「お世話になりました」
騎士団長への儀礼が終わり、ベアトリーチェは敬礼をした。
団長室の中央に置かれた机の上には、騎士爵章と魔道証文が並べられている。
今日をもって国王へ返納されるものだ。書面上の手続きはすでに昨日で終えているが、対外的には、今日がベアトリーチェ=ジャルジェが騎士でなくなる日という扱いになる。
儀礼は、ベアトリーチェ自身の希望により、もっとも簡素な形式で行われた。
立ち会っているのも、騎士団長のほかに、記録官がひとりだけだ。
「ご苦労だった。近衛隊でも頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
ベアトリーチェは軽く頭を下げた。
王都に戻ってから、一箇月が過ぎている。
今日という日は、決断の瞬間ではない。すでに決め終えたことに、手続き上の区切りがついただけだ。
騎士団と近衛隊では、指揮系統も役割も異なる。
女性の軍人で、見栄えがするベアトリーチェには、以前から近衛隊への打診があった。
少し前であれば、取り合うこともなかった誘いだろう。今回は、それに応じる気になった。
それに、特段の理由はなかった。
「楽にせよ。ところで、隊長への挨拶は?」
「先に済ませました」
ベアトリーチェは答えた。
騎士の辞任について相談をした現在の騎士隊長は、アルバ庇護院への潜入任務を命じた隊長とは別の人物だ。
西方ドロボーク方面の国境監視団で闇奴隷に関わる大規模な不正が発覚し、それに伴って地方軍の配置替えが行われている。
その流れで、以前の隊長は、すでに王都を離れていた。
アルバへの潜入調査について、当時の隊長と副神殿長マルティナとのあいだに、癒着のようなものがあったのかどうかは、もう確かめようがない。
ベアトリーチェも、無理に知ろうとはしなかった。
また、調査の報告書には、不正は確認できなかったと記した。自身の監禁については触れていない。
ほかに目にしたことも、報告に値するものではないと判断した。アルバ庇護院の件は、王都ではすでに終わった扱いになっている。
「この後は?」
「特に予定はありません。このまま離脱したいと思います」
「近衛隊への出頭は?」
「十日後でいいと言われています」
「そうか……」
騎士団長は一度、視線を落とした。
「ひとつだけ、立ち入ったことを聞いてもいいか」
「どうぞ」
「騎士爵の返納後、ジャルジェ男爵家への複籍手続きはしていないようだな。近衛隊は形式上は貴族であることが前提だ。手続きだけでも戻した方がよかったのではないか」
「特に理由はありません。近衛隊からも、そこまで求められませんでしたので」
「なるほど」
騎士団長は、それ以上は続けなかった。
「……余計なことを言ったな。立場は変わるが同じ軍人だ。貴官の今後の働きを祈っている」
「ありがとうございます」
ベアトリーチェは敬礼し、そのまま踵を返した。
騎士団長室のある庁舎を出て、ベアトリーチェは営門へ向かった。
あてがわれていた営舎の個室は、すでに明け渡している。今日は、身ひとつで出ればいい。騎士爵章のない軍装のまま、敷石の上を進む。
騎士爵を返納したことで、名乗りは変わるはずだった。だが、近衛隊に籍を置く限り、形式上は貴族として扱われる。通称としての姓が必要になり、結局、同じ名を使うことになった。
選ばなかったわけでも、選び直したわけでもない。そう扱われるだけだ。
ベアトリーチェは歩みを止めず、営門へ向かった。
賑やかな声と、武具の触れ合う音が耳に入った。
ベアトリーチェは、営庭の近くを歩いていることに気づき、自然と足を緩めた。
視線を向けると、少し離れた場所で新隊員の女子兵たちが列を作り、調練を受けている。その前に立ち、号令をかけている女騎士がいた。
シャングリア=モーリアだ。
白銀の長い髪を後ろでまとめ、簡素な訓練装備に身を包んでいる。
動きに迷いはなく、指示は簡潔だった。
剣の構えひとつ、足運びひとつで、新兵たちの姿勢が揃っていくのが、遠目にも分かる。
ベアトリーチェは、シャングリアのことをよく知っている。
モーリア伯爵家の出で、武芸においては男騎士に勝ると評されてきた女騎士だ。騎士団では、外見の印象も相まって、ベアトリーチェと並べて語られることが多かった。女騎士の象徴のように扱われた時期もある。
だが、実際の配置は違っていた。
シャングリアは集団で動くことを好まず、命令系統にも馴染まなかった。
腕はあっても、隊を率いる立場には向かないという評価であり、いまは新兵の調練を任されている。
騎士隊の演練ではなく、営庭の一角での訓練だ。しかも、営庭の端っこだ。
無関係だと思ったことはない。
騎士団にいた頃から、意識していた相手だ。
並べられることに違和感を覚えながらも、どこかで、視線を向けていた。自分とは違う形で、同じ場所に留められている女騎士として。
ベアトリーチェは足を止め、調練の様子を見ることにした。
営庭に向かって足を向ける。
号令と足並みの音が、営庭に響いていた。
しばらくすると、シャングリアが大きな号令をかけた。
「休憩──」
緊張が解け、女兵たちがその場で息をつく。
すると、シャングリアは、そのまま向きを変え、迷いなくベアトリーチェのほうへ歩いてきた。
「ベアト、騎士団から近衛に移るらしいな。今日付か?」
シャングリアは、ベアトリーチェの前に立つと声を掛けた。
並び立つと、ベアトリーチェの方が少し背が低く、軽く見上げるかたちになる。
「さっき手続きが終わったところだ」
「そうか。じゃあ、元気でやれ」
それだけ言って、踵を返す仕草をする。
「……わたしを、軽蔑するか?」
ベアトリーチェはふと訊ねた。
シャングリアは小首を傾げる。
「軽蔑? なんで?」
「騎士をやめるからだ」
「騎士をやめると、なぜ軽蔑なんだ?」
心底、理解できないという表情だ。
ベアトリーチェは、なぜかほっとしてしまった。
シャングリアが苦笑のような表情を浮かべる。
「おかしなことを言うやつだな。とにかく、元気でやれ」
シャングリアが再び歩き出そうとする。
「待て」
思わず声が出た。
「どうした?」
振り返ったシャングリアに、ベアトリーチェは一瞬、言葉を探した。だが、すぐに思い出したことがあった。
「……そういえば、また、どこかの貴公子を人前で手酷く振ったらしいな。男嫌いのシャングリアが、また戦果を増やしたと聞いた」
軽く言う。
シャングリアの顔が、目に見えて赤くなった。
「どの男のことかは知らんが、わたしは男嫌いじゃない」
「違うのか?」
「勝手な決めつけは迷惑だ」
シャングリアの声に力がこもる。
「そう……なのか。てっきりそうだと思っていた。わたしだけじゃないぞ。多分、みんなそう考えている」
「男だろうと女だろうと、好きなものは好きだ。嫌いなものが嫌いなだけだ。たまたま、これまで近づいてきた男が気に入らなかった。それだけの話だ」
「なるほど、お前らしいといえば、お前らしいな」
ベアトリーチェは、素直に頷いた。
「そうだ。わたしは、わたしだ」
シャングリアは少しむっとしたような表情になっている。
その無邪気さがベアトリーチェには心地よかった。
「わかったよ。じゃあ、誰かに聞かれたら、お前は、別に男嫌いじゃないと言っておくよ」
「余計なことをするな。面倒になる」
シャングリアが声をあげた。
思わず、ベアトリーチェは小さく笑った。
「……そういえば、ひとつ聞いてみたかったことがある」
ベアトリーチェは言った。
「なんだ?」
「シャングリアは、もともとシャンデリカという名だったよな。騎士になるときに改名したと聞いた。どうしてだ?」
ベアトリーチェの言葉に、シャングリアは目を丸くしている。
「よく知っているな」
「まあな……。なにか大きな理由があったのか?」
「いや、大きな理由があったわけじゃない。騎士爵をもらうとき、伯爵家とは距離を置くつもりだった。ひとつのけじめだ」
「へえ、それで縁は切れたのか?」
「切れなかった。伯爵家を継いだ大叔父は、いまでも世話焼きでな。心配して、ときどき口を出す。わたしに気を使っているようでな」
「心配なのだろうさ」
ベアトリーチェは、そう言った。
「かもしれん。しかし、余計なのにな。わたしはわたしで、やっている……。じゃあな」
シャングリアは軽く手を上げる。
そのまま、新兵たちのほうへ戻っていった。
ベアトリーチェも、シャングリアの背中に軽く手を振った。
朝の風が、街路沿いの木々を揺らしていた。枝葉の間を抜ける光が、石畳の上にまだらな影を落としている。人の行き交う音も穏やかだ。
ベアトリーチェは私服でその通りを歩いていた。
昨日騎士団を退団し、近衛隊に移るのは十日後なので、そのあいだは、なにもないベアトリーチェということになる。
向かう先は、冒険者ギルドだ。
受付を抜け、奥へと案内される。通されたのは簡素な面談室だ。
重い扉が閉じられると、外の喧騒は遮られた。
机の向こうに座っているのは、副ギルド長のミランダである。
ドワフ族なので、小柄な体躯に童女のような外見をしているが、荒くれたちの多い一騎当千の冒険者を牛耳っている女傑中の女傑だ。
その眼差しには、長い経験を積んだ者の落ち着きがある。
「依頼のあった、アルバの町に関する調査報告書よ。確認してちょうだい」
そう言って、ミランダは机の上に数枚の羊毛紙を置いた。
ベアトリーチェは椅子に腰を下ろし、その報告書に軽く視線を落とすだけで、そのまま折りたたんで、上衣の内側にしまい込んだ。
「ありがとう」
「あら、確認しないの? 調査不十分なら、やり直しさせるけど?」
「いえ、後でゆっくりと確認する。再調査は不要だ」
ベアトリーチェは、準備していた後金を包んだ袋をミランダの前に置いた。
「ふうん、まあ、あんたがそれでいいなら、いいけど」
ミランダは袋を受け取ってから、中身を確認して手前に置き直す。
「じゃあ、これで終了ということでいいわね」
「ええ」
ベアトリーチェは頷いた。
すると、面談室の扉を、外から叩く音がした。
ミランダが顔を上げるより早く扉が開いた。受付に立っていた若い女が、慌ただしく中へ入ってくる。たしか、マリーという名だったはずだ。
マリーは、まずベアトリーチェに向かって頭を下げた。
「お取り込み中のところ、すみません……。ミランダ、悪いけど、またベグとドグがロビーで騒いでるわ」
ミランダは舌打ちをした。
「また、あいつら?」
肩をすくめ、ベアトリーチェを見る。
「ごめん、ベアトリーチェ。ちょっと手が離せなくなったみたい」
「ああ、いいよ。もう終わったし、帰るわ」
「悪いわね……」
ミランダは立ち上がり、マリーに向き直る。
「今度の相手は誰?」
「デルタ支部のテリオから回された新人パーティよ。ほら、ラット狩りで新記録を出したって」
「ああ……あれね」
ミランダは短く頷いた。
「じゃあ、マリー。その達成料は受付で処理しておいて。……ベアトリーチェ、また何かあったら依頼して」
「ええ」
ミランダはそのまま部屋を出ていった。
それに合わせるように、ベアトリーチェも椅子から立ち上がる。マリーに軽く会釈し、面談室を後にした。
ロビーに出ると、雰囲気が一変していた。
床には、体格のいい男がふたり転がされている。押さえつけているのは、目を引く美貌のエルフ族の若い女と、可愛らしい顔をした小柄な人間族の女だった。周囲の冒険者たちは距離を取り、壁際に寄って様子を見ている。
倒れている男たちが、先ほど名前の出たベグとドグなのだろう。
そのすぐ横に、ぱっとしない風貌の男が、所在なさげに立っていた。
ほかの者たちと距離を取っている様子から、同じパーティの一員なのだと察しがつく。
ベアトリーチェは一瞬だけ、その光景を視界に収めた。
女たちの存在感と、男の平凡さの取り合わせが、わずかに印象に残る。しかし、それ以上は足を止めなかった。
そのままロビーを抜け、ギルドの外へ出る。
広場には人の声と物売りの呼び声が溢れていた。ベアトリーチェは、入る前に目をつけていた屋台に向かう。昼と、ついでに夕食の分も買っておくつもりだった。
新しい近衛隊の宿舎は、王宮敷地内にあった。所属はまだだが、居室だけは先にあてがわれている。将校待遇でひとり部屋だ。
無駄のない造りだった。机と椅子、簡素な寝台、衣装箱。窓は高く、外からの視線は届かない。騎士団の営舎よりも静かだった。
夜もかなり更けている。
夕食はすでに済ませていた。
陽が沈み、就寝の時刻が近づくにつれ、身体の内側に、静かな変化が起き始める。
王都に戻ってから、ほぼ毎夜、同じ時刻に訪れるものだった。以前よりは弱まっている。だが完全に消えたわけではない。
ベアトリーチェは、机の前の椅子に腰を下ろしたまま、動かずにいた。
机上には、数枚の羊毛紙が置かれている。折り目のついた束だ。昼、冒険者ギルドで受け取ったままの状態だ。
アルバの町に関する調査報告書だった。
騎士団へ提出した公式報告とは別に、私費で冒険者ギルドへ依頼したものだ。王都へ戻った直後に手配し、届いたのは今日だった。
椅子に深く腰を預けたまま、視線だけを落とす。文字を追うことはせず、紙の重なりや、端についた癖を見ていた。
届いた時点で目を通すのが、これまでのやり方だった。だが、いまはそうしなかった。騎士の籍はすでになく、近衛隊への上番までは、まだ日がある。
報告書は、そこにある。
拒んでいるわけではない。捨てるつもりもない。
ただ、置かれたままになっている。
夜の静けさのなかで、身体の変化が、わずかに強まった。呼吸を整え、姿勢を変える。それでも、完全には収まらない。
一度だけ視線を外し、暗い窓のほうを見る。
再び机に向き直る。
羊毛紙の端に、指先が触れた。
ベアトリーチェは、羊毛紙の束を持ち上げ、最初の一枚に目を通した。
文字は整っており、冒険者の報告としては定型的な書式だった。
冒頭には、庇護院の現状が簡潔に記されている。
運営体制に変更はなく、院長のエルネスタの名は以前と同じ位置にあった。庇護院の名義上の後援者として、地方神殿の副神殿長の名も並んでいる。
視線を下へ送る。
副神殿長マルティナについて、神官としての肩書きとは別に、アルバの町で定期的に夜宴を主催していることが記されている。
夜宴には町の有力者や代官関係者が出入りし、その場で決まる話も少なくない、とある。
影響力について触れた行を、ベアトリーチェは途中まで読んで、次の段落へ視線を移した。
マルティナとエルネスタの関係についても、数行が割かれていた。
かつて親密な関係にあったこと、現在も特別な距離にあることが、事実として並べられている。
その部分を一度読み返し、二度目は行の途中で目を離した。
紙をめくる。
後半には、庇護院を離れた者たちの近況がまとめられていた。
リタの名もあった。
男爵家への奉公話は成立せず、すぐに町の娼館のひとつに入ったことが記されている。
新人ながら客付きは良く、短期間で常連を抱えるようになったとある。話術と応対に長け、店の顔として扱われ始めている、という報告が続いていた。
さらに数行、冒険者の私見が添えられている。
実地で確かめたが、評判に違わず、素晴らしい夜だった、という余計な一文で締められていた。
その頁は最後まで読み、羊毛紙を元の順に戻した。
ベアトリーチェは、束を揃え、机の上に置いた。
最初にあった位置より、わずかに端へ寄せる。
椅子に深く腰を預け、しばらくそのままでいた。
ベアトリーチェは、しばらくのあいだ、目を閉じたままでいた。
椅子の背に体重を預け、肩の位置を変えずに、呼吸だけを続ける。
やがて、右手を机の引き出しへ伸ばした。
引き出しを引き、小さな箱を取り出す。掌に収まる大きさで、表面に装飾はない。
机の上に置き、蓋を外した。
中には、金属製の輪──あのクリリングがひとつ納められている。
内側に刻まれた細かな紋様は、光を失っている。
院を脱走した際、魔力の供給が断たれ、外れた器具と、外れなかった器具があった。
その後、次の大きな街で魔道具屋を探して外してもらった。
すべて処分したが、この小さな輪だけは持ち帰った。
ベアトリーチェは、箱の中を見下ろしたまま、動かなかった。
指先で触れることはせず、位置を変えることもない。
しばらくして、蓋を戻した。
箱を引き出しに収め、引き出しを閉める。
椅子から立ち、寝着のまま、床に降りた。
両手を床につき、体を低くする。
膝はつけない。
口を開け、舌を外へ出す。
鼻を使わず、口だけで呼吸を続ける。
肩と背中が、呼吸のたびに上下した。
その姿勢のまま、一定の間、それを続けた。
呼吸の間隔が変わり、動きが小さくなる。
やがて、床から手を離し、立ち上がる。
寝台へ向かい、身体を横たえた。
灯りを落とし、目を閉じる。
あの庇護院の日々が終わってから、時折、庇護院の情景が夢に現れることがある。
室内と、人の気配。
そのなかにいる自分の姿も含めて、映像は断片的だ。
あのとき、庇護院を離れなかった場合に、どこかで続いていたかもしれない光景のようにも見える。
だが、表情や感情までは、はっきりしない。
今夜は、その夢を見るのだろうか。
【アルバ庇護院】
アルバ庇護院は、ハロンドール王国東方の港町アルバに存在した女性向け互助施設であり、生活に困窮した女子を集団で保護し、生活基盤と職業的自立を与えることを目的としていた。
創設は王暦後期、交易の発展に伴い都市人口の流入が著しくなった時代と推定されている。
本施設は数十名規模の女子を受け入れ、共同生活を前提として運営されていた。
衣食住は最低限ながら安定して供給され、炊事・洗濯・清掃などの日常労働は入所者自身の分担によって維持されていた。
これらの作業は単なる雑務ではなく、都市生活に適応するための生活訓練の一環として位置づけられていたと考えられている。
アルバ庇護院の特徴は、一時的な救済に留まらず、将来的な自立を見据えた技能教育を制度的に組み込んでいた点にある。
縫製、身嗜み、礼儀作法、簡易な帳合や接客の基礎など、都市部で働くために必要とされる実践的な教育が施されていたと史料は伝えている。
特定の職業に直結する訓練というよりも、都市社会全般で通用する素養を身につけさせることに主眼が置かれていた。
こうした教育内容は、当時のアルバという都市の性格を強く反映したものであった。
アルバは交易港として発展する過程で、商業や宿泊業、浴場、娼館など多様な職域を生み出していたが、庇護院で保護される女子に対する需要の大半は、娼館をはじめとする風俗業に集中していたとされる。
このため、アルバ庇護院における職業訓練は、形式上は広範な都市就労を想定しつつも、実際には風俗業の需要に応じた内容に重点が置かれていた。
身嗜みや化粧、礼儀作法、会話術、身体管理といった教育に加え、性的接触を伴う職務を前提とした実践的訓練が含まれていたことを示唆する記述も見られる。
もっとも、これをもって庇護院を風俗業への供給機関と断ずることは、同時代の実態を単純化しすぎるとの指摘もある。
少なくとも史料上、進路は個々の選択に委ねられており、庇護院は特定の就労先を強制する施設ではなく、都市社会の現実的需要に応じた技能を備えさせる場として機能していたと解釈されている。
なお、同時代の記録によれば、当時のアルバの娼館は比較的整った制度のもとで運営されていた。
衛生管理や妊娠に関する技能知識が共有され、身体の検分も定期的に行われていたとされる。
このため、娼婦は単なる被救済層や蔑視の対象ではなく、一定の技能と収入を持つ職業婦人として社会に認識されていた。同時代史料において、娼婦という身分が一律に低く扱われていた形跡は乏しい。
この社会的背景を踏まえるならば、後世の価値観で想定されがちな「庇護院から娼館へ」という一方向的な転落の図式は、当時には必ずしも成立していなかったと考えられている。
庇護院は道徳的矯正の場ではなく、生活と労働への接続点として存在していた。
後年の都市年代記や人物誌には、アルバ庇護院の出身であることを自ら公言していた名高い娼婦の存在が記されている。
彼女は「リタ」の名で知られ、庇護院での集団生活と訓練が自身の基盤であったことを、堂々と語っていたと伝えられる。
リタは成長後、アルバの娼館社会において顕著な成功を収め、財と人脈を築き、都市社会の一角に確かな地位を占めるに至った。
身分ある男性や有力者との交遊が多く記録され、その過程で数々の醜聞も生じたが、生涯にわたって婚姻関係を結ぶことはなかった。
同時代人の回想や後年の逸話集には、酒席においてリタがしばしば語ったとされる話が残されている。
それによれば、彼女の初恋は、名前は伝わっていないが、若き日に出会ったひとりの騎士であり、崇高な志を抱いた人物であったという。
熱烈な恋情を抱いたたものの、ついに結ばれることはなく終わった恋を、彼女は生涯にわたり特別な記憶として抱き続けた。
酔いが回ると、リタはその恋を「もっとも純粋で、もっとも苛烈であった」と語ったとされる。
この逸話は、彼女の華やかな経歴とは対照的な純粋な初恋の存在を伝えるものとして、後世まで語り継がれている。
アルバ庇護院の史料において、リタの名が直接結びつけられることは多くない。
しかし、彼女自身がその出自を誇りとして語っていた事実は、同院が風俗業の養成施設ではなく、多様な生を支えた社会的基盤であったことを示す象徴的な例と考えられている。
出典:ボルティモア著『万世大辞典』より。(以下の再録文献はすべてスクルズ記念国際図書館の許可を得て、初版本より抜粋採録したものである)