夕食が終わって、部屋に戻る。
広い客室は静かで、音が少ない。ホテルみたいなのに、家の匂いが残っている。
俺は椅子に座って、息を吐いた。
今日一日で、情報量が多すぎる。
──でも、まだ終わってない気がした。
ノック。
「ハヤトさん、起きてる?」
声は千佳だった。
「起きてる」
「入っていい?」
「どうぞ」
扉が開いて、千佳が入ってくる。
後ろに由紀子さんもいる。二人ともパジャマじゃない。きっちりしてる。
千佳が部屋を見回して、小声で言った。
「うわ……ここ、ほんとに客室が客室じゃない……」
「千佳、声」
由紀子さんが即座に止める。
千佳は反射で口を押さえる。
「……はい!」
由紀子さんが俺を見る。
視線は鋭いのに、敵意じゃない。測ってる。
「……邪魔だった?」
「いえ大丈夫です」
「ならいい」
由紀子さんはソファに座らず、立ったまま言う。
この人は、長居するつもりがない。
千佳が落ち着かないまま、由紀子さんに効く
「ねえ、由紀子姉……」
「ん?」
「命姉、今……大丈夫?」
由紀子さんが千佳を見て、少しだけ柔らかい声になる。
「部屋で休んでるよ」
千佳が頷く。安心した顔。
「よかった……」
由紀子さんが俺に視線を戻した。
「……正直、びっくりした」
「俺もです」
「そりゃそう」
由紀子さんは短く息を吐いて、それから言葉を選ぶみたいに一拍置いた。
「でも──いい男じゃないか」
その一言が、意外とまっすぐで、俺は少しだけ目を瞬いた。
「……ありがとう」
由紀子さんは肩をすくめる。
「変に持ち上げてない。事実」
「命は……読みにくいだろ」
「読みにくいです」
「だよね」
由紀子さんはそこで、初めて少しだけ笑った。
「でもさ」
「命は、逃げるときは無表情で逃げる」
千佳が小声で言う。
「それ、こわい」
「怖いよ」
由紀子さんは淡々と言って、俺をまっすぐ見た。
「だから頼む」
「命を頼んだよ」
俺は姿勢を正して頷いた。
「任せてください。ちゃんと受け止めます」
由紀子さんが頷く。
「わかった」
千佳が慌てて言う。
「私も言う! ハヤトさん!」
「命姉、すごい頑張ったから、優しくして!」
「千佳、声」
「……はい!」
千佳は口を押さえたまま、でも目は必死だ。
「……お願い」
俺は頷く。
「分かってる」
由紀子さんが軽く手を上げた。
「じゃ、用件終わり」
「千佳、帰るよ」
「え、もう!?」
「もう」
千佳が名残惜しそうに一歩だけ残って、俺を見上げる。
「……ハヤトさん、明日の朝ごはん、いる?」
「いただきます」
「じゃあ、起きてね」
「起きる」
「寝坊したら由紀子姉が起こす」
「起こす」
由紀子さんが即答して、千佳が笑いそうになって耐える。
「……ふふ」
その小さい笑いで、部屋の空気がちょっとだけ軽くなった。
由紀子さんが最後に言う。
「変に気を遣いすぎるな」
「この家、気を遣うと逆に浮く」
「覚えときます」
「うん、口調も普通にしていいから」
「わかり……わかった」
二人は扉の外へ出ていく。
閉まる直前、千佳が小声で言った。
「……命姉、幸せにしてね」
扉が閉まった。
俺は一人になって、もう一度息を吐いた。
“頼んだよ”って言葉が、まだ胸に残ってる。
軽くない。けど、重すぎない。
受け取ったものが増えていく。
箱だけじゃなくて。
風呂場の前で、俺は一度だけ立ち止まった。
静かで、きれいで、広い。ここも“整ってる”。
手をかけたところで、後ろから足音が二つ。
「坊や、待って」
澄乃さんの声は軽い。けど、止まる。
「ハヤトさん。先に確認しますね」
綾乃さんが続く。丁寧で、温度が低い。場を整える声だ。
「……どうぞ」
澄乃さんが、俺の横に並んで笑う。
「先に入ってると思ったのに。寒いの、嫌でしょ。早く行こ」
「一緒に、ですか」
「当然よ。御堂家のお風呂って、話も片づくの」
さらっと引き戸を開ける。湯気がふわっと流れた。
中は旅館みたいだった。
広い洗い場。深めの湯船。窓の向こうに小さな庭。
全部が高いのに、見せびらかしてない。
「坊や。そこ、違う」
澄乃さんが指で場所を示す。逃げ道のない優しさ。
「……分かりました」
「いい子ね」
綾乃さんは淡々と準備を始める。
「湯は熱すぎません。のぼせないようにしてください」
ベットの上とは違う取り繕った丁寧さだ。
俺も真似して動く。
言葉が少ない方がいい。
澄乃さんは俺を見て、肩をすくめるみたいに笑う。
「今夜、命のこと頼んだわよ」
「ただ命はまだ12歳、妊娠は高校生になるまで待ってほしいの、避妊薬はあとで渡すわ」
「わかりました」
「うん、そう言うと思った」
綾乃さんが、丁寧に続ける。
「念のためお伝えします。命は、準備が整っていないと来ません。ですが、整ったら来ます、──それまで部屋で待っててちょうだい」
「……分かりました」
澄乃さんが小さく笑って、湯船を指で示す。
「ほら。今は湯に浸かりなさい。坊やが落ち着いてる方が、あの子も落ち着く」
「承知しました」
「いい返事」
澄乃さんは満足そうに頷く。
俺は短く息を吐いて、湯に入った。
湯はちょうどいい。なのに胸の奥だけ、少し固い。
澄乃さんが、ふっと息を吐く。
「坊や、好きよ、愛してる。だから坊やも命のことも愛してあげて」
一瞬だけ、呼吸が止まる。
軽い言葉じゃない。試すみたいでもない。
“決め”として置かれた言葉だった。
俺は湯の中で背筋を伸ばして、短く答える。
「もちろんですよ命だけじゃなくて綾乃さんも澄乃さんも愛してますよ」
綾乃さんが、目を細めるでもなく、口元を緩めるでもなく――それでも、ほんの少しだけ空気をゆるめた。
丁寧なまま、確認するように言う。
「……承知しました。では、その言葉に責任を持ってくださいね」
「はい。持ちます」
澄乃さんは満足そうに頷いて、姉みたいな声で続ける。
「いい子。言えたなら大丈夫。あとは、ちゃんと待ちなさい」
「坊や」
澄乃さんの声が戻る。
澄乃さんが湯面を指先でなぞって、こっちを見た。
笑い方が、さっきより少しだけ甘い。
「婚姻具を受け取った以上、坊やはもう“お客さま”じゃないの。身内側」
柔らかいのに、決定だ。
「だからね。もう遠慮しなくていい。困ったら困ったって言いなさい。黙って背負うの、やめて」
「……承知しました」
綾乃さんが、丁寧さを保ったまま、言葉だけ少しほどく。
「そうです。あなたが全部ひとりで抱える必要はありません。こちらも、抱えます」
淡々としているのに、内容が甘い。
「身内ですから。逃げ道を塞ぐ意図ではなく、支える意図です」
「聞いた? 私も綾乃も坊やには甘々ね」
澄乃さんが小さく笑う。
綾乃さんは表情を変えずに、淡々と返す。
「否定はしません。必要だからです」
「坊や、家族ってそういうもの。守ると決めたら、守られていいの」
湯気の向こうで、笑う。
「分かる?」
俺は短く頷く。
「……分かります」
「うん、いい子」
澄乃さんの声が、完全に“身内”のそれになる。
「その返事が出るなら十分。あとは温まって、命を導いてあげて」
綾乃さんも、最後だけ少しだけ素を混ぜる。
「のぼせないでくださいね。あと、水分。これは命令です」
丁寧なのに、言い切り。
綾乃さんはそれで終わらせる。感情を混ぜない。
澄乃さんが最後に、姉みたいな声で釘を刺す。
「命が言葉にしたものは、受け取りなさい。否定で返すと、あの子、黙るの」
微笑む。優しいのに、怖い。
「黙る子ほど、一回黙ると長いから。坊や、そこだけは気をつけて」
「分かりました」
綾乃さんが静かに立つ。
「長湯はお勧めしません」
澄乃さんも湯船から上がって、俺の方を見た。
「坊や。考えすぎないのよ。来るなら、来る。待てるでしょ?」
「……待ちます」
「よろしい」
澄乃さんは満足そうに頷いて、先に出ていった。
残った湯気が薄くなる。
俺は短く息を吐いて、湯から上がる。
部屋へ戻る廊下で、スマホが震えた。
命からの短い通知。
命
『まだ起きていますか』
『……少し後で、伺ってもいいですか』
俺はすぐ返す。
隼人
『いい』
『待ってる』
さすがにドキドキしてきた。