魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
石牢の窓を抜け出した二人は、誰もいない夜の離宮を歩いていた。
空には満月。地上には降り積もったばかりの新雪だ。
ザクッ、ザクッ、と。二人の足音だけが、心地よいリズムで真っ白な雪の上で響いている。
「……凄いのう」
アレクの腕にしっかりと掴まりながら、フレイヤは白い溜め息を漏らした。
母の古着であるぶかぶかのコートに身を包み、マフラーに顔を埋めながら、フレイヤはキョロキョロと周囲を見渡している。
「ここは、こんなにも広かったのじゃな」
「まあまだ離宮の庭だけどな」
「それでもじゃ。……あの狭い牢獄とは違う。空が高い。風が流れておる。……アレクの匂いがする」
フレイヤはクンクンと鼻を鳴らし、さらに強くアレクの腕に身を寄せた。
その仕草は、初めて外の散歩を許された愛犬のようでもあり、親鳥から離れない雛鳥のようでもあった。
アレクは愛おしそうにフレイヤを見下ろす。
普段は化け物と恐れられ、石牢で膝を抱えていたフレイヤ。
けれど今、月光を浴びてはしゃぐその姿はただの無垢な少女にしか見えなかった。
「……そろそろだぞ、フレイヤ」
「ん? どこへ向かっておるのじゃ? もう随分と歩いたが」
「俺の仕事場だよ。……あそこだ」
アレクが指さした先。
離宮の最も奥まった場所、風を遮るように高い壁に囲まれた一角に、その場所はあった。
「……え?」
フレイヤが目を見開く。そこだけ、雪が積もっていなかった。
いや、雪がないだけではない。白一色の世界の中で、そこだけが鮮烈な色彩を放っていたのだ。
赤、黄、紫、白――大小さまざまな花々が、凍てつく大気の中で咲き誇っている。
「花……? なぜ、こんな真冬に?」
「あれは特別な花なんだ。冬にでも咲く、そんな花だ。毎日俺が手入れてたんだぜ」
アレクは少し自慢げに鼻をこすった。
「ここは適当にやっても怒られることはないけど……庭師としてちゃんと仕事はしたいからさ。そういう思いでやってたけど、最近はフレイヤに見せるために手入れしてたんだ」
「わらわに……?」
「ああ。石牢の窓からじゃ、雪しか見えないだろ? だから……綺麗な色を、見せてやりたくて」
フレイヤは言葉を失い、ふらりとその花壇へと歩み寄った。
しゃがみ込み、震える指先で赤い花弁に触れる。
柔らかい。そしてほのかに温かい。死の世界のような雪原の中で、必死に命を燃やしている小さな花々。
「……綺麗じゃ」
フレイヤがポツリと呟く。
「アレクのようじゃな」
「俺?」
「うむ。……この冷たくて寂しい世界で、わらわに温もりをくれる。凍えないように、わらわを生かしてくれる……」
フレイヤが振り返る。
月明かりと花々の色彩に照らされたその瞳は、この花壇のどの花よりも美しく、潤んでいた。
「ありがとう、アレク。……生まれて初めて見る、最高の景色じゃ」
「っ……」
その曇りのない笑顔を見た瞬間、アレクの中で張り詰めていた何かが、音を立てて弾け飛んだ。
ああ、そうか。
アレクはそう唐突に理解した。
なぜ自分が、父の目を盗んでまで毎日ここに来ていたのか。
なぜ凍える手で土をいじり、雪をかきわけ、必死になってこの花壇を守り続けてきたのか。
ただ、この笑顔が見たかったからだ。
可哀想だからフレイヤを助けた? 違う。
責任感? そんな立派なものじゃない。
最初から、一目ぼれだった。冬に差し掛かって、北側に積もる雪が心配だった。だから忌み子が幽閉されているのを知っていても、アレクは塔の近くまで行ったのだ。
そこで鉄格子の向こう側にいたフレイヤに、一目ぼれした。
それは恐怖を凌駕する感情であり、だからアレクはフレイヤを助けたのだ。
好きだから、血をわけてあげた。喜ばせたかった。綺麗なものを見せてやりたかった。
フレイヤがくれた最高の景色という言葉。けれどアレクにとっては、花に囲まれて笑う今のフレイヤ自身こそが、世界で一番美しく最高の景色だった。
「フレイヤ」
「ん……っ!?」
気づけばアレクはフレイヤの手を取り、強く引き寄せた。
驚いて目を見開く彼女に対し、勢いのままその唇を塞ぐ。
いつもの食事代わりのキスではない。
互いの体温を確かめ合い、抑え込んでいた恋情をすべて注ぎ込むような、魂を混ぜ合わせる情熱的な口づけだった。
「んぅ……、あ……」
フレイヤの喉から甘い声が漏れる。
数秒のキスの後、唇が離れ、銀色の糸が冬の世界にきらめいていた。
「あ、ごめん。急に、許可も取らず。嫌だったよな」
「……な、なわけなかろう。ばーか」
そう言いあって、互いの吐息がかかる距離で見つめ合う。
アレクの瞳には熱い色が宿り、フレイヤの頬は林檎のように赤く染まっていた。
フレイヤの心臓が早鐘を打っている。
寒い外気に晒されているはずなのに、腹の奥が焼けるように熱い。
(……ほしい)
フレイヤの脳裏を、強烈な衝動が支配した。
今まではキスだけで満足していた。抱きしめられるだけで幸せだった。
けれど、こんな美しい場所に連れてこられて、こんなに愛おしそうにキスをされて。もうそれだけでは足りなかった。
もっと深く。もっと強く。
アレクと繋がりたい。
アレクを自分のものにしたい。
自分の中の空っぽな場所を、全てアレクで埋め尽くしてほしい。
「……アレク」
フレイヤの手が、アレクの胸板を這う。
分厚い服の上からでも分かる、仕事で培った年齢に見合わぬ逞しい筋肉の感触。ドクンドクンという力強い鼓動。
「……まだ、足りぬ」
「フレイヤ……?」
「キスだけでは足りぬ。……もっと、わらわを乱してくれ」
フレイヤは潤んだ瞳でアレクを睨み、その腰に腕を回して密着した。
下腹部が疼く。雌としての本能が、目の前の雄を求めて悲鳴を上げている。忌み子としての食欲ではない。一人の女としての性欲が、フレイヤを突き動かしていた。
「交尾、じゃ」
「……え?」
「ここで抱け、アレク。……わらわを、そなたのものにしてみせろ」
アレクからキスをしたというのに、その先を求めたのはフレイヤだった。さしものアレクといえど、その衝撃に目を見開く。
それはフレイヤの命令だったが、懇願でもあった。
フレイヤは背伸びをし、アレクの耳元で熱い吐息を吹きかける。
「お前が欲しい。……今すぐに、一つになりたいのじゃ……っ」
「っ……!」
アレクが息を飲む気配がした。その腕に力がこもる。男としての理性が揺らいでいるのが分かった。
ここで押し倒せば、きっとアレクは拒まない。
この美しい花壇の側で、雪に濡れながら、初めての夜を迎えることができる。
そうすれば、もう不安はない。
春が来ようが、誰が来ようが、一番奥でつながったという思い出がある限り耐えられる。
「……して。……お願いじゃ、アレク……」
フレイヤはアレクの首筋に唇を寄せ、甘噛みしながら囁いた。
全身が熱い。溶けてしまいそうだ。
今ここで愛されたなら、死んでもいいとさえ思った。
だが――
「……だめだ」
アレクの手が、フレイヤの肩を優しく、されど力強く押し返した。
「……な、なぜじゃ!?」
その態度に、フレイヤは悲鳴のような声を上げた。
拒絶された。嫌われたのか。やはり化け物とは寝たくないのか。そんな絶望が胸を突き刺す。
しかしアレクの表情を見て、その不安は消し飛んだ。
アレクは――泣き出しそうなほど切なく、そして愛おしそうに微笑んでいたからだ。
「俺だってしたいさ。……頭がおかしくなりそうなぐらい、フレイヤが欲しい。そういうのは十五歳の成人を迎えてからって教会は言うけど、そのあと一年が俺は待てない。」
「な、ならば……!」
「でも、ここは寒すぎる」
アレクはフレイヤの冷たくなった頬を両手で包み込んだ。
「初めてなんだろ? ……こんな雪の上で、凍えながら済ませたくない」
「寒さなど平気じゃ! アレクがいれば……!」
「俺が嫌なんだ。……もっと暖かくて、柔らかい場所で、フレイヤを大事に抱きたい」
その言葉は、どんな愛の言葉よりもフレイヤの胸に響いた。
アレクは欲求に流されるのではなく、フレイヤの身体を、フレイヤの初めてを、何よりも大切に想ってくれている。
「……春になったら」
アレクはフレイヤの額にコツンと自分の額を合わせ、囁いた。
「春が来て、もっと暖かくなったら。……この花壇の花がもっと咲き乱れたら、その時にしよう」
「春、か」
「ああ。温かくなったらだ。それまで、我慢だ」
アレクの瞳には、嘘偽りのない光が宿っていた。
その光を見ていると、疼いていた体熱が、穏やかで幸福な温もりへと変わっていく。
ああ、そうだ。フレイヤは思う。
焦る必要なんてないのだ。
春は必ず来る。そして春が来れば、もっと素敵な初めてが待っている。
この約束がある限り、二人の絆は切れない。
「……わかった」
フレイヤは涙を拭い、鼻をすすってから、精一杯の傲慢さで顎を上げた。
「許してやる。……その代わり、春になったら覚悟しておけよ? 一晩中、寝かせてなどやらぬからな!」
「はは、お手柔らかに頼むよ。俺も教会で勉強してくるからさ」
「うむ!」
二人は小指を絡ませ、約束を交わした。
花々が咲き乱れる春の夜に結ばれようと。
心も体も、すべてを捧げ合おうと。
アレクに強く抱きしめられながら、フレイヤは至福の表情で目を閉じた。
幸せだった。世界で一番、自分は幸せな少女だと確信していた。
最悪の女帝になど、なるはずがなかったのだ。
◇
そしていつもの日々がやってきた。
春なんて来てほしくないと思っていたのに、今は早く春が来てほしいとフレイヤは思う。
固い石床の上で、フレイヤは熱い吐息を漏らしながら、自身の秘所に指を這わせた。
アレクを思い出すだけで、身体の奥がじんじんと痺れる。
早くアレクのものが欲しい。早く春が来て、アレクに乱暴に、けれど優しく貫かれたいと切に願うのだ。
まだ幼き少女だというのに、その思いは大人の女と相違ない。
「……遅いのう、春は」
窓の外を見る。
アレクの仕事を増やすと憎らしかった太陽が、今は愛おしい。
日差しが強くなるにつれ、世界を覆っていた白い雪が解けて落ちていく。雪解けの雫がポタポタと落ちる音が、フレイヤの心をざわつかせた。
次はいつくるだろう。命を吸わせなければならないから、数日中には来るだろう。
だがアレクは言っていた。仕事が忙しくなる、と。なら無理強いはできない。
できることは、いつアレクが来てもいいように準備をすることだけだ。
フレイヤは毎日、鉄格子の外に手を伸ばして採取した冷たい氷で身体を清め、髪を梳かし続けた。
今夜あたり、ひょっこりと顔を出すかもしれない。
そうして「お待たせ、フレイヤ」と笑って、あの花壇へ連れ出してくれるのだ。
そんな妄想をするだけで、フレイヤの胸は高鳴り、頬が緩んだ。
だが――
「……来ぬな」
その夜、アレクは来なかった。
窓枠に張り付き、月が沈むまで外を見つめていたが、愛しい少年の姿は現れなかった。
「まあ、仕方あるまい」
フレイヤは自分に言い聞かせるように呟く。
雪が溶けて、庭師の仕事が忙しいのだと言っていた。アレクは真面目だから、仕事を放り出すような真似はしないのだろう。
別に適当にやっても叱る者などここにはいないのに、とそのまじめさが恨めしく思う。
だが焦らすのも悪くない。待てば待つほど、会えた時の喜びは大きくなる。
「わらわは大人じゃからな。これぐらい、待てるのじゃ!」
そうして、膝を抱えて眠りについた。
次の日も、アレクは来なかった。
その次の日も、そのまた次の日も。
一週間が過ぎた。
「……なぜじゃ?」
石牢の中を、フレイヤは熊のようにウロウロと歩き回る。
爪を噛む癖が出始めた。不安が心に滲み出してくる。
忙しいだけだ。そうに決まっている。
だって約束したのだ。指切りをしたのだ。
アレクは嘘をつかない。黙っていなくなるなんてあるわけがない。
だから、きっと何か事情があるのだ。風邪でも引いたのかもしれない。
配給のパンと水を投げ入れに来た兵士に、尋ねようとした。
だが言葉が出なかった。この関係がバレてしまったら? あるいは、もっと恐ろしいことを聞かされたら?
フレイヤは怖くて、聞けなかった。
そして十日が過ぎた。
窓の外の雪は、太陽によって溶け始めた。小鳥たちがさえずっている。
もうそろそろ春が来るだろう。
待ちに待った、約束の春が来たのだ。
「アレク……? もう、春じゃぞ?」
虚空に向かって問いかける。返事はない。
あるのは、しんと静まり返った石壁の冷たさだけ。
お腹が空いた。
パンをどれだけ食べても満たされない。
アレクの命が足りない。アレクのキスが足りない。アレクの体温が足りない。
乾ききった心が、ひび割れて悲鳴を上げている。
「……嫌じゃ」
夜、窓枠にしがみつき、フレイヤは泣いた。
このまま鉄格子を外して、アレクを探しに行きたかった。
しかしアレクは簡単に外していたのに、フレイヤの力では外れる気配が微塵もない。
あれは庭師として幼いころから働いていたアレクの筋力と技術があってのことなのだろう。細腕のフレイヤでは、どれだけ叩いても外れなかった。
「出てこい、アレク……! 隠れておるのじゃろう!? わらわを驚かせようとしておるのじゃろう!?」
誰もいない闇に向かって叫ぶ。
「もういい! 許してやるから! 怒らぬから出てきておくれ……ッ! 寂しいのじゃ……会いたいんじゃよぉ……っ!」
慟哭は、冷たい夜風に吸い込まれて消えた。
明日になれば、来るかもしれない。
明後日になれば、きっと。
鉄格子を外して、「遅くなってごめん」と笑ってくれるはずだ。
そう信じて、フレイヤは待ち続けた。
毎日、毎日、身体を綺麗にして。
アレクがくれた待つ時間さえも、愛の証明だと信じて。
けれど、どれだけ待っても、アレクがフレイヤの元へ来ることはなかったのだ。