バスルームから響いていたシャワーの音が止み、しばくしてドアが開いた。
湿り気を帯びた温かい空気と共に、湯上がりの宝鐘マリンがリビングに戻ってきた。
「お待たせ、滅道記者。……ふん、まだいたのね」
彼女は少し大きめのバスローブを身に纏い、濡れた髪をタオルで拭きながら、努めて平然を装っていた。
しかし、その頬は湯気のせいだけではなく、明らかに赤い。
先ほどの「乳首、立ってますよ」という指摘が、まだ彼女のプライドを内側から焼き焦がしているのだ。
「ええ、契約ですから」
「……まったく。アンタのその鉄の心臓、少しは分けてほしいわ」
マリンは呆れたように肩をすくめると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干した。その無防備な喉の動きに、滅道はふと視線を奪われる。
先ほどの強烈なハプニングを経て、二人の間には奇妙な空気が流れていた。
それは気まずさというよりも、お互いの「見られたくない部分」を共有してしまった者同士特有の、共犯関係に近い連帯感だった。
「さて……取材はまだ続くの? もう寝る時間だけど」
「そうですね。少し雑談でもして、今日は終わりにしましょうか」
滅道が提案すると、マリンはソファに深く腰掛けた。
話題は自然と、部屋に溢れるゲームや漫画のことへと移っていった。
「へえ、そのRPG、最新作までやり込んでるんですね」
「当たり前よ! 船長を誰だと思ってるの? このシリーズはストーリー考察だけで一晩語れるレベルなんだから!」
共通の趣味が見つかると、彼女の表情から警戒心が消え、純粋な少年のように瞳が輝き始めた。
「あそこのボスの攻略法がさあ!」
「わかります、あの初見殺しは酷いですよね」
「でしょ!? 運営に問い合わせようかと思ったもん!」
いつしか時間は深夜を回り、二人は記者と取材対象という立場を忘れ、ただのゲーム好きの男女として笑い合っていた。
完璧なアイドルの仮面の下にある、等身大の彼女。
そして、無機質な記者の仮面の下にある、人間くさい彼。
その両方が混ざり合い、リビングには心地よい温度が生まれていた。
「……ふわぁ」
不意に、マリンが大きなあくびをした。
時計の針は午前2時を回っている。
「そろそろ寝ましょうか。俺はソファをお借りします」
「え? 記者さん、ソファで寝るの?」
マリンは悪戯っぽくニヤリと笑うと、寝室の方を指さした。
「せっかくの密着取材なんだから、同じベッドで寝なくていいの? 船長、寝相悪いから夜中に抱きついちゃうかもよ?」
それは、彼女なりの「配信モード」を取り戻すための、最後の意趣返しだった。
この真面目な記者が、慌てて否定する様を見て楽しもうとしたのだ。
しかし、滅道は静かに立ち上がると、涼しい顔で寝室へと歩き出した。
「わかりました。では、お言葉に甘えて」
「……は?」
「夜中に抱きしめてもらえるなんて光栄です。いい絵が撮れそうですね」
滅道がベッドの端に腰掛けると、マリンの顔が沸騰したように赤くなった。
「ちょ、ちょっと! 冗談よ、冗談! バカ! 何本気にしてんのよ!」
「おや、誘ったのは船長では?」
「うぅ……! もういい! アンタはソファ! 船長はベッド! おやすみ!」
彼女は滅道をリビングへと押し出すと、パタンと寝室のドアを閉めてしまった。
ドアの向こうから、「……心臓に悪いわよ、もう」という独り言が漏れ聞こえてくる。
滅道は苦笑しながら、ソファに横になった。
天井を見上げながら、彼は確信していた。
この密着取材は、ただの記事作りでは終わらない。
宝鐘マリンという魅力的な人間に、自分自身もまた、惹きつけられ始めていることを。
翌朝。
リビングに差し込む朝日で目を覚ますと、キッチンからトーストの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
「……おはよ、滅道記者」
寝癖のついた髪のまま、コーヒーカップを手渡してくれるマリン。
そこにはもう、昨日のような過剰な警戒心も、無理なキャラ作りもない。
ただ、同じ秘密の夜を過ごした相手に向ける、柔らかな信頼だけがあった。
「おはようございます、マリンさん」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。
恋人でもない。友達とも少し違う。
しかし、誰よりも深くお互いの素顔を知ってしまった、「共犯者」たちの朝が始まった。