※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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103話 言葉にする夜

廊下の足音が止まって、控えめなノックが二回。

 

「失礼いたします」

 

扉が開いて、執事が静かに入ってきた。動きに無駄がない。音も立てない。手には銀のトレー。上には水の入ったグラスと、小さな黒いケースがひとつ置かれている。

 

「ハヤト様。お風呂上がりにお水を」

 

執事はトレーを机に置き、ケースをそっと手前に寄せた。

 

「こちらは――奥様より。今夜のために、と」

「……これは?」

 

執事は視線を上げずに、言葉だけを丁寧に置く。

 

「避妊薬でございます。即効性がございます」

 

一拍置いて、続ける。

 

俺はケースを見たまま、息を短く吐いた。

 

「分かりました。……ありがとうございます」

「承知いたしました」

 

執事は一礼するだけで、余計な顔をしない。

執事は最後にもう一度だけ頭を下げて、扉の前で止まった。

 

「それでは、今夜はどうぞ ごゆるりと お過ごしくださいませ」

 

扉が閉まる。

残ったのは、水の透明さと、小さな黒いケース。

 

 ――御堂家の夜は静かすぎる。

 静かだから、余計な音が全部意味になる。

 

 コン、コン。

 

 二回。間がきれい。

 胸の奥が、少しだけ固くなる。

 

「……どうぞ」

 

 扉が、静かに開いた。

 

 命がいた。

 部屋着のまま、髪はきちんと整えているのに、ほんの少しだけ呼吸が浅い。表情は読みにくい。けど、目がいつもより真っすぐだった。

 

「……失礼します。ハヤトさん」

 

 声は丁寧で、崩れてない。

 でも、間がいつもより長い。

 

「来たんだな」

「はい」

 

 命は一歩だけ入って、扉を閉める。鍵はかけない。

 それが、この家の“決まり”みたいに見えた。

 

 短く言う。

 

「……座る?」

「はい」

 

 命はベッドの端にそっと腰を下ろした。

 背筋をまっすぐにして、膝の上で指を組む。指先が少し強い。

 

「……遅い時間に、すみません。待っていてくれて、ありがとうございます」

「いい。気にすんな」

「……今日、皆の前で言った言葉」

 

 命の声が少しだけ低くなる。

 

「……取り消しません」

「うん」

 

 命は目を伏せて、また上げた。

 揺れてるのに、逃げない目。

 

「ハヤトさん」

「ん」

「……怖い、とは違います」

「でも、落ち着かない。……自分のことなのに、他人のことみたいで」

「分かる」

「……分かりますか」

「分かる」

 

 俺は言い切ってから、少しだけ間を置いた。

 

「命が言葉にするまで長いのも。言葉にしたら短いのも」

 

 命のまつげが一度だけ揺れた。

 

「……私は、上手じゃないです」

「好き、とか。大事、とか。そういうのを、綺麗に言えない」

「綺麗じゃなくていい」

「……でも」

 

命はそこで止まる。止まって、逃げない。

 そして、短く言った。

 

「……ハヤトさんが、必要です」

 

 それだけで、十分だった。

 俺は息を吐いて、結論を置く。

 

「俺も」

 

 命の肩が、ほんの少しだけ落ちる。

 緊張がほどけた証拠。

 

 命は立ち上がらない。

 そのまま、少しだけ椅子を前に引いた。距離を詰めたんじゃない。意志を近づけた。

 

「……今夜」

 

 命が言って、口を閉じる。

 言葉が続かない。けど、目が続いている。

 

 俺は待つ。

 焦らせない。逃がさない。

 

「命。言えるとこまででいい」

 

 命は、ゆっくり頷いた。

 そして、スマホを取り出して画面を開く。メモ。たぶん、準備してきた言葉。

 

 画面を見たまま、命は小さく言う。

 

『……順番を、間違えたくありません』

 

 スマホの文字は静かで短い。

 でも、声より正直だ。

 

「間違えない」

 

 命は、ようやく顔を上げた。

 読みにくい表情のまま、はっきり言う。

 

「……だから。今夜は、話をします」

「……私の、遅れている気持ちを、ちゃんと出します」

「うん。聞く」

 

 命は小さく頷いた。

 椅子の背を握って、息を一度だけ整える。声は丁寧なまま、間が長い。

 

「……先に、謝ります」

 

 言い切ってから、視線を落とす。

 

「花火の夜。私は、自分の気持ちが分からないまま、欲しがりました」

「……困らせたと思います」

「困ってない」

 

 命のまつげが一度だけ揺れた。

 それでも表情は崩れない。

 

「……恵さんが、あなたにキスしていたのを見たとき」

 

 命はそこで、少しだけ言葉を止める。

 

「……嫌でした」

 

 短い。だから本音だ。

 

「理由は、すぐに言葉になりませんでした」

「でも、内側は、ずっとざわついていました」

「嫉妬?」

「……たぶん」

 

 命は言い切らない。

 

「それだけじゃなくて……置いていかれる感じがしました」

「私だけ、決めるのが遅いから」

「置いていかない」

 

 俺が言うと、命は頷きもしない。

 ただ、肩の力がほんの少しだけ抜けた。

 

「……今日、家の前で『結婚してください』と言ったのは」

 

 命は胸元に手を当てた。婚姻具の位置。

 

「勢いじゃありません」

「逃げ道を消さないと、私はまた迷うと思ったからです」

「命らしい」

「……はい」

 

 短く返して、命は少しだけ目を伏せた。

 

「でも」

 

 命の声が小さくなる。

 

「言ったあと、怖くなりました」

「この世の中はパートナーが複数なのが普通で、家もそうで……分かっているのに」

「私は、まだ……慣れてない」

 

 俺は待つ。

 急かさない。

 

「……だから、欲しいです」

 

 命が顔を上げる。目が真っすぐだ。

 

「貴方の中に、私の場所が欲しい」

「ここが居場所だって、分かる言葉が欲しい」

「ある」

 

 俺は短く言って、続けた。

 

「命の場所は、俺の中にある」

「変わらない」

 

 命はしばらく黙った。

 黙って、息を吐いて――やっと言葉を出す。

 

「……ありがとうございます」

 

 それから、もう一歩だけ踏み込むみたいに。

 

「……私は」

「ハヤトさんに、愛されたいです」

「愛されてるって、分かる形で」

「分かった」

 

 命が、少し驚いたみたいに瞬きをする。

 

「……本当に」

「本当」

 

 命の肩が、ふっと落ちた。

 安心の合図。

 

 俺は短く言った。

 

「命。好きだ」

「愛してる」

 

 命は固まって、それからゆっくり息を吐いた。

 表情は、いつも通り読みにくいまま――のはずだった。

 

 でも、口元がほんの少しだけほどける。

 笑おうとしてるんじゃない。漏れたみたいな動き。

 目尻も、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。

 

「……ずるいです」

 

 声は丁寧で、小さい。

 

「そういうのを……急に言うから」

「急じゃない」

「……急です」

 

 命はそう言って、また息を吐く。

 さっきの微笑はすぐ引っ込む。

 けど、消えてはいない。胸の奥に残ったまま。

 

 命は目を伏せて、短く頷いた。

 

「……はい」

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