魔王と勇者の物語~飢えた忌み子に命を分け与えたら、暴君女帝に育ってしまった~ 作:猫屋敷てん
絶望が極まると、人の心は凪ぐのだと知った。
泣いて泣いて泣きわめいて、泣きつかれた果てにフレイヤの慟哭は終わり、あとには広大な無だけが残った。
涙も枯れた。怒りも通り越した。あるのはただひたすらに冷たい納得だけだ。
「世界は……わらわが幸せになることを、許さぬか」
それがこの世界の理らしい。
化け物として生まれ、化け物として扱われ、果てに愛する者を奪われた。
そこまでお膳立てされたのなら、なってやろうではないか。世界が望む通りの最悪の化け物に。
フレイヤはゆらりと立ち上がり、扉に手をかけた。
かつてはびくともしなかったもの。だが今は、なんだってできると感じた。
錠によって封鎖されていても、絶望の底で見つけた呪いの神髄を使えば造作もない。
フレイヤがそっと手をかざすだけで、まるで寿命が奪われるように扉の錠が錆びて腐り落ちていく。
深い深い絶望を味わったフレイヤの呪いは、人を超えて物にまで作用し始めた。
「下らぬ」
だがもう、全てがどうでもよかった。
外に出れば、春の訪れた離宮の庭が出迎える。あそこまで頑丈だった監獄塔の外に出るのは、あまりにも簡単なことだった。
そのままフレイヤは歩く。春の大地を踏みしめて、まだ肌寒いことも気にしない。
すると扉が開く鈍い音が響いたせいか、騒ぎを聞きつけた見張りの兵士たちが、槍を構えて走ってくるのが見えた。
さきほどアレクの死を告げたあの兵士もいる。
「なっ、貴様どうやって出た!? 戻れ! 戻らんと――」
敬語も忘れて慌てる兵士の言葉は、最後まで続かなかった。フレイヤが視線を向けた瞬間、バタバタとドミノ倒しのように全員が倒れ伏したからだ。
悲鳴を上げる間すらない。
立ったままミイラのように干からび、カサカサと音を立てて崩れ落ちる。
「……不味い」
フレイヤは無感情に呟いた。
勝手に流れ込んできた命は、泥水のような味だった。アレクの甘く清らかな命とは比べるべくもない。
フレイヤは、死体で埋め尽くされた大地を悠然と歩く。
もう制御できない自分ではなかった。
以前は呪いが勝手に暴れ出し、周囲を無差別に害していた。だが今は違う。
アレクの純度が高く強靭な生命力を取り込み続けたことで、フレイヤの器は安定し、その呪いを完全にコントロールできるようになっていた。
皮肉な話だ。
アレクが愛ゆえに与えてくれた命が、今アレクを殺した世界を滅ぼすための武器になっている。
「アレク……アレク……アレク」
愛しい人の名を呟きながら、呪いを振りまきフレイヤは歩く。
「そなたのいない世界は、こんなに薄汚れておったのか……」
フレイヤはもう全てがどうでもいい。
あるのは内に秘めた復讐心だけだ。
それに支配されるがままに、離宮を出たフレイヤは南へと歩を進めた。
道中、武装した盗賊団が襲い掛かってくるというアクシデントが起きたが、フレイヤにとっては都合の良い足だった。
恐怖で支配し、馬車を出させた。
御手が狂死すれば、次の者を座らせる。馬が潰れれば、次の馬を調達させる。
不眠不休の強行軍。他者の命を燃やして走る馬車は、わずか数日で帝都へと到達した。
◇
神聖ドラグノフ帝国、帝城。
その日、玉座の間では皇帝による謁見が行われていた。
着飾った貴族たちが列をなし、帝国の繁栄を謳歌している。
大陸の覇者たる皇帝の居城は、この日も静謐と威厳、そして鼻につくほどの香水の匂いに包まれていた。
「――して、南部の干ばつ対策についてでございますが」
「捨て置け」
玉座に深く腰掛けた皇帝は、報告書を読み上げる文官の言葉を退屈そうに遮った。
豪奢なマントを羽織り、指にはいくつもの宝石の指輪。その顔には、絶対権力者特有の傲慢さと倦怠が張り付いている。
「水が足りぬなら、民草に井戸を掘らせればよい」
「は、はあ……しかし、それでは餓死者が」
「代わりはいくらでも産まれてくる。……それより、余は退屈しておるのだ。もっと面白い話を持った奴はおらぬのか」
皇帝が欠伸混じりに手を振ると、文官は青ざめた顔で下がっていく。
続いて、きらびやかな衣装に身を包んだ貴族の男が進み出た。
「陛下! 先日、我が領地にて希少な宝石が採掘されまして――」
媚びへつらう貴族の声。満足げに頷く皇帝。
帝国の中心で行われているのは、民の命よりも宝石の輝きを重んじる腐敗した政治劇そのものだった。
平和で、残酷で、退屈な日常。
だが、その平穏は唐突に破られた――
「へ、陛下……ッ! た、大変でございますッ!!」
玉座の間の重厚な扉が、何の前触れもなく乱暴に押し開けられたのだ。
転がり込んできたのは、一人の近衛兵だった。
兜は脱げ落ち、顔面は蒼白。全身から滝のような脂汗を流し、まるで亡霊でも見たかのように震えている。
その口から放たれるのは悲鳴のような報告だ。
だが皇帝は、不快げに眉をひそめただけだった。
「……騒々しい。控えよ」
「し、しかし! 侵入者が! 侵入者が現れ、止められません! だ、誰も……誰も近づけないのですッ!」
「愚か者ッ!!」
皇帝の一喝が広間に響いた。
謁見の腰を折られた怒りで、皇帝は強く玉座の手すりを叩く。
「たかが侵入者ごときに何を狼狽えておる! 近衛騎士団は何をしている、さっさとその鼠を捕らえて処刑せぬか!」
「ち、違います……違うのです陛下!」
兵士は皇帝の怒号など耳に入らない様子で、ガタガタと歯を鳴らして首を振った。
「あれは……人間ではありません! 死神です! あんな化け物、どうしようも――」
「ええい、五月蠅い! 気が触れたか!」
「き、来ます! すぐそこまで……ひっ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
兵士の言葉が、絶叫に変わった。そして兵士の身体から、水分が抜けていく音がする。
パンパンに張っていた筋肉が瞬く間に萎み、肌が土気色に変色し、深いシワが刻まれていく。
眼球が落ち窪み、若者だった兵士が、わずか数秒で百歳の老人へと変わり果てる。
「あ、げ……ひゅ……」
そしてガシャンッと乾いた音がして、干からびた兵士の体が崩れ落ちた。
「な……」
皇帝が、貴族たちが、官僚が、言葉を失って凍りつく。
何が起きたのか理解できない。
ただ一つ分かるのは、扉の向こうからとてつもなく濃密な死の気配が滲み出してきているということだけだ。
――とこ、とこ、とこ。
そして静まり返った広間に、幼い足音が響く。
崩れ落ちた兵士の屍を踏み越えて、その影はゆっくりと姿を現した。
ボロボロのドレス。
泥と血で汚れた長い銀髪。
華やかな宮廷にはあまりに場違いな、薄汚れた小柄な少女。
「……アレクを殺したのは、貴様か」
少女は虚ろな瞳で玉座を見据え、死神のような声でそう問うた。
玉座に座る皇帝が、驚愕に目を見開き玉座の手すりを握りしめた。
周囲の者達も何がおきたのだと目を合わせる。
「ひ、ひぃぃぃッ!?」
「な、なんだこれは……人が、ミイラになったぞ!?」
「た、助けてくれっ! 誰かあの化け物を退治するのだ!」
一瞬の静寂の後、謁見の間に貴族たちの悲鳴が木霊した。
豪奢な礼服を着た彼らは、蜘蛛の子を散らすように壁際へと逃げ惑う。
その混乱の中、少女――フレイヤはただ一人、無防備な足取りで赤絨毯の上を進んでいく。
少女の足音が響くたび、フレイヤを中心とした空気が凍てついていくようだった。
「き、貴様……何者だ!」
玉座の上の皇帝が、青ざめた顔で立ち上がり叫んだ。
目の前で起きた現象が信じられない。だが、本能が警鐘を鳴らしている。
あれは、人が触れていいものではないと。
「近衛兵! 何を呆けている、出会えッ! その薄汚い侵入者を八つ裂きにせよ!」
皇帝の怒号に弾かれたように、呆然としていた近衛騎士たちが剣を抜いた。
彼らは帝国最強の精鋭だ。皇帝を守る盾であり、敵を砕く剣。溢れ出る恐怖を押し殺し、忠誠心で己を奮い立たせ、フレイヤへと殺到する。
「陛下に近づけるな!」
「死ねぇッ!」
四方八方から振り下ろされる刃。
フレイヤは避けようともしない。立ち止まりもせず、ただ虚ろな目で前だけを見据えている。
――カラン。カラン、カラン、カラン。
刃が届くより早く、乾いた音が連続して響いた。
「な……?」
皇帝が目を見開く。
フレイヤに飛びかかった騎士たちが、あっという間にミイラとなって大地に崩れ落ちるのだ。
命を、水分を、存在を維持するエネルギーを瞬時に奪われ、後に残ったのはミイラと鋼鉄の鎧だけ。
最強の騎士団が、フレイヤの半径数メートルに踏み込んだだけで全滅した。
「ば、馬鹿な……」
豪華な装備も、鍛え抜かれた肉体も意味をなさない。
そこにあるのは、近づくだけで死ぬという逃れようのない理不尽だけ。
「その力……まさか、貴様……」
皇帝の手が震え、玉座の手すりを爪が食い込むほどに握りしめた。
記憶にある。かつて自身が北の果てへ捨てた忌むべき娘。
生まれた瞬間に妻を殺し、周囲を死に至らしめる呪われた子供。最強の兵器として期待したが、無理だと諦め幽閉した娘。
「フレイヤ、なのか……? 北の離宮にいるはずではなかったのか!?」
皇帝の問いかけに、フレイヤはようやく足を止めてゆっくりと顔を上げた。
泥と血にまみれた顔。けれどその瞳だけは闇に満ちたように暗い。
「……アレクを殺したのは貴様か」
フレイヤはまるで独り言のように呟いた。
それに皇帝は唇を震わせながら問い返す。
「あ、アレクだと?」
「庭師の少年じゃ。……一月前、貴様が処刑を命じた」
抑揚のない、死神のような声。
皇帝はひきつった顔で記憶を探り、やがて鼻を鳴らした。
「ああ……報告に上がっていた者か! 忌み子に近づくなどという大罪を犯し、お前を汚したから処分してやったのだ! 感謝こそすれ、逆恨みでここに来るとは――」
「処分――」
フレイヤがその単語を口の中で転がした。
処分。ああ、やはりこの男だ。この男が、愛しきアレクをゴミのように捨てたのだ。
「……そうか」
フレイヤの中で、わずかに残っていた人間としての迷いが完全に消滅した。
この男は父ではない。人間ですらない。ただの排除すべき悪意だ。
フレイヤは再び歩き出した。
一歩、また一歩。玉座へと続く階段を登っていく。
「ひ、ひぃぃ……ッ! く、来るな! 余に近づくな!」
皇帝が裏返った声で叫び、玉座の上で後ずさる。
しかし近衛兵は全滅した。貴族たちは恐怖で腰を抜かして動けない。誰も、助けに来ない。
「ま、待て! 話を聞けフレイヤ! 余は父だぞ! お前を産ませてやった親だぞ!」
「父? ……そうか、貴様はわらわの父か」
フレイヤは皇帝の目の前に立った。
至近距離で見下ろすその瞳には、親への情愛など欠片もない。
「ならば、娘の願いを一つくらい聞いてくれるじゃろう?」
「も、もちろんだ! 金か? 地位か? 北の土地はお前にやろう! だから……!」
「いらぬ」
フレイヤは皇帝の顔面に、そっと手を伸ばした。
「アレクを返せ」
「へ……?」
「返せぬなら、代わりにお前が消えろ」
その直後、人の本能を震わすような不快な音が広間に響き渡った。
皇帝の身体が、中身をストローで吸い出されるように縮んでいく。肌が瞬く間にシワだらけになり、眼球が窪み、髪が抜け落ちる。
大陸を支配した皇帝の命が、莫大なエネルギーとなってフレイヤの中に流れ込んでくる。
「あ、ぎ……ぁ、あ……た、すけ……」
助命を乞う声すら出ない。
ほんの数秒で命がつきて、玉座に崩れ落ちたのは豪華なマントに包まれただけのミイラだった。
「……不味い」
フレイヤは心底不愉快そうに吐き捨てた。
父たる皇帝の命など、腐ったヘドロのようだった。その味はアレクの足元にも及ばない。
フレイヤは玉座に鎮座するそのゴミを、無造作に足で蹴り飛ばした。
カラン、カランと乾いた音を立てて、かつての父が、偉大なる皇帝が、階段を転がり落ちていく。
誰も声を上げられない。ただその光景を震えながら見ていることしかできない。
空になった玉座。
帝国の最高権力の象徴。
フレイヤは、自分のスカートの埃を払うと、まるで普段使いの椅子に座るかのように、ドカッとそこに腰を下ろした。
小さな身体が、大きな玉座に沈み込む。
ふんぞり返り、頬杖をつき、虚ろな目で眼下の生存者たちを見下ろした。
これにより、復讐は終わった。父を殺した。仇を討った。
けれど胸の穴は埋まらない。アレクは戻らない。
復讐を遂げても、残ったのは広大な虚無だけだった。
(……つまらぬ)
もう、どうでもいい。
こんな世界など、壊してしまえばいい。
アレクのいない世界に、守る価値など何一つないのだから。
「……ひれ伏せ」
静かな命令が広間に響いた。
誰も逆らえない。逆らえばどうなるか、目の前の抜け殻たちが証明している。
「あ、は、はいっ」
「ひいっ。す、すぐ頭を下げろ!」
「ど、どうか私の命はお助けください!!」
生き残った貴族たちが、官僚たちが、そう叫びながら一斉に額を床に擦り付けた。
「……今日からわらわが皇帝じゃ」
その日、神聖ドラグノフ帝国は死んだ。
愛を奪われ、心を殺された少女が世界への復讐を開始した日。
全てに絶望し、全てがどうでもよくなったフレイヤが、最悪の女帝になった日だ。
アレクさえいればよかった。アレクさえいればこの女帝が誕生することもなかった。
だが歴史が一つ間違えて、こうして帝国は終焉を迎える。
それが一人の少年が、一人の少女を助けてしまった物語の結末だった――