの無差別具合に、人々は恐怖で震えあがっていた。
だがこの状況で暴動が起きないのは、それだけ過去のフレイヤが徹底的に粛清したから。
十年の間に立ち上がった者は全員殺された故、こんな状況でも立ち上がる者は誰一人としていなかった。
故にじわじわと、死にゆくような空気が帝国には蔓延している。
フレイヤが必死に歩んだ一年の月日が、無残にも崩れ去ろうというほどに。
「だがそれでフレイヤが倒れたら元も子もないだろ。一度、ちゃんと寝た方が良い」
「……休めと言われて、はいそうですかと頷ける状況ではないことくらい、そなたもわかっているはずじゃ」
フレイヤは机に積み上がった報告書から視線を外さず、吐き捨てるように言った。
「わかってる。でも、フレイヤ。お前が倒れたら、それこそこの帝国は終わりだ」
アレクはフレイヤの肩にそっと手を置いて言う。
けれどフレイヤはその手を、震える指先で静かに振り払った。
「わらわが改心したことで、ようやく前を向き始めた民たちが死んでいるのじゃぞ。これを止めるまで、わらわが眠ることなど許されるはずがない!」
振り向いたフレイヤの紅玉の瞳は、幾夜も眠れぬことで生じた充血がある。
その瞳の奥には、底知れぬ恐怖と自己嫌悪が渦巻いていた。
「……わらわは大丈夫じゃ。これこそが皇帝の務め。何も、心配することはないぞアレク」
そして精いっぱい、心配させぬよう微笑むフレイヤ。そんなフレイヤに、アレクはもうかける言葉がなかった。
必死の説得も、今のフレイヤには届かない。
今のフレイヤにとって、休むことは罪からの逃避でしかなかった。
追い込むように、罰するように、フレイヤは働き続ける。
「……フレイヤ。無理は、するなよ」
「わかっておる」
これ以上何を言っても無駄だ。
そう直感し、口をつぐんだ。
アレクは重い足取りで、執務室を後にするしかなかった。
◇
廊下に出ると、暖炉の届かない冷気がアレクの頬を叩いた。
静まり返った帝城の、冷たい床に自分の足音が虚しく響く。
(俺に……できることは、何かないのか)
フレイヤの隣にいる男として、アレクはあまりにも無力だった。
フレイヤのために何もしてやれない。結局アレクというのは、不死であること以外は普通の男なのだ。
戦う力はあるし、人類の中でも最強クラスであるのは確かだ。しかしそれだけ。
この状況を解決できるような力は持ち合わせていなくて、その無力が嫌になる。
アレクは焦燥感に押し潰されそうになりながら、暗い廊下の角を曲がった。
その時だった――
「……アレク様」
「えっ?」
闇の中から染み出すように現れた人影に、アレクは息を呑んだ。
音もなくそこに立っていたのは、夜の闇を纏ったかのような黒ずくめの男だ。
「あなたは……確か」
アレクはその男を覚えていた。
数ヶ月前、バレーシアにある両親の墓へと案内してくれた男だ。
黒い礼服を身にまとった、フレイヤの部下かと思っていたが、今はそれだけではない雰囲気を持っている。
「半年ほど前にお会いして以来ですね。私は帝国諜報部隊の長を務めるものです。クリスとでも及びください」
「クリスさん……ですか。それに、諜報」
簡単な自己紹介をした男、クリスは音もなく膝をつき、アレクを見上げる。
その表情は、真剣であり、異常なまでの緊張感を漂わせていた。
「アレク様にお話がございます」
「俺? ……フレイヤではなく?」
「はい。これはアレク様にお伝えするべきことだと判断いたしました」
その言葉に、ゾクッとアレクは心臓が鳴った。
嫌な予感。あるいは警鐘。ただの世間話ではないだろう。もっともっと、大きな話となるはずだ。
「此度の事件の、犯人についてお伝えしたく――」