憑依モノの9割は嘘 作:lismme
あれから数ヶ月。季節は移ろい、人々の服装は薄くなっている。新刊を手に取る客への会釈もそこそこに、樹の視線は無意識にホールの入り口を彷徨っていた。
「答え合わせ、ね……」
脳裏をよぎるのは、あの夜の出来事だ。とあるイベントで「ツキヤマ」という男の人格を名乗り、大学生の寺前涼菜の身体で樹と関係を持った謎の存在。のちに涼菜が演劇部出身だと知った樹が「全て演技だったのではないか」と問いただすと、相手は不敵にこう言い放った。
『次に先生が参加するイベントで会いに行ってやるよ。答え合わせって事で』
今日は、その約束の日だった。一体、どんな答えが待っているというのか。樹のリクエストした身体を乗っ取って現れるのか? それとも……。
「あの……キチキ先生、ですよね?」
不意に、思考の海から引き揚げるような声がかけられた。聞き覚えのある、鈴を転がすような声。ハッと顔を上げると、そこにいたのは、樹の日常を狂わせた元凶……寺前涼菜、その人だった。今日の彼女は、あの冬の日のコート姿とは違い、髪は後ろで一つに結ばれ、無地のTシャツにスキニージーンズというラフな格好となっていた。
「あ、あなたは」
「先生、お久しぶりです」
彼女は少し照れくさそうに微笑む。その姿は、あの日別れる直前に見た「記憶を失ったはずの彼女」とも、ましてや粗暴な「ツキヤマ」とも違う、ごく普通の、しかし人目を引くほどに魅力的な女性のものだった。樹はゴクリと唾を飲み込む。心臓が早鐘を打ち、何を尋ねるべきか言葉がまとまらない。そんな彼の様子を察したのか、涼菜は少しだけ表情を曇らせ、申し訳なさそうに口を開いた。
「あの……ごめんなさい!」
彼女はそう言うと、手を前に合わせ、深々と頭を下げた。予想していた可能性の一つ。いや、常識的に考えれば、それ以外あり得ない結末。頭では分かっていたはずなのに、いざ本人から告げられると、全身から力が抜けていくのを樹は感じた。
「やっぱり、そうだったんですか」
「はい……」
顔を上げた涼菜はほんのりと染まった頬を指先で軽く掻いた。
「最初から全て寺前さんだったと」
「いや〜、負けました。どんなリクエストにも答えてやろうと思って準備はしてたんですが、幼女はいくらなんでも無理でしたね。完敗です」
苦笑いを浮かべながら涼菜は続ける。そう。『どんな娘がタイプ?』ツキヤマが送ってきた問いに、樹が返した答えは『幼女』だった。憑依が本物であるならば、おそらくは今日現れたのは幼女であっただろう。逆に、もし寺前涼菜の一人芝居であるならば、成人女性である彼女には決して演じられない。これは樹の嗜好ではなく、確認のための罠だった。
「私にボロを出させるために、わざとそんなリクエストを出したんですよね?」
全てを見透かすような瞳で、彼女は語りかけてくる。たとえ憑依が嘘でも、彼女の演技力と機転の速さは本物だ。今の言葉も、裏を返せば物理的に不可能でなければどんな女性でも演じてみせるという自信の表れだ。
「最後に欲張って憑依から解放されたシチュも入れちゃったのが失敗でしたね。今からでも、実は私は前からずっと乗っ取られたままってことにできませんかね? なんて」
「……失望しましたか?」
悪戯のばれた子供のように、冗談めかして反省を語っていた涼菜だったが、何も言わない樹を見て少しだけ表情を曇らせる。
「いや、凄かったですよ。正直、感動すらしてます」
樹ははっきりと答えた。それは偽らざる本心だった。確かに心のどこかに失望があるのは事実だ。だがそれ以上に、創作者として、彼女の技術、そして途方もない情熱と実行力に畏敬の念を抱いていた。
樹の言葉を聞いて、涼菜の強張っていた表情がふっと和らぐ。そして、整った顔に満面の笑みが咲いた。
「……そう言ってもらえて、嬉しいです!」
同じ趣味を持つ者同士の、奇妙な共感。それが、二人の間にあった警戒心を一瞬で溶かしていく。
「もし、ご迷惑でなければですけど」
彼女は少し躊躇いがちにスマートフォンを取り出した。
「今度こそ、ちゃんと連絡先、交換しませんか? ……同じ趣味の、友人として」
その申し出を、樹が断る理由はどこにもなかった。こうして、樹と寺前涼菜の、歪で奇妙な関係が、本当の意味で始まったのだった。
***
「ふふふ、こういう場所に連れてくるなんて、樹さんも意外とロマンチストだよね」
前を歩く涼菜が、微笑みながら振り返る。穏やかな笑顔を青い光が薄っすらと照らした。再会した後に交際を始めた二人は、とある水族館へとやって来ていた。水槽が並んだ薄暗い通路には、他にも何組かのカップルが仲睦まじく歩いている。
「からかわないでくださいよ……」
「えー、本心ですけど? ほら、早く」
「はいはい」
涼菜は樹の手を引いて前へと進んでいく。側から見れば他のカップルと何ら変わりはなく、二人が「憑依」の性癖で繋がった関係だとは分からないだろう。そんな事をぼんやりと考えながら、樹は涼菜の手の温もりを感じていた。
「ねぇ、あそこの……ひぅっ」
「だ、大丈夫!?」
大きめの水槽の前に来た涼菜は何かを指さそうとしたが、突如、彼女の喉奥から、カヒュッと何かが詰まったような異音が漏れた。糸が切れたように膝が折れ、よろめいて掌がべたりとアクリルに張り付く。樹は慌てて彼女の背中を押さえた。
「…………ん? 今なんか言った?」
しばらく涼菜は無言で息をしていたが、十秒ほどでゆっくりと振り返って樹を見た。
「大丈夫? なんか変な声が出てたけど」
「ああ、それね。何でもないよ」
涼菜は面倒くさそうな表情で手を振り、何の異変も起きてないことをアピールする。今の今の出来事であるはずなのに、まるで他人事のような対応だった。
「……まさか、アレをする気?」
「えぇ!? いやいや、流石にこんな場所でやんないってば」
突如として奇妙な呼吸をした後、しばらくして何事もなかったかのように元に戻る……『憑依』の場面の演出としてはよくあるものだ。また例の『憑依ごっこ』が始まったのではないか。樹はため息をつきながら質問したが、涼菜は意外そうに首を振った。公共の場所、しかもデート中にそんな遊びはしないという事らしい。
「ごめんごめん。さ、デートに戻りましょ♪」
普段と同じ調子で樹の手を取る涼菜。気のせいか、さっきよりも手が冷たくなっているように思えた。些細な引っ掛かりを覚えながら、樹は彼女へ付いていく。不穏な空気を象徴するかのように、近くの魚の群れがパッと四方へ散った。
***
涼菜とのデートを終え、樹は自らの車を運転していた。時刻は午後九時を回り、まばらな明かりが車窓を流れていく。
「今日はありがとう、樹さん。楽しかった」
「ああ、僕も」
助手席の涼菜は、一日の余韻に浸るように穏やかに微笑んでいた。あの一件以来、彼女に変わった様子はない。樹の心に芽生えた疑念も、昼間のデートの楽しさの中に溶けて消えかけていた。あれは本当に、ただの貧血だったのだろう。そう思い込もうとしていた。
「じゃあ、また」
「うん、おやすみ」
涼菜の住むマンションの近くで車を停め、彼女を見送る。手を振る彼女の姿がロビーの明かりに消えていくのを確認し、樹はため息をついた。安堵と、まだ消えきらない何かが混じった、複雑な息だった。
もう一度息を吸い直し、車を発進させようとシフトレバーに手をかける。その時、助手席の足元に、見慣れた白色のカバー……涼菜のスマートフォンが落ちているのが目に入った。
「……やれやれ」
樹は苦笑し、エンジンを切って車を降りた。
エントランスに着くとまずはインターホンを鳴らすが、応答はない。しばらく待ってみても、スピーカーは沈黙したまま呼び出しランプは消えた。
「シャワーでも浴びてるのか……?」
ついさっき別れたばかりだ。部屋にいないはずがない。樹は少し迷った後、ポケットから鍵を取り出した。いつだったか、「何かあった時のために」と涼菜から渡された、彼女の部屋の合鍵。使うのは、これが初めてだった。
オートロックのエントランスを抜け、彼女の部屋がある3階へと上がる。彼女の部屋の扉は、静かに閉まっていた。少し申し訳ないとは思いつつも、樹は合鍵を鍵穴へと差し込む。回してみても、妙に手応えがない。そのまま取っ手を引くと、ドアは何の抵抗もなく開いた。鍵はかかっていなかったということだ。
不用心な。樹の頭に、不吉な予感が走る。ゆっくりとドアを開けると、ひんやりとした空気が流れ出してきた。
「……涼菜さん?」
呼びかけても返事はない。室内は真っ暗で、静まり返っている。洗面台や浴室と思しき場所も明かりはついていない。ただ、廊下の奥、おそらく寝室であろう部屋のドアの隙間から、一筋の光が漏れていた。
樹は靴を脱ぎ、慎重に廊下を進む。リビングの床に、見覚えのあるものが無造作に落ちていた。今日、涼菜が着ていたブラウスだ。その先には、脱ぎ捨てられたジーンズが、まるで抜け殻のように転がっている。
一体何が。
心臓が嫌な音を立てるのを感じながら、樹は光が漏れるドアに手をかけた。数センチだけ開いていた隙間から、おそるおそる中を覗き込む。
そこに、彼女はいた。姿見の前に立ち、下着を半脱ぎにした涼菜が、恍惚とした表情で自らの身体を弄んでいた。ブラジャーは下にずり下ろされ、乳輪は露出している。ショーツはソックスを履いたままの太ももでピンと張っていた。樹は息を呑む。聞こえてくる声が、彼の全身を凍りつかせた。
「ん……くくっ……たまんねぇな、こいつの身体……」
涼菜の喉から発せられたとは思えない、低く、下品な声だった。声質は涼菜のものなのに、イントネーションや響きが全くの別物だ。涼菜は、鏡に映る自分の乳房を鷲掴みにし、粘つくような視線で眺めている。
「スベスベの肌にこのデカパイ……こんな良いモン持っておきながら性癖があんなじゃ宝の持ち腐れだな。あ、でも変な性癖って意味では俺も同類なのか、へへっ」
嘲るような笑い声が漏れる。そのまま、指がゆっくりと下腹部へと降りていき、秘部の上を前後になぞり始めた。
「んんっ……! 感度も悪くないね」
涼菜自身のものとは思えない、淫靡な喘ぎ声が上がる。割れ目の中に指を滑り込ませると、水音を立てて掻き回し始めた。
「男に憑依されたフリして彼氏と遊んでたなんて記憶を覗いた時は驚いたが、今日のアイツは傑作だったな。目の前でそれが起こってるなんて思いもしねぇんだもん」
鏡の中の自分に向かって、楽しそうに語りかける涼菜。樹は自分の血の気が引いていくのが分かった。
「アレか? 狼少年ってやつ。ははっ、好都合だぜ。チンポとして見るなら悪くはなさそうだし……」
独りごちると、涼菜はさらに手の動きを速める。濡れた指が秘所を激しく出入りし、部屋に卑猥な音が響き渡った。まさしく、樹が何度も「見てきた」状況だった。
「あ……っ、ん、あぁっ……!」
鏡の前で股を開き、身体をくねらせながら嬌声を上げる恋人の姿。それは樹の知る涼菜では断じてなかった。普段の「ごっこ遊び」とは一線を画す何か。
樹は、声も出せずに後ずさった。その瞬間、強張っていた指から力が抜け、持っていた彼女のスマホが、ごとん、と鈍い音を立てて床に落ちる。
部屋の中の動きが、ピタリと止まった。心臓が喉から飛び出しそうな衝撃のまま、その場に凍りつく樹。数秒の、永遠のように長い沈黙の後、寝室から声が聞こえた。
「……樹さん? そこにいるの?」
空気が凍りついた。先ほどまでの粘つくような下品な響きは霧散し、そこには綺麗に透き通った、いつもの涼菜の声だけがあった。樹は身の毛がよだつ思いだった。本能が逃げろと叫ぶ。踵を返そうと試みるが、足がすくむ。
「なあんだ、やっぱり樹さんじゃん。いるなら返事してよ」
次の一歩を踏み出すよりも先に、背後から、耳慣れた、それでいて寒気のするような声が響く。振り返れば、ゆっくりと開いたドアから涼菜が顔を覗かせていた。乱れた着衣を直すこともせず、太腿を蜜に濡らしたまま話しかけてくる。
「お、お前は……誰だ……」
樹は精一杯の声を振り絞って涼菜……いや、その中にいる何者かへと問いかけた。やはり昼間に感じた違和感は本物だった。涼菜は本当に憑依されてしまっていたのだ。樹の言葉を聞くと、涼菜は心底安心したように、そして満足そうに、ふふっと笑みをこぼした。
「よかったぁ〜……ちゃんと来てくれて♪」
「っ!? 何を……」
頬の前で手を合わせ、パッと満面の笑顔を見せる涼菜。予想外の言葉に、樹は目を白黒させる。
「しかもベッタベタの台詞で返してくれるなんて、さっすが樹さん」
「まさか……」
口元で合わせた手で小さく拍手をし、嬉しそうに樹を褒める涼菜。この表情に、樹は覚えがあった。
「そう、新しいパターンを試してみたくなったの」
例の遊びが終わった時の表情。目の前にあるそれは、樹の記憶の中にある涼菜の姿と全く同じであった。つまり、最初から全てが演技だった。彼女はそう言っているのだ。
「い……今更、彼女のフリで誤魔化そうとしても無駄だぞ……だいたい、一人でいるのに演技をするなんて変じゃないか」
激しく動揺しながらも、樹は反論する。演技は観客がいなければ意味がない。観客のいないところで見せた行動は、即ちその本性に違いないはずだ。
「一人じゃないよ?」
樹の内心を見透かしたように、涼菜は首を横に振った。その冴えきった目線は、足元に転がっているスマホへと落とされる。
一歩、近寄った涼菜は、樹の目の前で屈むと、綺麗な指先でスマホを拾い上げた。
「だって、来てくれるって分かってたもん」
軽く埃を払い、樹の手にそっと渡す。笑みを浮かべながら話す涼菜の声が、まるで金縛りのように響いた。
「樹さんの事だから、見つけたら必ず返しに来てくれるって信じてたよ。どうかな? 先生。今度は『彼女と憑依ごっこで遊んでたら、いつの間にか本物の男が憑依してた』なんてシチュエーション」
悪戯の種明かしをする子供のような顔つきで、涼菜はこちらを見つめてくる。樹は、返す言葉を完全に失った。普通なら苦しい言い訳だ。だが、この場合は違う。いかにも涼菜のやりそうなことだし、それだけの能力が彼女にはある。
「ずっと待ってたんだから。大体さぁ、いくらオナニーに夢中だったからって、インターホンを何回も鳴らされて気づかないなんて事、あると思う?」
「……」
確かにそうだ。理屈としては完璧だった。そう頭の中では納得しつつも、樹は涼菜の言葉のどこかに引っ掛かりを覚える。しかし、憔悴しきった頭にはその違和感を追求する力は残っていなかった。
「折角部屋に来たんだもん、当然このまま帰ったりなんかしないよね? 今回の『演技』の感想も聞きたいし」
甘えたような声を出しながら、硬直した樹の手を両手で握り、寝室へと引き摺り込もうとする。片手の指先に微かな粘り気があるのを感じたが、もはやそれを問い詰めたところでボロを出させることはできない。
「もぉ樹さんったら、ノリ悪いよ? せっかく新しい『演出』に挑戦してるのにさぁ……先生としては、憑依された彼女を目撃した『竿役』はどうするのがセオリーだと思う?」
頬を膨らませながら、じりじりと室内へと入っていく涼菜。いつもの仕草、口調となんら変わらない。もしかしたら本当に、涼菜の手の込んだ演技の一環だというのか? そんな考えが樹の頭をよぎる。その揺らぎが、樹の力を緩ませた。
「樹さん真面目だから、こうでもしなきゃ部屋に来てくれないもんね」
瞬く間にベッドの上へと押し倒され、涼菜が乱暴に覆い被さる。手首を掴む彼女の力の乱雑さが、樹には別人のように思えてならなかった。
「やめろ……っ! お前……っ!」
「なるほど、まだやってほしいんだ。それなら……」
なおも足掻く樹の態度に、目の前の涼菜の表情から、ふっと光が消えた。笑顔も、悪戯っぽい仕草も、全てが抜け落ち、能面のような無表情になる。そして、ゆっくりと唇が開かれた。
「……いい加減にしろよ」
それは、あの時と同じ、低く、ドスの利いた、男の声だった。
「お前らのやってた憑依ごっこはもう終わり。お前もよく知ってんだろ? コイツはもう俺のモンなんだよ。お前がどうこう言ったところで変わんねぇの。どうしてもって言うならちゃーんと涼菜チャンの演技をしてやるから、さ」
涼菜の身体から発せられる、涼菜のものでありながら涼菜ではない声。樹は、全身の血が凍りつくのを感じた。目の前に突きつけられた、残酷すぎる真実。恐怖で声も出せない樹を、涼菜は冷たい目で見下ろしている。しかし、その冷徹な表情は、次の瞬間には、まるで面白いものを見たかのように、ふっと和らいだ。
「……どうかな? これで満足した?」
声は、いつもの涼菜の明るい響きに戻っていた。ソレは、たった今の己の脅迫すらも「演技」の一つとして、押し通してきたのだ。いや、「ソレ」こそが彼女の演出なのか。
頭の中に疑問が渦巻く樹。何も答えられずにいると、涼菜は満足そうにパン、と手を叩いた。
「はい! この話はこれでおしまい!」
場違いなほど明るい表情と声が、部屋の中に反響した。言い終えた涼菜は、ぷはーっと大げさに息を吐き出すと、強張らせていた肩の力をストンと抜いてみせた。
「いやー、今のは我ながら会心の出来だったね。ちょっとやりすぎちゃったかも?」
「……え?」
照れくさそうに頬を指で掻くその仕草に、先程までの捕食者のような気配は微塵も残っていない。そこにあるのは、樹がよく知る、少し悪戯好きで可憐な恋人の顔だけだ。
「涼菜……さん? 本当に……?」
ニコリと微笑む笑顔が張り詰めていた緊張の糸を切り、樹はその場にへたり込むように息を吐く。全身の冷や汗と早まった動悸はまだ戻らない。だが、目の前の彼女はいつもの優しい瞳でそれを見守っていた。
「だから、そう言ってるじゃん。これくらい刺激的なのじゃないと、樹さんは納得してくれないでしょ?」
彼女はぺろりと舌を出すと、樹の膝の間に割り込むようにして体を寄せた。そして、未だに脈動を続けている樹の下半身へと視線を落とす。かちゃりと樹のベルトを外すと、そっと目的のものを外に出す。
「ふふ、前より元気が良さそう。今のが効いてるのなら、手間をかけた甲斐があったってものだね。演技とはいえチンポ呼ばわりとかはちょっと悪いな〜って思ってたけど、楽しんでくれたならひと安心……あんまりノリノリだとちょっとだけフクザツな気分になるのは事実だけどさ」
苦笑いしながら呟く涼菜。その言葉に、樹は返す言葉に詰まった。確かに、彼女が「演じた」憑依者による下品な言葉責めや、自分をモノ扱いする視線に、恐怖と同時にどうしようもない興奮を覚えてしまっていたのは事実だからだ。
「いや、それは……その、あまりに演技が真に迫っていたから、つい」
「ふーん? 『つい』ねぇ……」
言い訳をする樹の顔を、涼菜は下から覗き込む。その瞳は、すべてを見透かしているかのように濡れて光っていた。彼女の手が、樹の頬を優しく包み込む。そのままゆっくりと顔を近づけ、吐息がかかるほどの距離で囁いた。
「やっぱり、私が本当に乗っ取られてた方がよかった?」
「……っ!」
甘く、とろけるような響きの問いかけ。全く妙な点は存在しないのに、なぜか樹は答えに詰まった。否定しても肯定しても、何か取り返しのつかない、大切なものを失う気がしたのだ。凍りついた樹を見て、涼菜は困ったように、けれどどこか愛おしそうに目を細める。まるで、その反応こそが求めていた答えだとでも言うように。
「……なんてね。少し意地悪な質問でした」
ちゅ、とリップ音を立てて、彼女は樹に唇を重ねた。
「どっちでもいいですよ。樹さんが興奮してくれるなら」
そのまま、涼菜は樹の強張った体を抱きしめる。柔らかな肢体が押し付けられ、温もりが伝わる。
「んっ……ふふ、樹さん、顔が怖いよ?」
頬をつんつんとつつき、悪戯っぽく笑う涼菜。その指遣いも、爽やかなシャンプーの香りも、紛れもなく彼女のものに違いなかった。それなのに、心には一抹の不安が渦巻き続ける。
「……樹さん?」
涼菜はそっと樹の手を取ると、そのまま後ろへと倒れ込んだ。シーツの上に黒髪が広がり、白い肢体が無防備に晒される。ホックの外れたブラジャーは胸に引っかかっているだけで、ショーツは片足のふくらはぎまで降ろされていた。
「ほら、どうぞ? もう変な遊びなんてしないから、好きなように」
涼菜は腕を広げ、慈愛に満ちた、けれどどこか挑戦的な瞳で樹を見上げた。まるで餌を差し出すかのような、あるいは獲物を巣へ招き入れるかのような甘い声音。樹は、吸い寄せられるように彼女の上に覆いかぶさった。物理的には樹が彼女を見下ろし、制圧している形だが、樹には自分の意思が操られていく感覚だけがあった。
「んん……そんなに硬くして……可愛い」
涼菜の指先が、樹の腰をゆっくりと這い回る。くすぐるような、焦らすような手つき。樹が動こうとすると、彼女はしなやかな脚を絡めてそれを制し、かと思えば次の瞬間には、もっと奥へと誘うように膝を開く。手慣れた誘導に、樹は抗う術を持たなかった。
「んっ……あっ……」
樹が自身の分身をゆっくりと沈み込ませると、涼菜は背中を反らせて受け入れた。温かく、吸い付くような肉の感触。樹が部屋に入った時に見せつけられた、あの「自慰の演技」が功を奏していたのか、彼女の中は驚くほど濡れていて、樹の侵入を待ちわびていたかのように滑らかに奥へと誘い込む。
「はぁ……っ、すごい……樹さんの、おっきい……」
「うぅ……大丈夫か?」
「ううん、平気……もっと、根元まで入るよ。ほら……♡」
涼菜は樹の腰に回した脚に力を込め、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。まるで大きな熱源に樹自身が呑み込まれていくようだ。繋がった部分から伝わってくるのは、愛おしさというよりももっと原初的な、飢えに近い渇望だった。
「ふふ……っ、樹さん、いい顔……♪」
上から見下ろす樹には、彼女の表情が克明に見えた。頬を染め、口元の緩んだ、快楽に蕩けた顔。だが樹にはその瞳が、樹への愛を訴えているというより、道具を見定めているようにも映った。
「ねぇ……ここも、忘れてない?」
樹が腰を動かし始めると、涼菜は樹の手を取り、自身の豊かな胸へと導いた。
「うふっ……」
掌に余るほどの柔らかさと重量感。樹が指を沈めると、彼女は甘い声を漏らして身をよじる。
「もっと……強く揉んでいいよ。形が変わっちゃうくらい、めちゃくちゃにして?」
「え、でも……」
「ううん、平気。だって、こんなに柔らかいんだよ? 樹さんの手で捏ねくり回されるの、すっごくゾクゾクする……」
涼菜は自分の胸を揉む樹の手を、うっとりとした目で見つめている。自分の身体が愛撫されているのに、その視線はどこか客観的に鑑賞して楽しんでいるかのようだ。一瞬、脳裏をよぎった違和感。だが、手の中にある感触はあまりに心地よく、樹の思考を鈍らせる。
「あはっ、すごい……揺れてる……っ!」
激しく腰を打ち付けるたび、豊満な果実が波打つ。それを見て喜ぶ彼女の笑顔には、無邪気な卑猥さが混じっている気がした。女の身体で犯され、胸を弄ばれる快感を味わいつつ、同時に男の立場で眼下の光景を消費している……そんな錯覚が、樹の興奮を底なしに煽っていく。
「もっと……っ、もっと激しくしていいよっ、樹さん……!」
その懇願は、演技なのか、本音なのか。今の樹には、それが愛を求めている声なのか、それとも涼菜の声帯を使った、もっとイイ思いをさせろという命令なのか、判別がつかなくなっていた。手のひらを覆うもちもちとした感触と、下半身を支配する温かくきつい感触だけが、確かな事実として脳に入ってくる。
「すっ、涼菜さ……んっ!」
「イく……っ、樹さん、出して! ……この身体の奥に、いっぱい出してぇっ!」
絶頂の間際、貪欲な本能が言わせたような絶叫。その懇願に、樹の理性が弾け飛んだ。これが演技なのか、本音なのか、別の何かなのか。確かめる術などない。ただ、目の前の肉体が放つ圧倒的な魅力に、抗うことなどできなかった。
「……っ、出る!」
「んんっ! あ、あっ、熱いっ、入ってきてるぅ……っ!!」
樹は彼女の最奥に、白濁した欲望を全て叩きつけた。涼菜は樹の腰を両足でがっちりとロックし、一滴も逃さないとばかりに膣壁を収縮させる。その強烈な締め付けに、樹の視界が白く弾けた。
「はぁ……はぁ……、んっ……♪」
長い余韻の後、涼菜は樹の下でぐったりと力尽きたように脱力した。乱れた髪、紅潮した肌。事後の彼女は、どこからどう見ても愛らしい恋人そのものだった。……もし、その口元に浮かんだ笑みが、満足げな捕食者のそれでなければ。
「……ふふ、ごちそうさまでした♪」
小さく呟かれたその言葉が、ただの感謝なのか、それとも別の意味なのか。樹はあえて深く考えないようにして、ただ静かに彼女の温もりにすがりついた。
***
カーテンの隙間から差し込む鋭い日差しによって、樹は目を覚ました。重たい頭を振って横を見れば、ベッドの中では昨日と変わらぬ服装……着崩れた下着だけの姿で、涼菜が穏やかに寝息を立てている。
「……涼菜さん、だよね?」
今、涼菜の中にいるのは誰なのか。昨夜の、甘く不穏な体験。あれは本当に彼女の演技だったのか。昨日の出来事が、まだ心のトゲとして深く突き刺さっていた。幸か不幸か、丸まって眠る涼菜の寝相は、いかにも年頃の女子大生らしい清楚なもので、そこには男の影は感じられない。
「うーん……」
樹が複雑な思いでその顔を見つめていると、隣の気配を察したのか、涼菜の瞼がうっすらと開き始めた。長い睫毛がパチパチと瞬きをし、まだ焦点の合わない瞳がぼんやりと樹を捉える。
「ん……ふぁ……おはよう、樹さん」
彼女は寝起きで口元をだらしなく緩ませたまま、ふにゃりと笑みをこぼした。そして、伸びをしながら何気ない調子で言った。
「昨日のアレ、ありがとね。すっごく楽しかった♡」