都内某所、最新鋭の防音設備と配信機材が並ぶ、ホロライブのスタジオ。
その重厚な防音扉の前に、一人の男が立っていた。
滅道丈(メツドウ ジョウ)。
彼は、スーツの襟を正し、一つ深呼吸をすると、控えめな、しかし確かな意思を込めて、そのドアをノックした。
「失礼します」
静かにドアを開ける。
冷房の効いた涼しい空気と共に、ほのかに甘い香水の香りが漂ってきた。
部屋の奥、革張りのソファに、その人物はいた。
ホロライブ3期生、「宝鐘海賊団」の船長、宝鐘マリン。
彼女は、収録の合間なのだろうか、リラックスした様子で足を組み、スマートフォンを眺めていた。トレードマークの海賊衣装ではなく、ラフな私服姿。しかし、その赤髪と、醸し出す華やかなオーラは、紛れもなく彼女そのものだった。
ドアが開く音に、彼女はゆっくりと顔を上げた。
そして、入ってきた見知らぬ男――滅道を見ると、怪訝そうに眉をひそめた。
「――ん? どなたですか? スタッフさん?」
その声は、配信で聞く高いトーンではなく、少し低めの、落ち着いた地声だった。
滅道は、柔和な笑みを浮かべながら、彼女の元へと歩み寄り、名刺を差し出した。
「突然失礼いたします。本日より、宝鐘マリンさんの密着取材を担当させていただくことになりました、記者の滅道と申します」
「……は?」
マリンの動きが止まった。
彼女は、きょとんとした顔で、差し出された名刺と、滅道の顔を交互に見やった。
その瞳には、困惑と、そして隠しきれない警戒の色が浮かんでいる。
「みっちゃく…しゅざい? 聞いてない…ですけど」
彼女は、スマホを握りしめたまま、身体を少し硬くした。
「マネージャーから、何も?」
「ええ。今日のスケジュールは、ボイトレと収録だけって聞いてますけど」
滅道は、内心で頭を抱えた。
(……やはり、か)
業界では有名な話だが、多忙を極めるトップタレントのマネージャーは、時として致命的な連絡ミスを犯すことがある。どうやら今回も、そのパターンのようだった。
「申し訳ありません。マネージャー様からは、本日のこの時間から取材開始と伺っておりまして…」
「あー……」
マリンは、天井を仰いで、大きくため息をついた。
その表情には、「またか」という諦めと、苛立ちが混じっている。
「つまり、マネちゃんが伝え忘れてるってこと?」
「恐らくは。……今、確認のお電話をしていただけますか?」
マリンは、無言でスマホを操作し、発信ボタンを押した。
数コールの後、相手が出る。
「もしもし、マネちゃん? 今スタジオにいるんだけどさ、なんか記者さんって人が来てて……うん。……はあ? 密着取材? ……忘れてたって、アンタねぇ!」
スタジオに、彼女の呆れ声が響く。
滅道は、その様子を、少し離れた場所から静かに観察していた。
感情豊かで、裏表がない。トラブルに対して、動揺しながらも的確に対応しようとする姿勢。
(……なるほど。これが、宝鐘マリンか)
彼は、手帳を取り出し、最初のメモを書き留めた。
やがて電話を終えたマリンが、疲れたような顔で、滅道の方を向いた。
「……すみません、滅道さん。やっぱり、マネージャーの伝え忘れでした」
「いえ、状況が把握できて何よりです。急な訪問で驚かせてしまい、申し訳ありませんでした」
滅道が深く頭を下げると、マリンは「まあ、座ってくださいよ」と、向かいのソファを勧めた。
彼女の表情から、険しい警戒心は少し和らいでいる。しかし、完全に心を許したわけではない。その瞳は、鋭く滅道を値踏みしていた。
「で、密着取材って……具体的に、何を撮るんですか?」
彼女は、腕を組み、足を組み替えながら、挑発的に問いかけた。
「まさか、船長のあんなことやこんなことまで、撮られちゃう感じ?」
小悪魔的な笑みを浮かべ、からかうように言う。
それは、突然の訪問者に対する彼女なりの防衛本能であり、相手の出方を探るためのジャブだった。
滅道は、その言葉に動じることなく、真摯な眼差しで答えた。
「いえ。私が撮りたいのは、スキャンダラスな暴露話ではありません」
彼は、彼女の目をまっすぐに見つめ返した。
「トップVTuberとして走り続ける、宝鐘マリンという人間の、知られざる『素顔』と、その『生き様』です。あなたが、何を考え、何に悩み、そして、どうやって輝いているのか。その真実を、記録したいんです」
その、あまりにも真っ直ぐで、熱意のこもった言葉。
マリンは、一瞬だけ、虚を突かれたような顔をした。
いつもなら、適当な冗談で煙に巻くところだ。しかし、目の前の記者の瞳には、嘘や下心が感じられない。
「……ふーん」
彼女は、少しだけ興味深そうに、口の端を吊り上げた。
「素顔、ねぇ。……幻滅しても、知らないよ?」
「それは、見てから判断させていただきます」
「ふふっ、生意気な記者さんだこと」
マリンは、ソファから立ち上がると、くるりと背を向け、配信用の機材の方へと歩き出した。
「いいよ、許可してあげる。ただし……船長の魅力にメロメロになって、骨抜きにされないように気をつけてくださいね?」
振り返りざまの、ウインク。
それは、彼女が「宝鐘マリン」というスイッチを入れた合図だった。
こうして、マネージャーのミスから始まった、奇妙な密着取材。
記者・滅道丈と、トップVTuber・宝鐘マリン。
二人の、予測不能で、そして危険な航海が、今、静かに幕を開けた。