※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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107話 書斎

 書斎の扉の前で、命が俺の袖をほんの少しだけ掴んだ。

 掴んで、すぐ離す。

 

「……行きましょう」

「うん」

 

 扉を開けると、書斎は静かで、空気が固い。

 重い机。壁一面の本棚。窓際に低いソファ。

 

 綾乃さんが先に座っていた。姿勢が崩れない。

 横には執事。手元に薄いファイルがある。

 

「座ってください」

 

 綾乃さんの声は丁寧で、温度は低い。

 

 俺は頷いて椅子に座る。

 命も隣に座った。ベッドの端みたいに“整えた座り方”だ。

 

「では、確認しますね」

 

 綾乃さんがファイルを開く。

 

「昨夜の言葉は『結婚』。現実の扱いは『婚約』。ここまでは一致しています」

「はい」

「はい」

 

 俺と命が短く返す。

 

「今日決めるのは三つです」

「一つ、外に出す情報の範囲。二つ、段取りの順番。三つ、あなた――ハヤトさんの“守られ方”です」

 

 最後だけ少し強い。

 命が横で息を吐く。止めない。俺も頷く。

 

「分かりました」

「まず、一つ目」

 

 綾乃さんが指先で紙を押さえる。

 

「学校には、すぐ出しません。噂は絶対に立ちます」

「命と付き合う以上、隠しても無駄です。男子のあなたと御堂家は、それだけで目立ちます」

「だから燃料をこちらから足しません。出すなら、守れる形に整えてからです」

「あなたは男子です。守られて当然です」

「……はい」

 

 俺は反射で丁寧に返す。

 

「私も、そう思います」

 

 命が小さく言う。

 綾乃さんは頷いた。

 

「二つ目。段取り」

「婚約は、家の中で固める。形式の場を作る。写真も残す。ただし外には出さない」

「必要なのは“証拠”ではなく“整合性”です」

「……整合性、ですか」

 

 命が少しだけ眉を動かす。読みにくい程度に。

 

「はい」

「家は動きます。動くなら、齟齬が出ないようにします。あなたが混乱しないためでもあります」

「助かります」

 

 俺は短く言う。

 

「三つ目。守られ方」

 

 綾乃さんの声が丁寧なまま、少しだけ重くなる。

 

「ハヤトさん。あなたは“背負う”のが早い。背負う前に言ってください。こちらが先に手を出します」

「……はい。言います」

 

 俺は息を吐いて答える。

 

 綾乃さんはそれで十分だと言うように頷いた。

 

 コン、と軽いノック。

 返事を待たずに、扉が少し開く。

 

「入るわよ」

 

 澄乃さんが入ってきて、空気が少しだけ柔らかくなる。

 柔らかいのに、支配は増す。

 

「坊や。難しい顔しない」

 

 澄乃さんは俺の前に立って、にこりと笑う。

 

「ほら、命も。肩、固い」

「……お婆様」

 

 命が丁寧に呼ぶ。

 

「はいはい。いい子」

 

 澄乃さんはさらっと流して、綾乃さんを見る。

 

「綾乃、進んでる?」

 

「はい。お母さん。要点は確認しました」

 

 綾乃さんが、丁寧に返す。

 

「いいわ」

 

 澄乃さんは満足そうに頷く、

 綾乃さんは俺を見る。

 

「ハヤトさん。あなたも身内です。呼び方も、家の中では揃えてください」

 

 俺は一拍だけ止まる。言葉が喉で引っかかる。

 

 綾乃さんは表情を崩さない。

 でも、逃げ道のない“段取り”の目だ。

 

「……難しく考えなくていいです」

「呼べますね」

 

 俺は背筋を伸ばして、丁寧に言った。

 

「……お母さん。承知しました」

 

 言った瞬間、顔が熱い。

 綾乃さんは一瞬だけ視線を外してから、また戻す。

 

「はい。十分です」

 

 命が横で、ほんの少しだけ目を動かした。

 驚きと、照れと、安心が混ざった合図。

 

「では続けますね」

 

 綾乃さんがすぐに場を整える。

 

「外に出す情報は、最小限です。必要が出た場合だけ、こちらで窓口を作ります」

 

 執事が静かに頷く。

 

 綾乃さんは俺に視線を向けた。

 

「ハヤトさん。困ったら、直接誰かに言うのではなく、まず執事に言ってください。線を一本にします」

「分かりました」

「坊やはね、言わないで我慢するの。そこ、直しなさい」

 

 澄乃さんが軽く口を挟む。

 

「……直します」

「よろしい」

 

 澄乃さんは笑う。

 

「命も。言わないで固めるの、直しなさい」

 

 命が小さく息を吸って、丁寧に答える。

 

「……努力します」

「努力でいいの」

 

 澄乃さんは満足そうに頷いて、ソファに腰を下ろす。

 そこが“澄乃さんの席”みたいに見える。

 

「最後に一つ。これは確認です」

 

 綾乃さんがファイルをめくる。

 声が丁寧なまま、少しだけ重くなる。

 

「ハヤトさん。命は『結婚』と言いました。逃げ道を消す言葉です。受け取れますね」

「受け取ります」

 

 俺は迷わない。

 

 命が一拍置いて言葉を足す。

 

「急がせません。私も、急ぎません」

「うん」

 

 俺は命を見る。

 命は視線を逸らさない。柔らかいまま。

 

「はい、決まり」

 

 澄乃さんが手を叩くみたいに軽く言った。

 

「坊や。ひとつだけ言うわね」

 

 笑って、釘。

 

「命の『はい』は重いのよ。坊や、丁寧に受け取りなさい」

「……はい。分かりました」

「よろしい」

 

 澄乃さんは満足そうに頷いて、綾乃さんを見る。

 

「綾乃。次は?」

「形式の場を作ります」

 

 綾乃さんは淡々と答える。

 

「家の中の“婚約”の席です。日程は三日以内に。負担はかけません」

「……私は、大丈夫です」

 

 命が小さく頷く。

 

「俺も」

 

 俺は短く。

 

 綾乃さんが一枚、紙を差し出した。署名欄ではない。

 確認事項のチェック。段取りの圧がさすが御堂家。

 

「読みましょう。難しくはありません」

「ただ、確認だけは曖昧にしないでください」

「はい」

 

 紙を読む間、命が俺の袖をもう一度だけ掴んだ。

 今度は、ほんの一瞬。誰にも見せない合図。

 

 俺はそれに、机の下で指先だけ返す。

 触れない。触れる手前。それで十分。

 

 澄乃さんが、見てないふりで笑った。

 

「坊や。いい顔になってきた」

「……ありがとうございます。澄乃さん」

 

 俺は丁寧に返す。

 

 命が、わずかに笑った。

 隠さない。小さいけど、ちゃんと。

 

「では、今日はここまでです」

 

 綾乃さんが淡々と言う。

 

「部屋に戻って休んでください。……命も」

「はい」

「……はい」

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