※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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106話 身内の朝

 朝食が終わると、家の空気が次の段取りに切り替わった。

 食器が下がる音も静かで、無駄がない。

 

 廊下に出たところで、千佳がすぐ追いかけてくる。

 千佳がすぐ追いかけてくる。

 

「お兄ちゃん! ねえねえ、屋敷案内してあげる!」

「……千佳。今日は落ち着いて」

 

 言い方は注意。

 でも、目は優しい。

 

 千佳はしゅんとする前に、俺を見上げた。

 

「……だめ?」

「少しだけ」

 

 俺が言うと、千佳の顔がすぐ明るくなる。

 

「少しだけ! やった!」

 

 由紀子さんが後ろから来て、千佳の頭を軽く小突いた。

 

「走るな。廊下だ」

「はーい!」

 

 俺が苦笑いすると、由紀子さんが俺にだけ小さく言う。

 

「弟。初日から甘やかすな」

 

 でも声が硬くない。

 

「……ほどほどにします」

「よし」

 

 それだけで、由紀子さんは満足そうだった。

 

 縁側に出ると、庭がきれいに整っていた。

 石の並びも、木の剪定も、全部“正しい”。

 

「うちの庭、すごいでしょ!」

 

 千佳が小声で自慢する。

 

「命姉はね、ここだとちょっとだけ楽そうになるんだよ」

 

 命が聞こえたら困るのに、千佳は言う。

 でも声はちゃんと小さい。成長してる。

 

 命は少し前を歩いて、振り返らずに言った。

 

「……聞こえています」

「えっ」

 

 千佳が固まる。

 

 命は振り返って、表情は読みにくいまま――でも、目が少し柔らかい。

 

「でも、……合っています」

 

 千佳が「え?」って顔をしてから、ぱっと笑う。

 

「命姉、今の素直だ!」

「千佳」

 

 命が名前だけ呼ぶ。注意のはずなのに、叱ってない。

 

 俺は短く言う。

 

「いいじゃん」

 

 命がこっちを見る。

 視線だけで「余計なことを」と言ってる。

 でも、口元がまたほんの少しだけほどける。

 

 ――やっぱり、変わってる。

 昨日までより、柔らかい。

 

 俺がそれを見ていると、命が小さく言った。

 

「……見ないでください」

「見る」

「……ずるいです」

 

 命が言って、すぐ真面目な顔に戻す。

 戻すのに、遅い。

 その“遅さ”が、今は嬉しい。

 

 縁側の向こうで、澄乃さんの声がした。

 大人なお姉さんの、余裕のある声。

 

「坊や。朝からいい顔してるじゃない」

 

 俺は反射で背筋を伸ばす。

 澄乃さんは笑って、手を振った。

 

「固くならなくていいのよ。家族でしょ」

 

 そして、命に視線を移して。

 

「命。今日は、坊やを放してあげなさい。息も必要」

 

 命は丁寧に返す。

 

「……はい、お婆様」

 

 澄乃さんは満足そうに頷いた。

 家の空気を軽くして、でも段取りは崩さない。いつも通りだ。

 

 俺は千佳に向けて言った。

 

「案内してくれるか」

「案内してあげる!」

 

 千佳が小走りになりかけて、由紀子さんの視線で止まる。

 

「……歩く!」

 

 そのやり取りを見て、命がまた小さく笑った。

 今度は隠しきれないくらい、わずかに。

 

 俺はそれだけで、今日は大丈夫だと思えた。

 

 千佳が先に立って、縁側から庭へ降りる。

 足取りが軽い。でも廊下は走らない。さっき由紀子さんに釘を刺されたのが効いてる。

 

「お兄ちゃん、こっち!」

 

 千佳が振り返って、小声で手招きする。

 

「まず“正門ルート”はだめ。迷うから。内側から行く!」

「分かった」

 

 命は少し後ろを歩いている。

 俺の横じゃない。離れてもいない。

 距離が、御堂家の“ちょうどいい”になってる。

 

「……千佳」

 

 命が呼ぶ。

 

「なに、命姉!」

「……廊下の角、声が響きます」

「はーい」

 

 千佳は素直に声量を落とす。

 その素直さに、命の口元がわずかに柔らかくなる。昨日より確実に。

 

 曲がり角を抜けたところで、執事が現れた。

 タイミングが正確すぎて、最初からそこにいたみたいに見える。

 

「千佳様。ご案内はよろしいのですが、先にお履き物を」

 

 柔らかいのに、止める。

 

「うっ……」

 

 千佳が一瞬固まって、俺を見る。

 

「行こう」

 

 俺が言うと、千佳は慌てて踵を揃える。

 

「は、はい! お兄ちゃん、待ってて!」

 

 執事が俺に一礼する。

 

「ハヤト様。おはようございます。のちほど、奥様よりお時間の確認がございます」

 

 “奥様”。綾乃さんのことだ。

 段取りが動く気配。

 

「……分かりました」

 

 命が横で、丁寧に言う。

 

「後ほど、私も同席します」

「承知いたしました」

 

 執事が去ると、千佳が靴を履き直して戻ってきた。

 

「よし! 再開!」

 

 千佳が胸を張る。

 

「お兄ちゃん、まずはね、ここ! “家の心臓”!」

 

 連れていかれたのは、広い廊下の突き当たり。

 扉が二重になっていて、空気が少し冷える。

 

 千佳が小声になる。

 

「ここは、お婆様ゾーン」

 

 言い終わった瞬間、背後から声がした。

 

「千佳。聞こえてるわよ」

 

 澄乃さんだ。

 声は大人のお姉さんみたいに軽いのに、背中が伸びる。

 

 千佳が固まってから、にぱっと笑う。

 

「お婆様! お兄ちゃんに案内してあげてるの!」

 

「えらいえらい」

 

 澄乃さんは褒めながら、俺を見る。

 

「坊や。朝から家の中を歩かされてる。かわいそうね」

 

 俺は反射で丁寧に返す。

 

「いえ。大丈夫です」

「そう言うと思った」

 

 澄乃さんが目だけで笑う。

 

「でもね、身内は『大丈夫』を鵜呑みにしないの。疲れたら言いなさい」

 

「……はい」

 

 命が澄乃さんに向けて、丁寧に言う。

 

「お婆様。今日は、ハヤトさんは休ませます」

 

 一瞬、言いかけて直した。

 命の耳が少し赤い。

 澄乃さんが楽しそうに笑う。

 

「あら。かわいい」

 

 そして俺に、さらっと釘。

 

「坊や。命に“守られる”の、慣れなさい。あなたの仕事よ」

「……承知しました」

 

 千佳がこっそり俺の袖を引く。

 

「お兄ちゃん、今の、顔固い」

 

 小声で言って、すぐ続ける。

 

「でも大丈夫! 次、明るいとこ!」

 

 逃げ道みたいに引っ張られて、俺は笑いそうになった。

 笑うとこの家は騒がしくない。静かに抜ける。

 

 廊下を進むと、日差しが強い場所に出る。

 大きなガラス窓の向こうに中庭。水盤。木の影。

 

「ここ、好き」

 

 千佳が言う。

 

「命姉も、たまにここで息してる」

「千佳」

 

 命が短く呼ぶ。

 

「ごめん」

 

 千佳が即謝る。

 命は叱らない。少しだけ目を細める――細めない。

 でも、柔らかい。

 

 俺が小さく言う。

 

「いい場所だな」

「でしょ!」

 

 千佳が嬉しそうに頷く。

 

「ね、お兄ちゃん、次は——」

 

 そこへ、綾乃さんの声が飛んできた。

 丁寧で、よく通る。

 

「千佳。……少し、こちらへ」

 

 呼び方が静かすぎて、逆に強い。

 

「やば」

 

 千佳が小声で言って、俺を見る。

 

「お兄ちゃん、助けて」

 

 俺は短く言った。

 

「自分で行け」

「うぅ……」

 

 千佳はしょんぼりしつつも、走らずに歩く。えらい。

 

 綾乃さんは俺と命に目を向ける。

 取り繕った丁寧さで、要点だけ。

 

「ハヤトさん。少しお時間をください」

「“婚約”としての段取りを、今日から整えます。無理はさせませんが、確認はします」

「分かりました」

 

 命が隣で、短く言う。

 

「私も同席します」

「はい」

 

 綾乃さんが頷く。

 

「それと、昨夜お風呂でお母さんから言われたことがあるでしょう。気にしすぎないでください。あれは、あの人の愛情表現です」

 

 言い切った瞬間、綾乃さん自身が少し照れたみたいに、視線を外す。

 取り繕いが一瞬だけ薄くなる。

 

 俺は聞く

 

「……綾乃さんも?」

「……否定はしません」

 

 綾乃さんは即答して、話を畳む。

 

「では、書斎へ。十時です。遅れないでください」

「はい」

 

 綾乃さんが去ると、命が俺を見る。

 いつもの読みにくい表情。

 でも、目が落ち着いてる。

 

「……大丈夫ですか、ハヤトさん」

「大丈夫」

 

 俺は短く返してから、続ける。

 

「命は?」

 

 命は一拍置いて、素直に言った。

 

「……大丈夫です」

 

 それから、少しだけ。

 

「……一緒だと、平気です」

 

 その言い方が、昨夜より柔らかい。

 俺は息を吐いて、結論だけ置く。

 

「俺も」

 

 命が、わずかに笑う。

 隠そうともしない。小さいけど、ちゃんと。

 

 その瞬間、遠くから千佳の声が聞こえた。

 

「歩く! 歩くからぁ!」

 

 由紀子さんの声が被さる。

 

「声がでかい」

 

 命が、また小さく笑った。

 

 書斎の扉の前で、命が俺の袖をほんの少しだけ掴んだ。

 掴んで、すぐ離す。

 

「……行きましょう」

「うん」

 

 段取りの時間が始まる。

 でも、もう怖くはなかった。

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