命は席に戻って、背筋を伸ばしたまま、息を整えている。
表情は変わらない。けど、目だけが少しぼんやりしてる。出し切った顔だ。
その空気を、先に動かしたのは澄乃さんだった。
「……じゃあ、次」
澄乃さんは湯呑みを置いて、俺を見る。
「坊や。今日は泊まっていきなさい」
一瞬、言葉が頭に入らなかった。
「……泊まる、ですか」
「そう。今帰っても落ち着かないでしょう」
澄乃さんは当たり前みたいに言う。
綾乃さんも、静かに頷いた。
「私も同意です」
「今日は、話が多すぎました」
「帰してしまうと、命がまた一人で抱えます」
命の肩が、ほんの少しだけ固くなる。
否定したいんじゃない。恥ずかしいだけだ。
由紀子さんが一拍置いて、俺を見た。
「……客室は空いてる」
「帰るなら止めない。でも、泊まるなら歓迎する」
千佳が顔を上げて、勢いよく言いそうになって、由紀子さんに目で止められる。
でも止まらない。
「……お泊り会!?」
「千佳、声」
「……はい!」
千佳は小声になって、でも目がきらきらする。
「命姉、お泊り会、していいの?」
命が小さく息を吸って、丁寧に言った。
「……騒がしいのは、だめです」
「……はい!」
その返事だけで、千佳はだいぶ嬉しそうだった。
俺は、箱を膝の上に置いて、言葉を選んだ。
泊まるのは簡単だ。でも、勝手に決めるのも違う。
「……ご迷惑でなければ、泊まらせていただきます」
「ただ、母に連絡だけします」
澄乃さんが満足そうに頷く。
綾乃さんも続ける。
「ありがとうございます。こちらも、最低限の段取りは整えます」
「命も、今日は頑張ったんだから、無理しなくていい」
命が小さく頷いた。
「……はい」
俺はスマホを出して、母さんにだけ短く送る。
隼人
『泊まることになった。御堂家。明日帰る』
既読がすぐついて、返事もすぐ来た。
沙織
『了解。ちゃんとしなさいね』
短い。助かる。
スマホをしまうと、澄乃さんが立ち上がった。
「じゃあ決まり。夕食まで少し休みなさい」
「坊やは客室へ。命も一度部屋へ戻って呼吸を整えなさい」
綾乃さんが執事に視線を向ける。
「客室の準備をお願いします。……あと、夕食の席は家族の部屋で」
「かしこまりました」
由紀子さんが俺に言った。
「案内されると思う。困ったら人に頼って」
「はい」
千佳が小声で付け足す。
「……命姉、今、たぶん頭いっぱいだから」
「優しくしてあげて」
「千佳」
「……はい!」
命は千佳を一度見て、それから俺を見た。
目が落ち着かない。けど、逃げない。
「……すみません。泊まることになって」
「いい」
俺が短く返すと、命はほんの少しだけ息を吐いた。
「……はい」
執事が一礼する。
「ハヤト様、こちらへ」
俺は箱を持って立ち上がり、最後に家族へ頭を下げた。
「本日はありがとうございます。ご厄介になります」
澄乃さんが笑った。
「厄介じゃないわ。泊まりなさい」
廊下に出た瞬間、胸の奥が少しだけ静かになった。
執事に案内されて廊下を歩く。
広い。静か。足音が吸われる。
客室は、客室って言葉が似合わないくらい整っていた。
ベッドがあって、机があって、窓の外に庭が見える。ホテルみたいなのに、生活の匂いがある。
「必要なものがあれば、いつでもお呼びください」
「ありがとうございます」
執事が出ていく。扉が閉まると、ようやく一人になった。
俺は椅子に座って、箱を膝の上に置く。
手の中で、重さが変わらない。
――結婚してください。
言われた側の俺が、今さらじわじわ来るのも変だけど。
現実は、少し遅れて追いつく。
スマホを開く。母さんから追加のメッセージが来ていた。
『泊まるなら、焦らず、礼儀だけ忘れないように』
短い。いつも通り。
俺はそれに返さず、スマホをしまった。
焦らない。
礼儀。
それだけでいい。
ノックがする。
「ハヤトさん」
命の声だった。
落ち着いてるようで、少しだけ固い。
「入っていい?」
「どうぞ」
扉が開く。命が入ってくる。
服は朝と同じ。髪も整ってる。表情は相変わらず読みにくい。
でも、目だけはいつもより揺れている。
さっきの場で出し切ったのに、まだ終わってない目。
「……ここ、すごいですね」
命が部屋を見回して言う。
自分の家の中なのに、客室は別の場所みたいな言い方だ。
「すごい」
「……私の家なのに」
命が小さく言って、すぐに視線を落とす。
照れだ。自分の家の規模に。
「……さっき、驚かせました」
「驚いた」
俺が正直に言うと、命は少しだけ息を吐いた。
「……すみません」
「謝るな」
命が一拍置く。
「……はい」
その「はい」が、まだ震えてる。
俺は箱を持ち上げて、机の上に置いた。
命の視線がそこに吸われる。
「これ、俺が預かっていい?」
命は頷く。
「……はい。渡したので」
言い切ったのに、顔が熱そうだ。
出さないようにしてるだけ。
俺は椅子から立って、窓の方へ一歩ずらした。
距離を詰めすぎない。追い詰めない。
「……命」
呼ぶと、命が少しだけ顔を上げる。
「さっきの言葉」
命の肩がほんの少し固くなる。
逃げない。でも、緊張する。
「……はい」
「嬉しかった」
それだけ言う。
余計に飾らない。
命の目が揺れた。
泣きそうじゃない。落ち着きそうな揺れ。
「……そう、ですか」
「そう」
沈黙が落ちる。
でも悪くない。
命が小さく言った。
「……私、勢いで言ったわけではありません」
「分かってる」
「……でも、怖いです」
「うん」
俺は頷いた。否定しない。
「怖いなら、怖いって言っていい」
命が少しだけ息を吸って、吐いた。
「……はい」
そのとき、またノック。
「失礼いたします。夕食の準備が整いました」
執事の声。
命が一拍置いてから言う。
「……行きましょう」
「行こう」
俺は箱を置いたままにするか迷って、命を見た。
命が小さく首を振る。
「……それは、置いてください。大丈夫です」
「分かった」
俺たちは並んで部屋を出た。
廊下は静かで、長い。
でも今は、長さが助かる。
言葉を整える時間になる。
命が小さく言った。
「……千佳が、騒ぎませんように」
「由紀子さんが止めるって言ってた」
「……はい」
命の返事が少しだけ柔らかくなった。
夕食の部屋の前で、命が立ち止まる。
いつもの顔に戻す。丁寧に整える。
俺も深呼吸する。
今夜は“お泊り会”だ。
とうとう100話になりました