『一之瀬、いるか?』
「……柊、くん?」
スピーカー越しに聞こえる声の持ち主を理解するのに少しだけ時間を要した。
想像のなかった彼の確証を得ようとインターホンの画面を見れば、間違いなくそこにいたのは柊くんその人だった。
柊くん。柊要くん。Dクラスにいるのが疑問に思うくらい優秀な人で、最近吹聴された私の噂と同じくらい噂に事欠かない男子生徒。もちろん、良くない方向で。
けれど、私と彼の接点はそこまで多くない。すれ違ったら挨拶してたまにちょっとお喋りする、そのくらいの関係性が私と柊くんの繋がり。
わざわざ時間を作って気にかけてくれるほどの仲でもなくてそういう性格でもないはずなのに、どうして私の部屋の前にいるのか疑問だった。
……いや、彼にどんな考えがあったとしても、それを受けとる資格は私にはないんだ。今はもう、誰の顔とも合わせれない。
気怠さのある身体を動かしてスピーカーを切り替えた。
「……おはよう柊くん」
『おう、おはようさん。いきなりで悪いんだが開けてくれるか?一之瀬に用があるんだ』
何の前置きもなく単刀直入に言う彼に、少しだけ肩の力が抜ける。クラスのみんなが声に乗せる気遣いがなくて、何も変わらない彼の姿にどうしてか安心を覚えた。
だけど、その安心感に誘われるわけにはいかなかった。
「ごめんね、今は誰とも顔を合わせる気になれなくて……。用件はまた今度にしてくれるかな?」
『そうか。一応聞いとくが、熱とか風邪はもう治ったんだよな?』
断ることの罪悪感を抱きながら拒絶の意思を示すと、彼は思いの外すんなりと頷いて体調のことを気遣ってくれた。その気遣いを無碍にしてしまうことに胸がちくりと痛む。
「うん、ただ……」
ただ、なんなのだろう。
自分の犯した罪を暴かれて、それから逃げて。ずっと目を背けていた罪悪感に今更押し潰されそうになって。去年みたいに、環境が私を忘れることを祈ってる。
罪は消えなんてしないのに。
『一之瀬?』
薄暗い何かに沈みそうになった意識が柊くんの声ではっと起き上がる。そうだった、今は彼に帰って貰わないといけないんだ。これ以上、私なんかに時間を使ってもらう必要はないんだから。
「ううん、なんでもないよ。私は大丈夫だから、来てくれたのにごめんね」
『そうか…………じゃ、開けるぞ』
「…………え?」
……??開ける?何を?
耳が拾った言葉を咀嚼するより先に現実が動く。困惑する私を置き去りにして″がちゃり″、と閉めていたはずの鍵が開いて、閉じ籠るための唯一の扉が開かれていく。
私以外開けることのできないはずの扉が開かれる、信じられない光景を私は口をぽかんとして眺めるしかなかった。
「よう」
そして、籠城を崩した張本人は至極当然のように、学校ですれ違った時みたく気安く声をかけてきた。
「え、あ、えぇ、へ?な、なんで……?」
あまりに理解の追いつかない現実にただ疑問符だけが頭に浮かぶ。鍵は私しか持ってないはずなのに、どうやって……?
「マスターキー。真嶋先生から借りたんだよ」
″めちゃくちゃ警戒されたけどな″なんて言いながら、柊くんは指に持つキーカードをひらひらと泳がせる。
確かに学校の管轄であるマンションだからそういうのも学校側が持っていておかしくはない、のかな……?
「い、いやでもっ、普通貸さないし、渡したらダメなんじゃないかな……?」
「普通じゃない学校に来といて何いってんだ。それに警戒されたって言っただろ?これでお前に何かあったら俺退学だから」
「え、えぇ……?なんでそこまでして──え、柊くん!?」
「邪魔するぞー」
退学という言葉に混乱している私を他所に、彼はごく自然に中へと上がり込んできた。ずかずかと足を進める柊くんに思わず声が大きくなるけど、彼は気にした様子もなく私の生活圏に脚を踏み入れる。
いや、待って。待って!?私の部屋だよ!?なんでそんな普通に上がれるの!?
「柊くん!勝手に入るのはいくらなんでも常識がないっていうか……!」
「入り口開けっぱだけどいいのか?授業中とは言え、もしかしたら誰かに見られるかもしれんぞ」
「は?な、えぇっ……」
一体どの口が言うのか。明らかに非常識なことをしてるのは柊くんのはずなのに、悪びれる気がさらさらない様子は私の方がおかしいのかと錯覚してしまう。これ、私が間違ってるの?
「うぅっ……!あぁ、もうっ」
既にリビングまで入ってしまっている柊くんと開きっぱなしの玄関に視線を逡巡させて、これ以上被害を拡大させないために急いで入り口を閉めにいった。
しっかりと鍵をかけて彼の方に早足で向かうと、ごく自然にキッチンの前に立って何かを準備し始める彼の姿。
「…………」
絶句とはまさにこのことだと混乱した思考で他人事のように思った。あの、ここって私の部屋だよね?
あまりにも非現実的な光景と非常識な彼に、混乱した思考が一周回って冷静になってくる。
「あの、柊くん……何してるの?」
「飯作ってるに決まってるだろ。あぁ、道具と材料は全部持ってきてるから。別に一之瀬の物使ったりしないからそこは心配すんな」
……もう、訳が分からない。用事があるから来たと言えば勝手に上がり込んできて、他人のキッチンで料理し始めたと思ったら必要な物は自分で持ってきたと言って。
柊くんは比較的分かりやすいタイプの性格なのを知ってる。それは彼が嘘をつけないとか隠し事が苦手とかそういうのじゃなくて、嘘をつく必要も隠す必要もないから。
なのに今回に限っては、柊くんが何をしたいのかも何を目的にしているのかも全然分からない。唯一分かるのは、彼が私のことを全くといっていいほど気にしてないということ。
柊くんはいつも通り、普段通り、彼のやりたいことを行動に移している。自分勝手に。自分本意に。
「俺の用件はお前に飯を食わせることだ。それが終わったら帰るからそれまで我慢するんだな」
そんなことのために、こんなことをしてるの?わざわざ学校休んで、担任でもない真嶋先生からマスターキーまで借りて、仮にも女子の部屋に断りもなく上がって。
その目的が、私にご飯を食べさせること?話が飛躍しすぎて頭の処理が追いつかない。
「柊くんは、何がしたいの?なんで私なんかに……」
彼の考えが一つも理解出来なくて上手く言葉にできない。
私を慰めるというには自分勝手で。
坂柳さんのように痛めつけるというには彼の負担が大き過ぎて。
目的と行動があまりにも矛盾している。
「目的はない。だが理由ならある」
まとまらない思考のせいで俯いた顔が反射的に彼の方に向いた。
「ひよりにお願いされたんだよ。少し気にかけてくれないかってな」
「……え?」
予想外な答えに思わず間抜けな疑問符が漏れた。椎名さん?なんで椎名さんの名前が出てくるの?
「ぶっちゃけ一之瀬がどうなろうと俺には関係ないし興味もない。だけどひよりの友達で、ひよりからその友達が困ってるからって言われたら一肌くらいは脱ぐんだよ」
私に一瞥もくれず勝手知ってる様子でキッチンの前に立ちながら柊くんは続ける。
「お前が学校に来ようが来まいがどっちでもいい。俺にとって重要なのはひよりに頼まれたことと、その頼みに応えたことだ。
それ以外のことは知らん。逆に言えば、一之瀬がどう思おうとそれまでは付き合ってもらう」
「……じ、自分勝手過ぎるよ。そんな、人の気持ちも考えないなんて」
「高校生にもなって閉じ籠るような精神年齢保育園児に与える優しさは持ち合わせてねえ。それが許されるのは良くて小学生までだ」
その言葉は乱暴に私の傷口に塩を塗りたくった。見えない傷がじくじくと痛んで、痛みが熱さになって全身に巡った。
そんなの……っ!
「そんなの私が一番分かってるよっ!」
初めて出したんじゃないかと思うくらい声が響く。身体に走り抜ける熱に導かれて喉が震えた。
「こんなのじゃ駄目だって分かってるよっ!でもじゃあどうすればいいの!?」
していることはただの八つ当たりだ。それでも火を着けたのは彼だからって言い訳して、激流になった感情が蛇口を思いっきり捻ったように流れていく。
「みんなの顔を見たいのに見れないの!玄関の前に立ったら脚がすくんで動けなくてっ!声を聞くと安心するのに怖くなっちゃうの!」
何度も大丈夫だって言い聞かせた。何度も制服を着て靴も履いた。
「それでもドアノブを握ると手が震えて、身体が動かなくて……っ。みんなが待ってるって思うと凄く苦しいの……っ」
自分なんかがみんなの前に居ていいはずがない。
犯罪者の私なんかが優しさを受け取っていいはずかない。その優しさはもっと良い人に与えるべきで、私みたいな罪を犯した人間に向けるものじゃないんだ。
「どうすればいいのっ?私、っ、わかんないよ……っ」
気づけば目から涙が溢れてて、息を吸う度に肩が跳ねる。人前で、いや泣いたのなんていつぶりだろう。あの時は涙すらもでなかったのに。
「失敗したらやることは決まってる」
だけど、みっともない私の姿を晒しても、柊くんは柊くんだった。
「反省、対策、改善。そして実行だ。だが、それを行動に移す前に必要なことがある」
見透かすような黒い瞳は一瞬だけ私を見て、すぐにコンロの方へと戻った。情緒不安定な私に驚くことも慌てることなく、火を確認しながら彼の持論を身勝手に展開する。
「謝ることだよ。謝罪の本質は失敗した事実に決着をつけることだ。自分の口で言葉にして、下げた頭をもう一度上げるために」
小鍋に蓋を被せた柊くんが顔を私の方に向ける。彼の表情にも言葉にも優しさらしい優しさはなくて、なのに起伏の小さい声色はなぜか暖かい。
彼の声はどうしてかなんの抵抗もなく鼓膜を震わせた。
「一之瀬。お前、謝ったか?一番頭を下げないといけない人間に、もう大丈夫だって言ったか?」
一番、謝らないといけない人……。
「ぁ」
お母、さん。
一番尊敬してたのに、一番迷惑をかけてしまった家族。迷惑をかけたまま、不安な思いをさせたまま、私はここに来たんだ。
「お前がうだうだ悩むのは、結局それが出来てねえからだよ。お前の中で決着がついてない。区切りをつけれてない。だから何時まで経っても顔を上げたつもりで、その実俯いたままだ」
「でも、謝ったからって、許されないよ。許されちゃ、いけないよ……」
「人の話を聞け。許されたいと思うな。許されないという事実を謝ることで受け入れるんだ」
……許されない事実を受け入れる。
「取り返しのつかない失敗はある。それでも時計の針は進むし、雨は上がるし、太陽は落ちて月は昇る。なら顔を上げるしかねえだろ」
いいの、かな。後ろめたいことがあるのに顔を上げて。自分が満足したからってそれを周りに押し付けて。全部私がしたことなのに。
それって凄く身勝手で、傲慢なことじゃないの?
「そもそも許されたら駄目っていう発想が視野狭窄だな。お前はテストで赤点取ったら死ぬのかよ」
「そんなことは、ないけど……でも比べるのがおかしいっていうか」
「一緒だ。どれだけスケールが変わろうと重要なのはそのままにしないことで、同じことを繰り返さないっていう意思だ。テストの赤点しかり、周囲に迷惑をかける失敗しかりな」
意思。次は同じことをしないっていう考え方。
……そういえば、次なんてずっと考えてこなかったことに気がつく。
もう駄目だってずっと思ってて、今の状況は罰が下ったんだって。抱えて歩いてきたくせに。
いいのかな、次があるなんて思って。今度こそはなんて都合のいいこと考えて。
「……よし出来た。ほら座れ。そして食え。食い終わったらあとは勝手にしろ」
頬に伝う涙を放置して彼の方に顔を上げると、タオルを手袋代わりにして小鍋を持った柊くんが当然のように私のテーブルに置いた。
何度も繰り返されたような動きは自然的すぎて思考の余地すら生まれない。
そして、驚くくらい自然に身体がテーブルの前に向かった。目の前の小鍋はほんのりと肌に伝わるくらいの熱を放っていて、優しい香りが鼻腔を擽る。
優しくない彼が作ったそれを当然のように食べようとしている自分が不思議で、熱を感じたまま理由を探った。
「…………」
考えて、考えて。さっきまでの彼を思い出す。柊くんがキッチンの前で手際よく料理を進める光景を。
泣いていた時は朧気だけど、その朧気な記憶の片隅にちゃんと残ってる。彼が何を作ってるのか。どんな材料を使ったのか。
あぁそっか。柊くんは見せて、たんだ。私が見えるように。何を入れて何を作るのか把握できるように。ずっと見せてたんだ。
わざわざそれをするために、ここで作ったの?
私が安心して、食べれるように道具も材料も持ってきたの?
そう思い当たるともう駄目だった。眼がひどく熱くなって、頬を伝うのは冷たい涙じゃなくて生暖かい涙で。さっきのよりずっと大粒になって溢れてくる。
「ぅっ……ぐすっ、ひぐっ……」
もしかしたらただの勘違いかもしれない。ただの思い上がりかもしれない。仮にそうするにしたってやりかたがあまりにも強引で、自分勝手だ。
でも、今までされてきたどんなことよりも、暖かくて嬉しくて胸の中にじんわりと染みて。
感情がまた濁流になって、止めれなかった。
「ひぃらぎ、くんっ、ありがとぉ……っ」
「どういたしまして。ひよりにも言っとけよ」
「っ、うんっ」
普段通りの軽い口調がどうしようもなく心地よかった。
「じゃあ俺は帰るから。あとは一之瀬のやりたいようにやれよ」
「うん。本当にありがとう、柊くん」
「……」
「柊くん?どうしたの?」
「それは俺の台詞なんだが?」
「え?──あ」
彼の視線を追いかけて顔を下に向けると、見慣れた手が見慣れない服の袖を掴んでた。
摩訶不思議な光景に理解が追いついた瞬間、思わずばっと手を引っ込める。
な、何してるのだろう私。なんで柊くんを掴んでたの?自分がしたことなのに、全然気づいてなかったんだけど……。
「ご、ごめんね。無意識だったっていうか、気づいたら掴んでたっていうか」
「……お前、簡単にそういうこと言わない方がいいぞ」
「いやでも、しちゃったのは見ての通りだったし……迷惑だったよね」
「これ話がすれ違ってんな」
今日は散々迷惑かけたのに、最後でまたやってしまって気分が落ち込んでいく。おかしいな、今までこんなのしたことなかったのに。
「無自覚で寂しがり屋か……しかも天然。生きた劇物かよ」
「?」
珍しいものを見るような眼をしている柊くんが小さく呟いているけれど、その声は思ったよりも小さく詳しくは把握出来なくて首を傾げる。
「いや……今さら迷惑とか言ってもだろって。一之瀬は少し我が儘なくらいが丁度いいんじゃないか?」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、やっぱり今日はもう頼った後だから。少しは自重するよ」
理解できない動きをした自分の手を見つめながら、柊くんの優しさに首を振る。
泣いたし声を荒げたし、一方的に私の話も聞いて貰った。柊くんが良いっていっても、頼り過ぎるのは良くないかな。
「別にいいけど、構ってほしかったり我が儘聞いて欲しい時はちゃんと言葉にするんだな。俺は言ってくれた方が叶えたくなるし」
なんでもないように口にする彼に押し止めた願望がちょっぴり漏れ出そうになる。
言っていいのかなぁ。聞いて貰っていいのかなぁ。でも、うぅ~ん……。柊くんは良いって言ってるし、ね?
「じゃあその、明日、一緒に学校行かない?やっぱりちょっと不安かも……しれないです」
後ろめたさとか気恥ずかしさを抑えて口にするけど段々と尻すぼみしていって、手を背中で紛らわせるように弄ぶ。慣れなさ過ぎて敬語になってるのが本当に恥ずかしい。
「明日は流石に一人の方がいいと思うぞ?一人で進むのと他人と進むのとじゃあ、一之瀬自身の受け取り方も変わってくるだろうし」
「……そうだよね」
…………そう、だよね。
あれ、おかしいな。なんか、思ったよりガッカリしてる。少しは分かってたのに。
「……くくっ」
今日初めて聞いた声色に顔が反射的に上がる。喉を抑えて鳴らすような音色は不思議と耳に残った。揶揄われたはずなのに、その事実がむしろ嬉しかった。
柊くんって、そういう風に笑うんだ。
「冗談だ冗談。俺が言い出しっぺなのに断らねえよ。頑張ってる奴には応えてやるのが主義でもあるしな」
ぽん、と頭に大きな手が乗せられてそのままゆっくりと動く。雑さを感じるのに髪を乱さない手つきは目を瞑ってしまいそうになるくらい温かくて、胸が強く弾むのにすごく落ち着く。
それこそ、ふとすれば眠ってしまいそうなくらいに。
「でも一人で進むっていう成功体験が必要なのも本当だ。だから一緒にいくのは学校までな。そのあとは一之瀬とクラスの奴らで頑張れ」
「……褒めてって言ったら、また撫でてくれる?」
「ちゃんと言えたらな」
口にする。言葉にする。当たり前だけど難しいこと。柊くんは私よりもその大事さが分かってるんだろうな。
それが私にもできるように手を引いてる。そんな気がする。
手段と目的が入れ替わってしまいそうな魅惑が、頭を撫でる手つきにはある。けれど、それに従うのは多分駄目なんだ。
柊くんは私を、一之瀬帆波を見てる。だから、私もちゃんと私として立とう。聞いてもらう我が儘は、私自身の我が儘がいいから。
撫でられたまま眼を瞑って、開いた。一度暗闇を挟んだ景色はさっきよりもずっと澄んでいる。
「……よし、ありがとう柊くん。今度こそ、大丈夫」
「そうか。じゃあまた明日な」
「うん。また明日。柊くん」
不安はある。怖さもある。だけどもう脚は震えてなかった。
柊要のヒロイン攻略時短テクニック。
自室に閉じ籠ってしまいました。どうする?
一番誠実そうな教師にマスターキーを(ポイントで)借ります。
あとは餌付けして終わり。
因みに主人公はひよりに頼まれなかったら動きませんでした。高校生にもなって自立できない女性はちょっと……。らしいです。傲慢ですね。
でも天然具合と立ち直りの速さと想定外の人としての成長に食指が疼いてるみたい。