廊下の足音が止まって、控えめなノックが二回。
「失礼いたします」
扉が開いて、執事が静かに入ってきた。動きに無駄がない。音も立てない。手には銀のトレー。上には水の入ったグラスと、小さな黒いケースがひとつ置かれている。
「ハヤト様。お風呂上がりにお水を」
執事はトレーを机に置き、ケースをそっと手前に寄せた。
「こちらは――奥様より。今夜のために、と」
「……これは?」
執事は視線を上げずに、言葉だけを丁寧に置く。
「避妊薬でございます。即効性がございます」
一拍置いて、続ける。
俺はケースを見たまま、息を短く吐いた。
「分かりました。……ありがとうございます」
「承知いたしました」
執事は一礼するだけで、余計な顔をしない。
執事は最後にもう一度だけ頭を下げて、扉の前で止まった。
「それでは、今夜はどうぞ ごゆるりと お過ごしくださいませ」
扉が閉まる。
残ったのは、水の透明さと、小さな黒いケース。
――御堂家の夜は静かすぎる。
静かだから、余計な音が全部意味になる。
コン、コン。
二回。間がきれい。
胸の奥が、少しだけ固くなる。
「……どうぞ」
扉が、静かに開いた。
命がいた。
部屋着のまま、髪はきちんと整えているのに、ほんの少しだけ呼吸が浅い。表情は読みにくい。けど、目がいつもより真っすぐだった。
「……失礼します。ハヤトさん」
声は丁寧で、崩れてない。
でも、間がいつもより長い。
「来たんだな」
「はい」
命は一歩だけ入って、扉を閉める。鍵はかけない。
それが、この家の“決まり”みたいに見えた。
短く言う。
「……座る?」
「はい」
命はベッドの端にそっと腰を下ろした。
背筋をまっすぐにして、膝の上で指を組む。指先が少し強い。
「……遅い時間に、すみません。待っていてくれて、ありがとうございます」
「いい。気にすんな」
「……今日、皆の前で言った言葉」
命の声が少しだけ低くなる。
「……取り消しません」
「うん」
命は目を伏せて、また上げた。
揺れてるのに、逃げない目。
「ハヤトさん」
「ん」
「……怖い、とは違います」
「でも、落ち着かない。……自分のことなのに、他人のことみたいで」
「分かる」
「……分かりますか」
「分かる」
俺は言い切ってから、少しだけ間を置いた。
「命が言葉にするまで長いのも。言葉にしたら短いのも」
命のまつげが一度だけ揺れた。
「……私は、上手じゃないです」
「好き、とか。大事、とか。そういうのを、綺麗に言えない」
「綺麗じゃなくていい」
「……でも」
命はそこで止まる。止まって、逃げない。
そして、短く言った。
「……ハヤトさんが、必要です」
それだけで、十分だった。
俺は息を吐いて、結論を置く。
「俺も」
命の肩が、ほんの少しだけ落ちる。
緊張がほどけた証拠。
命は立ち上がらない。
そのまま、少しだけ椅子を前に引いた。距離を詰めたんじゃない。意志を近づけた。
「……今夜」
命が言って、口を閉じる。
言葉が続かない。けど、目が続いている。
俺は待つ。
焦らせない。逃がさない。
「命。言えるとこまででいい」
命は、ゆっくり頷いた。
そして、スマホを取り出して画面を開く。メモ。たぶん、準備してきた言葉。
画面を見たまま、命は小さく言う。
『……順番を、間違えたくありません』
スマホの文字は静かで短い。
でも、声より正直だ。
「間違えない」
命は、ようやく顔を上げた。
読みにくい表情のまま、はっきり言う。
「……だから。今夜は、話をします」
「……私の、遅れている気持ちを、ちゃんと出します」
「うん。聞く」
命は小さく頷いた。
椅子の背を握って、息を一度だけ整える。声は丁寧なまま、間が長い。
「……先に、謝ります」
言い切ってから、視線を落とす。
「花火の夜。私は、自分の気持ちが分からないまま、欲しがりました」
「……困らせたと思います」
「困ってない」
命のまつげが一度だけ揺れた。
それでも表情は崩れない。
「……恵さんが、あなたにキスしていたのを見たとき」
命はそこで、少しだけ言葉を止める。
「……嫌でした」
短い。だから本音だ。
「理由は、すぐに言葉になりませんでした」
「でも、内側は、ずっとざわついていました」
「嫉妬?」
「……たぶん」
命は言い切らない。
「それだけじゃなくて……置いていかれる感じがしました」
「私だけ、決めるのが遅いから」
「置いていかない」
俺が言うと、命は頷きもしない。
ただ、肩の力がほんの少しだけ抜けた。
「……今日、家の前で『結婚してください』と言ったのは」
命は胸元に手を当てた。婚姻具の位置。
「勢いじゃありません」
「逃げ道を消さないと、私はまた迷うと思ったからです」
「命らしい」
「……はい」
短く返して、命は少しだけ目を伏せた。
「でも」
命の声が小さくなる。
「言ったあと、怖くなりました」
「この世の中はパートナーが複数なのが普通で、家もそうで……分かっているのに」
「私は、まだ……慣れてない」
俺は待つ。
急かさない。
「……だから、欲しいです」
命が顔を上げる。目が真っすぐだ。
「貴方の中に、私の場所が欲しい」
「ここが居場所だって、分かる言葉が欲しい」
「ある」
俺は短く言って、続けた。
「命の場所は、俺の中にある」
「変わらない」
命はしばらく黙った。
黙って、息を吐いて――やっと言葉を出す。
「……ありがとうございます」
それから、もう一歩だけ踏み込むみたいに。
「……私は」
「ハヤトさんに、愛されたいです」
「愛されてるって、分かる形で」
「分かった」
命が、少し驚いたみたいに瞬きをする。
「……本当に」
「本当」
命の肩が、ふっと落ちた。
安心の合図。
俺は短く言った。
「命。好きだ」
「愛してる」
命は固まって、それからゆっくり息を吐いた。
表情は、いつも通り読みにくいまま――のはずだった。
でも、口元がほんの少しだけほどける。
笑おうとしてるんじゃない。漏れたみたいな動き。
目尻も、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。
「……ずるいです」
声は丁寧で、小さい。
「そういうのを……急に言うから」
「急じゃない」
「……急です」
命はそう言って、また息を吐く。
さっきの微笑はすぐ引っ込む。
けど、消えてはいない。胸の奥に残ったまま。
命は目を伏せて、短く頷いた。
「……はい」