かこーん、かこーん。
小気味のいい音が、作業場に響き渡っている。
ベアトリーチェは上衣を脱ぎ、シャツ一枚になって薪割りを続けていた。
斧を振り下ろすたび、割れた薪が左右に弾ける。汗が背を伝い、額から滴り落ちたが、手は止めない。
院長エルネスタに言い渡された命令だった。
明日までに、大きな薪庫をいっぱいにしろ──それだけだ。
夜までかかっても終わらないと思える量だったが、文句は言わなかった。
仕事が気に入らなければ、すぐに出て行けと言われている。
ベアトリーチェは無言で斧を振り続けた。
神殿の副神殿長マルティナの紹介状を持って、この庇護院にやってきたのは昨日の朝だ。
神殿はアルバの町を見下ろす高台にあったが、庇護院は平地側の町の端にある。
林に囲まれた敷地の中に、寄宿生や管理者用の宿舎、教場、作業場が建ち並んでいた。
庇護院には、五十人ほどの女性が暮らしている。
そのうち十人ほどが管理者で、四十人ほどが寄宿生である。
寄宿生は例外なく若い女性ばかりだ。
アルバ近郊だけでなく、あちこちから集められているようだった。
貧困で生きていけなくなった者、孤児院を出た者、未亡人など、境遇は様々だと聞いている。
老人や子供はいない。
生活は規律正しく、家内労働を分担して行い、さらに教育を受け、職業訓練を受けるよう割り振られている。
食事も十分なものが出ていた。全員が健康そうで、騎士であるベアトリーチェでも満足できる内容だ。
庇護院を仕切っているのが、院長のエルネスタである。
厳しい表情を崩さない年配の女性であり、最初からベアトリーチェを受け入れない雰囲気だった。
それでも、副神殿長の紹介状があり、しばらく受け入れてほしいと粘った結果、院内で仕事をすることは認められた。
ただし、条件として、半月ほど見習いとして働きぶりを見ること。
そのときに、嫌ならすぐに出て行け──そう言い添えられた。
エルネスタからすれば、この院は、ほかに行くところがない女性の保護施設であり、どこでも働けるようなベアトリーチェのような女性の面倒を見る場所ではない、ということらしい。
初日に与えられた仕事は、洗濯、畑仕事、掃除、水汲みだ。
重労働ばかりで、下働きの仕事が続いた。
さすがに夜には、あっさりと横になることになった。
今日は午前中に、寄宿生に護身術を二度ほど教えた。
護身術の指導は、寄宿生に与えられる教育の一環であり、ベアトリーチェがそれを担任することにもなった。
だが、終わればすぐに、薪割りの仕事を与えられた。
そして、いまに至る。
ただ、気になることがあった。
寄宿生の容姿だ。
みな、可愛く、綺麗だった。
また、この庇護院に入る前、アルバの町で噂を集めた。
アルバはハロンドール東部の港町で、活気のある町だ。
城壁はなく、港を中心に外へ外へと広がってきたような町並みをしている。
庇護院のことは、思ったほど話を聞けなかった。
話題にするのを憚るような雰囲気があった。
ただ、印象として、あまり良い評判ではないことは伝わってきた。
生きる力のない女性を庇護する施設というより、容姿のいい若い女を集めて、なにかをしている胡散臭い場所──。
そんな印象を、町の人は持っているようだった。
庇護院の寄宿生と町の人の交流はほとんどないようだ。
寄宿生の多くが外から来た女性であることもあり、余所者の集まりと見られている節がある。
ただ、庇護院出身のかなりの若い女性が港の娼館で働いていること──。
これは事実だった。
さすがに、娼館には入り込めなかったが、娼婦の斡旋所と言われても、不自然ではない状況であることは否めない。
ここで生活をしている明るくて、愉しそうな若い女性たち……。
彼女たちは、このことを知っているのだろうか……。
かこーん。
かこーん。
単調な薪割りの音が続く。
すると、薪が割れた音に重なって、足音が近づいてきた。
「ベアト」
声をかけられて、斧を止める。
そこに立っていたのは、数日前、偶然に暴漢に襲われていたのを助けたリタだった。
「リタか」
ベアトリーチェは、そばに置いていた布で顔の汗を拭った。
リタが革袋の水筒を差し出してくる。
「水、飲む?」
「ありがとう」
受け取って口をつける。ぬるいが、喉を通ると身体が少し楽になった。
「それにしても、院長さま、ひどいわ」
「そうか?」
「あなただけ、こんなに作業を割り振るなんて」
「まあ、仕方ないさ」
「仕方ないで済ませる話じゃないわ。まるで、あなたが憎いみたい──」
リタは憤慨してくれているようだ。
ベアトリーチェは苦笑した。
「憎まれる覚えはないけどね……。まあ、身体が強いのは、たぶんこの院で一番だからだろう。だから、重労働があてがわれるのだろうさ」
少し戯けるように言った。
「だからって、あの量は無茶よ」
「適材適所ってやつだろう」
冗談めかして言うと、リタはむしろ眉を吊り上げた。
「明日の朝までに、あの薪庫をいっぱいにしろって言われたんでしょう? みんなが噂してたわ」
「まあ……ね」
このリタの前にも、昼食の頃に話しかけに来る娘たちがいた。だが、昼食抜きで働いている理由を問われて、院長のエルネスタに指示された作業を教えたのだが、あの娘たちから聞いたのだろう。
「できるわけないじゃない──」
リタは随分と腹をたててくれているみたいだ。
ベアトリーチェは、軽く肩を竦めた。
「怒っても、命令は変わらないさ」
ベアトリーチェは斧を持ち直し、振り下ろす。
かこーん。
割れた薪をリタが素早く集めて、割り終わった山に運んでいく。
そのあいだに、ベアトリーチェは次の薪を置く。
「あ、そうだ」
すると、リタが思い出したように声を弾ませた。
「んっ?」
ベアトリーチェは、視線を向けた。
「今日の午前中の護身術の指導──。みんなが言ってたわ。ベアトが格好よかったって」
「そうか?」
「うん──。本当よ。すっごく様になってたって」
リタが嬉しそうに笑っている。
ベアトリーチェが褒められたことを喜んでくれるリアに、思わず微笑んでしまう。
「少しでも役に立つならいいけどね。護身術はどんな仕事につくにしろ、覚えて損はない」
「そうね。きっと役に立つわ。あたしが教わる番になったら、一生懸命に学ぶわね」
リタがころころと笑う。
「でも、本当は、男相手ならもっと簡単な方法がある」
「簡単?」
「睾丸を蹴り上げることだ。それが一番効果がある」
リタは一瞬言葉に詰まり、顔を赤らめた。
「そんなの、本当に?」
「本当だぞ」
「冗談じゃなくて?」
「あんな弱点をぶら下げてるんだ。大事なのは躊躇しないことだ。失敗すれば反撃される。そのときこそ、もう男にはかなわない。だから、潰すつもりで蹴りあげるんだ」
「それって、怖いわ……」
「まあ、怖いと思うのは普通だろう」
「じゃあ、襲われるときは、抵抗しないほうがいいのかも」
少し間を置いて、リタが言う。
「それは違うよ。ちゃんと抵抗しないと」
「でも、失敗したら、殴られるんなら、ちょっとくらい我慢した方がいいかも」
「いや、そういうことじゃないんだ」
ベアトリーチェは困ってしまった。
「まあいいか……。ところで、ベアトは、ずっとここにいるつもり?」
リタが話題を変える。
「院長には、半月ほど様子見で雇うとは言ってくれている……。だけど、それ以降のことはわからないかな」
「院長はね……まあ、ああいう人だから……。でも、大丈夫よ。ベアトはそれだけ綺麗だし。きっと長くいることになるわ」
リタはくすくすと笑った。
「よくわからないな。容姿が関係あるのか?」
「あるわ──。あたし、ベアトのことが好きだもの。そのときが来たら愉しみよ」
「そのとき?」
「ふふ、秘密。そのときはそのとき……。ベアトも愉しみにしてて。そのときを……」
リタは意味ありげに笑ったが、それ以上は教えてくれなかった。
ベアトリーチェはしばらく問いを重ねたが、リタも、それに関しては頑なに喋らなかった。
これ以上は、答えは出ないと判断し、この場で深追いをやめることにした。
「そういえば、リタは、いつまでも時間を潰していていいのか?」
ベアトリーチェは訊ねた。
ここの寄宿生は、一日を作業と教育訓練に分けて時間ごとに細かく割り振られている。日中はあまり自由時間はないはずなのだ。
「それは大丈夫よ。あたしって、もともと、明日の夜の研修会の事前教育を受ける予定だったの。でも、行かないことになったから、作業の手伝いにでも行こうと思っていたところよ。この後、行くわね」
「ちょっと待って、研修会って?」
夜の研修会──。
ちょっと、引っ掛かるものがあった。
「研修会は、研修会よ。明日の夜が次の研修会なのよ。選ばれるのは五人だけだけど、可能性のあるものは事前勉強をするのよ。でも、あたしは、男爵さまのところに奉公が決まったから必要なくなったの」
「その研修会って、なにをするんだ?」
「うーん、ごめん……。ベアトにだって、詳しいことは教えられない決まりなのよ」
リタが顔の前で手を合わせる仕草をした。
「なんにも? 決まりってなに?」
「だから、喋っちゃいけないの。ごめんね」
「でも、夜に集まるんだよね……。もしかして、夜宴のお手伝いとか、給仕とか」
当てずっぽうだった。
だが、若い女性が夜に呼ばれる仕事といえば、夜宴の手伝いくらいしか思い当たらない。王都では、私邸での夜宴に人手を集めることは珍しくない。
この院の女の子たちは、容姿もいいし、行儀もいい。
平民だとしても、十分に夜宴の手伝いはできる。
ただ、五人のみというのは、引っ掛かるが……。そもそも、なぜ、秘密?
「えっ、すごい──。どうして、わかるの?」
リタが目を丸くしている。
どうやら、本当に夜宴の手伝いのようだ。
「夜宴か。だから、夜なんだね。それで場所は?」
「参加者しか知らないことになってるわ」
リタが困った顔になった。
「その言い方……。知っているには知っているね。そもそも、リタは研修参加者じゃないよね。だから、噂話を教えたとしても、秘密を暴露したことにはならないよ」
リタに近づき、耳元でささやく。
「うわっ、くすぐったい──。わかったわよ。教えるわよ……。言わないでね。明日は港の公会堂よ」
港の公会堂──。
場所はわかる。
公会堂とはいうが、代官の管理する別宅のようなもので、それを公会堂と称して、公金で運営しているようだ。
見た目は、普通の貴族の屋敷だ。
「へえ、あんなところで……。だったら、集まるのはアルバの町の高貴な人たちだね。代官も来るの?」
「代官さまが来るかどうかは知らないけど、粗相をしたら駄目な方々が集まるって、教えられているわ。だから、事前に勉強するの」
「なるほどね……。リタはいままでに、参加したことはあるかい?」
「ううん。だって、研修会に参加したら、大抵はすぐにいい奉公先が決まるの。院を出て行ってしまうわ。つまり、研修会は稼ぎのいい仕事先を見つける機会というわけ」
「もしかしたら、いままで参加した経験のある者は、もういない?」
「ええ。あたしの知る限り……。だから、あたしは不参加になったの。それよりも早く、奉公先が決まったから」
リタの奉公先──。
ベアトリーチェは、神殿の副神殿長のマルティナの言葉を思い出していた。奉公とは名ばかりで、男爵家の専属の接待娼婦であり、性奴隷にも等しいと……。
ベアトリーチェは、表情を引き締める。
「リタの奉公先って、男爵さまのところだよね。この院の理事もしているって……。名前は……」
ベアトリーチェは思い切って踏み込むことにした。
男爵の名を出して、改めて訊ねた。
「そうよ。よく知っているのね。あたし、男爵さまとしか言わなかったのに」
リタが笑った。
「奉公先で、なにをさせられるかは知っているの?」
「仕事でしょ」
「仕事の内容だよ」
「……まあ、色々よ。もちろん、なんでもするわ。あたし、実は孤児なの。孤児の身分で男爵家で働けるって、常識では考えられないのよ。あたし、恵まれているわ。だから、なんでもするつもり」
リタはきっぱりと言った。
その口調から、もしかしたら、リタは自分が男爵家でさせられることを知っているのではないかと思った。
「その仕事が性奉仕でも?」
「報酬次第ね。でも、ちゃんと手当をくれるなら断らないわ」
リタは、しっかりとベアトリーチェの目を見て応じる。
ベアトリーチェは驚いてしまった。
本当に知っていたのだ。
知っていて、甘んじている?
ベアトリーチェには信じられなかった。
「だって、それは娼婦だろう。そんなことを受け入れるのか──?」
思わず声をあげてしまう。
すると、リタは眼を丸くした。
「娼婦だわ。それがどうかしたの? でも、男爵家に行けば、そこで礼儀作法も、貴族家の家事も覚えさせてもらえる。立場だって、男爵家の奉公人を名乗れるのよ。あたし、この院に入ってよかった──。だって、あり得ない仕事だもの」
リタは言い返す。
ベアトリーチェは、唖然となった。
リタは、男爵家で自分が求められる役割を知っていた。それだけでなく、仕方なくでもなく、諦めでもなく、喜んでそこに行こうとしているのだ。
ベアトリーチェは言葉を失ってしまった。
すると、リタがまた、笑った。
「ベアトって、可愛いわね……。じゃあ、あたし、行くわ。また今度ね……。それと、やっぱり愉しみだわ……。ベアトがこの院に残ることが決まるのが……」
そう言って、愉しそうに跳ねながら、ベアトリーチェに背を向けて立ち去っていく。
しばらくのあいだ、ベアトリーチェはなにも言わずに、その姿を眼で追ってしまった。
「ベアト──」
そのとき、不意に離れた位置から声を掛けられた。
振り返ると、少し離れた場所に院長エルネスタが立っていた。相変わらず表情は硬く、感情の読めない眼差しを向けている。
いつから、そこにいたのか──?
樹木の影に紛れるように立っていたその位置に気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
さきほどの会話を、聞かれていたかもしれない。
周囲に気を配っていなかった。完全に、自分の失態だ。
「薪割りは、もう十分です」
エルネスタは、感情を挟まずに言った。
「えっ?」
「明日の朝一番に、港側の孤児院に向かいなさい。帰りは明後日の夕方以降です。それまでは、そちらの仕事を手伝うのです。ここに戻ってくる必要はありません」
唐突な命令だった。
ベアトリーチェは、一瞬言葉を失った。
「……突然、なぜですか?」
「孤児院も、神殿が管理する施設です。向こうでも人手を探していると聞いています。先方が気に入れば、こちらへ戻る必要はありません」
それだけ言うと、そのまま立ち去ろうとした。
ベアトリーチェは、唇を噛みしめる。
これまでの態度と最初から拒絶するような視線──。
そして、このまるで解雇通知のような物言い──。
そもそも、この院長は、自分の潜入任務に気づいたのではないか。だから、排除しようとしているのではないか。
だから、ずっと頑ななのではないか……と。
「待ってください──」
思わず、声が出た。
ベアトリーチェに背を向けたまま、エルネスタの足が止まる。
「この院が、娼婦養成所と呼ばれていることはご存じですよね。町の噂ですが」
一瞬、この場が張りつめた気がした。
エルネスタは、背中を向けたまま、しばらく動かなかった。
「……あなたのように、恵まれた者にはわからないこともあります」
「恵まれた……?」
低く問い返すと、エルネスタはゆっくりと振り返った。
「教育も受けていない。身寄りもない。文字も満足に読めない。礼儀も知らない。そういう女が、この世には大勢います」
静かな声だった。
「……知ってます」
「いいえ、あなたはなにもわかってません。ここでは、そういう女たちに教育を与え、礼儀を教え、生活できる術を身につけさせます。その結果として、娼婦になれるのは、この院では運のいいことなのです」
ベアトリーチェは、思わず息を詰めた。
「それを……容認するのですか?」
「やはり、あなたにはわからないようです。それと、忠告ですが、長いものには巻かれることです。あなたは随分と正義感が強いと聞いてます。だから、ここに来たのではないですか」
エルネスタは淡々と告げる。
「えっ、どういう意味ですか?」
正義感が強すぎる──。
ベアトリーチェは、王都の騎士団でも、幾度が上司に諭されたことがある。
騎士が正義感が強くして、なにが悪いのか全く理解できなかったが、しばしば周囲と衝突したことが合ったのは事実だ。
だから、しばらく周囲から距離を置けと、突然にこの地方への潜入任務を言い渡された。
しかし、いまのエルネスタの物言いは、まるでそれを仄めかすかのようないい方だった。
「もう立ち去りなさい。ここは、あなたのような者が来る場所ではありません」
それ以上、なにも言わず、エルネスタは踵を返して歩き去った。
残されたベアトリーチェは、その背中を見送ったまま、しばらく動けずにいた。
正しいはずの言葉が、ひとつも届いていない。
この院で通用する理屈は、自分の知っている正しさとは、まるで別のものだった。
斧の柄を握りしめる手に、知らず力が入る。
ただ、考えたのはひとつだけだ。
──このまま、引き下がるわけにはいかない。
陽が完全に沈むのを待って、ベアトリーチェは塀を越えた。
港の公会堂と呼ばれている場所は、実際には柵に囲まれた屋敷であり、外柵への警戒も低いとは言えない。それでも、昼間のうちに周囲を調べ、侵入できそうな箇所はいくつか目星をつけていた。
朝一番で孤児院へ向かえという、昨日のエルネスタの指示には従わなかった。
従うつもりで庇護院を出立し、途中で進路を変えた。
夜に研修会が行われるはずの港の公会堂──そこを自分の目で確かめるためだ。
昼のあいだの公会堂の周囲は慌ただしかった。
荷を積んだ馬車が行き交い、人の出入りが絶えない。
屋敷へ運び込まれる布や酒樽の量から見て、研修会と称してはいるが、夜宴のたぐいであることは疑いようがなかった。リタの話とも合致している。
昼のうちに、荷馬車に紛れて中へ入ることも考えた。
だが、内側の情報があまりにも少なすぎる。警戒の配置も、魔道の気配も読み切れない。
最終的に夜闇に紛れることを選んだのは、ベアトリーチェ自身の判断だった。
夜宴が始まれば、警戒は緩む。
正確には、警戒の質が変わる。
施設全体への目配りよりも、招かれた貴賓一人一人への随伴警護に重点が置かれるのだ。
外周の形式的な警備は残るが、人の視線には死角が生まれる。
それは、騎士として夜宴の警備に関わってきた経験からくる読みだった。
壁を乗り越えることに成功すると、すぐに庭木に身を隠し、ベアトリーチェは屋敷を観察した。
すぐに建物へ近づこうとたが思い留まる。
屋敷の周囲や庭の要所要所に、警戒の魔道が張り巡らされているのを感じたからだ。単純な侵入を拒む構成だ。
警戒魔道を無効にする手段は持っていない。
草の中に身を伏せたまま、機会を待つしかなさそうだった。
静かな待機のあいだ、昨日のエルネスタの言葉が、頭の中で反芻される。
正義感の強い者は、ここに来るべきではない──。
王都でも、同じことを言われてきた。
正義はひとつではない。不正でも、必要な場合がある。見逃すことも選択肢だと……。
ベアトリーチェには納得がいかなかった。
正義は結局ひとつだ。ベアトリーチェを物知り顔で諭す者たちは、それを免罪符にして、高位貴族の名を盾にした不正に目をつぶっているだけにしか見えなかった。
この任務を受ける直前の、王都での出来事が脳裏をよぎる。
酔って狼藉を働いていた若者たちを捕らえ、牢に入れた。だが、彼らはキシダイン邸の私兵だと名乗った。だが、罪は罪だ。ベアトリーチェは容赦なく、規定通りに牢に放り込んだ。
翌朝、彼らは釈放され、謹慎処分を受けたのはベアトリーチェだった。
腐りかけていたベアトリーチェに、しばらく王都から離れる任務を与えてくれたのが隊長であり、それがこのアルバの町における調査任務だった。
馬車の音が思考を断ち切った。
裏口らしき場所に、不釣り合いな大きな馬車が入ってきていた。
警戒の気配に注意しながら、静かに距離を詰める。
馬車の扉が開き、降りてきた姿を見て、思わず息を詰めた。
庇護院の女子たちだ。
先頭に立つのは、院長エルネスタ──続いて、馬車から次々に降ろされていく若い女性たち。
しかも、その姿にかっとなる。
彼女たちは全員、両腕を縄で結ばれ、腰縄で数珠繋ぎにされていたのだ。
夜の闇と距離のせいで表情までははっきりしない。ただ、項垂れているように見えた。
まるで、囚人か、捕虜の扱いじゃないか──。
屋敷から出てきた数名の男たちに、エルネスタは淡々と女子たちを引き渡していく。
声は聞こえない。
女子たちは静かなまま、屋敷の中へと連れて行かれていった。
視線を逸らし、深く息を吐く。
まさか、ここで飛び出すわけにはいかない。
潜入して状況を把握するのが、ベアトリーチェの任務だ。
なにが行われているのかを見極めて、騒動を起こさずに報告だけをする。それが、騎士として与えられた任務である。
それでも、縄で繋がれた光景が、頭から離れなかった。
人を下ろし終えた馬車は、そのまま動き出し、闇の中へ消えていく。
裏口の前に残ったのは、院長エルネスタだけだった。
彼女は一度、屋敷の庭側を振り返り、それから通用口らしき場所から、屋敷の内側へと入っていった。
ベアトリーチェは身を低くし、その場所に忍び進んだ。
そこにあったのは、特別な装飾もない家人用の扉だった。
気配を殺し、足音を抑え、扉の前に立つ。
取っ手に手をかけ、静かに回す。
鍵は掛かっていなかった。
頻繁に人が出入りする場所には、過剰な仕掛けは置かれないだろう──そう判断した。
わずかに開いて、隙間を作る。内側に人の気配は感じられない。
女子たちは、すでに奥へ進んだのだろう。
ベアトリーチェは素早く身体を滑り込ませた。後ろ手に音がしないように扉を閉じた。
──だが、そこで足が止まる。
暗い。
想像していたよりも、はるかに暗かった。
照明が全くない。
屋内であるはずなのに、視界がほとんど利かなかった。
星と月の光が届く分、外のほうがまだ明るいほどだ。
一度閉めた扉を、後ろ手で開こうとする。
しかし、取っ手を回した瞬間、違和感を覚えた。
鍵が、掛かっている……。
思わず眉をひそめる。
施錠をした覚えはない。その気配もなかった……。
状況を把握しようと、手探りで周囲を探った。
そのとき──頬を、かすかな風がかすめた。
はっとした瞬間、闇が割れるように光が灯る。
反射的に身構えようとしたが、すでに遅かった。
周囲を取り囲むように、複数の衛兵が立っている。
いずれもショートボウを構え、矢先はすべて、ベアトリーチェに向けられていた。
「あっ……」
ベアトリーチェは小さく舌打ちする。
「誰だ、お前?」
低い声が、前方から響いた。
衛兵たちの後ろに、黒衣の中年の男が立っている。
表情のない顔で、値踏みするようにベアトリーチェを見下ろしていた。
「侵入者か?」
言葉を返す前に、慌てるように奥側からの足音が重なる。
「なにをしているのですか、ベアト──」
その声に、顔を上げる。
黒衣の男のさらに後ろに、院長エルネスタが立っていた。
呆れたような視線が、こちらに向けられている。
「あ、あの……院長……」
絶望が身体に走る。
ベアトリーチェは失敗したのだ。
「知っている者か、エルネスタ?」
黒衣の男が、エルネスタに問いかける。
その物言いで、この黒衣の男は、おそらくエルネスタよりも立場が強い者なのだろうと思った。
貴族という雰囲気ではないし、夜宴の客である気配もない。
かなりの手練れ……。ベアトリーチェには、それがわかった。
「院の女です」
「侵入者の警報が出た。この通用門から、護符を持たずに入ってきたようだ」
「今夜の夜宴に参加する予定でしたが、事情があって見合わせました。ですが……追い掛けてきたのでしょうね」
エルネスタは、ためらいなく答えた。
ベアトリーチェはじっとしたまま、それを見守る。もしかして、見逃してくれるつもりなのだろうか?
緊張したまま、ふたりの会話を待つ。
「事情ってなんだ?」
黒衣の男が、訝しげに目を細める。
「孤児院の業務に回るように申し伝えました。ですが、この者はどうしても夜宴に参加したかったのでしょう」
淡々とした口調だった。
「はあ、なんだ、それは?」
「とにかく、院からの夜宴参加者のひとりです。武器を下ろしてください」
エルネスタの言葉に、黒衣の男はしばらく躊躇するように考えていたが、一度、ベアトリーチェに全身を舐めるように視線を向けてから、わずかに肩を竦めた。
「なら、すぐに支度をさせろ。だが、見張りをつけるぞ。着替えさせたら、宴に連れていく」
一瞬の沈黙のあと、衛兵たちの弓がわずかに下がる。
だが、包囲は解かれない。
男が示したのは、部屋の一角に作られている布の仕切りの内側だった。
ショートボウを構える衛兵たちから、追い立てられるように、仕切りの内側にエルネスタとともに入っていく。
ベアトリーチェは、従うしかなかった。
状況が、自分の読みを大きく外れていることを、はっきりと理解していた。
「……ばかな女ですね。もう逃げられませんよ……。逃げる機会は幾らでも与えたつもりだったのですがね」
仕切りのなかで、ふたりきりになると、エルネスタがベアトリーチェの耳元で小さくささやき嘆息した。
ベアトリーチェは、エルネスタと向かい合ったまま、小さく息を整える。
「……どうして、庇ってくれたのですか?」
声を潜めて訊ねる。
「庇ったつもりはありません。あなたは罠にかかったのです。ここまで来てしまえば、残された道はひとつだけです……」
エルネスタから即座に静かな返答が返ってきた。
ベアトリーチェは黙って、それを聞く。
「……なにも考えず、夜宴に参加しなさい。眼を閉じ、耳を塞ぎ、抵抗をせずに……。そして、終わったらすべて忘れるのです。それが、あなたが生き残る唯一の方法です」
短い沈黙が流れ、ベアトリーチェは覚悟を決めて口を開いた。
「……抵抗はしません。夜宴に参加します」
それだけを口にする。
おそらく、ただの夜宴ではない。
それは、もう疑いようがなかった。
だが、眼を閉じることも、耳を塞ぐこともできない。
ここで見聞きしたことを、王都に持ち帰る。それが、騎士として与えられた任務なのだ。
「……よろしいでしょう……。では、身につけているものを、ここですべて脱ぎなさい。下着も、装身具も、髪留めひとつ残さずに。そこにある籠に入れるのです」
「……えっ」
思わず、言葉を失う。
確かにに、布で囲まれたこの一角の隅に、網籠ひとつ置かれていた。
「なにもかもって……。ここで、全部ですか?」
唖然としたまま、問い返す。
「夜宴に参加する者は、与えられた物以外を身につけてはなりません。ほかの娘たちも、そうしました。あなたも同じです」
「なら、先にそれをください。着替えます」
「できません」
きっぱりと、否定された。
「そんな……」
「いま身につけているものを脱ぐのが先です。それに──見ればわかるでしょう。私は、その着替えを持っていませんよ」
「じゃあ、どこに……?」
困惑して、ベアトリーチェは訊ねた。
すると、エルネスタは、視線だけで外を示した。
「あなたが耳につけているものを外し、カーテンの外へ出しなさい。そうすれば、着替えは外から与えられます。それが決まりです。全員そうしてます。あなたにだけ例外はありません」
「……」
はっとする。
布越しに、まだショートボウを構えた衛兵たちの影が映っている。
でも、この場で、すべてを脱ぐというのか。
外に男の衛兵が待っている状況で──?
あまりのことに、さすがに、ためらいが胸をよぎる。
すると、エルネスタが大きく息を吐いた。
「……だから、逃げ道を用意したのですよ……。幾つもです──。ですが、それを全て拒んだのは、あなた自身です」
ベアトリーチェには言い返す言葉がなかった。
外には武器を構えた屋敷の衛兵──。
ベアトリーチェはなにも持ってない。
確かに逃げ道はもうない。
「そんな………」
そのとき、少しだけ間を置いて、エルネスタは静かに口を開いた。
「覚悟をなさい。女騎士ベアトリーチェ=ジャルゼ。もう、逃げられません」