書斎の扉の前で、命が俺の袖をほんの少しだけ掴んだ。
掴んで、すぐ離す。
「……行きましょう」
「うん」
扉を開けると、書斎は静かで、空気が固い。
重い机。壁一面の本棚。窓際に低いソファ。
綾乃さんが先に座っていた。姿勢が崩れない。
横には執事。手元に薄いファイルがある。
「座ってください」
綾乃さんの声は丁寧で、温度は低い。
俺は頷いて椅子に座る。
命も隣に座った。ベッドの端みたいに“整えた座り方”だ。
「では、確認しますね」
綾乃さんがファイルを開く。
「昨夜の言葉は『結婚』。現実の扱いは『婚約』。ここまでは一致しています」
「はい」
「はい」
俺と命が短く返す。
「今日決めるのは三つです」
「一つ、外に出す情報の範囲。二つ、段取りの順番。三つ、あなた――ハヤトさんの“守られ方”です」
最後だけ少し強い。
命が横で息を吐く。止めない。俺も頷く。
「分かりました」
「まず、一つ目」
綾乃さんが指先で紙を押さえる。
「学校には、すぐ出しません。噂は絶対に立ちます」
「命と付き合う以上、隠しても無駄です。男子のあなたと御堂家は、それだけで目立ちます」
「だから燃料をこちらから足しません。出すなら、守れる形に整えてからです」
「あなたは男子です。守られて当然です」
「……はい」
俺は反射で丁寧に返す。
「私も、そう思います」
命が小さく言う。
綾乃さんは頷いた。
「二つ目。段取り」
「婚約は、家の中で固める。形式の場を作る。写真も残す。ただし外には出さない」
「必要なのは“証拠”ではなく“整合性”です」
「……整合性、ですか」
命が少しだけ眉を動かす。読みにくい程度に。
「はい」
「家は動きます。動くなら、齟齬が出ないようにします。あなたが混乱しないためでもあります」
「助かります」
俺は短く言う。
「三つ目。守られ方」
綾乃さんの声が丁寧なまま、少しだけ重くなる。
「ハヤトさん。あなたは“背負う”のが早い。背負う前に言ってください。こちらが先に手を出します」
「……はい。言います」
俺は息を吐いて答える。
綾乃さんはそれで十分だと言うように頷いた。
コン、と軽いノック。
返事を待たずに、扉が少し開く。
「入るわよ」
澄乃さんが入ってきて、空気が少しだけ柔らかくなる。
柔らかいのに、支配は増す。
「坊や。難しい顔しない」
澄乃さんは俺の前に立って、にこりと笑う。
「ほら、命も。肩、固い」
「……お婆様」
命が丁寧に呼ぶ。
「はいはい。いい子」
澄乃さんはさらっと流して、綾乃さんを見る。
「綾乃、進んでる?」
「はい。お母さん。要点は確認しました」
綾乃さんが、丁寧に返す。
「いいわ」
澄乃さんは満足そうに頷く、
綾乃さんは俺を見る。
「ハヤトさん。あなたも身内です。呼び方も、家の中では揃えてください」
俺は一拍だけ止まる。言葉が喉で引っかかる。
綾乃さんは表情を崩さない。
でも、逃げ道のない“段取り”の目だ。
「……難しく考えなくていいです」
「呼べますね」
俺は背筋を伸ばして、丁寧に言った。
「……お母さん。承知しました」
言った瞬間、顔が熱い。
綾乃さんは一瞬だけ視線を外してから、また戻す。
「はい。十分です」
命が横で、ほんの少しだけ目を動かした。
驚きと、照れと、安心が混ざった合図。
「では続けますね」
綾乃さんがすぐに場を整える。
「外に出す情報は、最小限です。必要が出た場合だけ、こちらで窓口を作ります」
執事が静かに頷く。
綾乃さんは俺に視線を向けた。
「ハヤトさん。困ったら、直接誰かに言うのではなく、まず執事に言ってください。線を一本にします」
「分かりました」
「坊やはね、言わないで我慢するの。そこ、直しなさい」
澄乃さんが軽く口を挟む。
「……直します」
「よろしい」
澄乃さんは笑う。
「命も。言わないで固めるの、直しなさい」
命が小さく息を吸って、丁寧に答える。
「……努力します」
「努力でいいの」
澄乃さんは満足そうに頷いて、ソファに腰を下ろす。
そこが“澄乃さんの席”みたいに見える。
「最後に一つ。これは確認です」
綾乃さんがファイルをめくる。
声が丁寧なまま、少しだけ重くなる。
「ハヤトさん。命は『結婚』と言いました。逃げ道を消す言葉です。受け取れますね」
「受け取ります」
俺は迷わない。
命が一拍置いて言葉を足す。
「急がせません。私も、急ぎません」
「うん」
俺は命を見る。
命は視線を逸らさない。柔らかいまま。
「はい、決まり」
澄乃さんが手を叩くみたいに軽く言った。
「坊や。ひとつだけ言うわね」
笑って、釘。
「命の『はい』は重いのよ。坊や、丁寧に受け取りなさい」
「……はい。分かりました」
「よろしい」
澄乃さんは満足そうに頷いて、綾乃さんを見る。
「綾乃。次は?」
「形式の場を作ります」
綾乃さんは淡々と答える。
「家の中の“婚約”の席です。日程は三日以内に。負担はかけません」
「……私は、大丈夫です」
命が小さく頷く。
「俺も」
俺は短く。
綾乃さんが一枚、紙を差し出した。署名欄ではない。
確認事項のチェック。段取りの圧がさすが御堂家。
「読みましょう。難しくはありません」
「ただ、確認だけは曖昧にしないでください」
「はい」
紙を読む間、命が俺の袖をもう一度だけ掴んだ。
今度は、ほんの一瞬。誰にも見せない合図。
俺はそれに、机の下で指先だけ返す。
触れない。触れる手前。それで十分。
澄乃さんが、見てないふりで笑った。
「坊や。いい顔になってきた」
「……ありがとうございます。澄乃さん」
俺は丁寧に返す。
命が、わずかに笑った。
隠さない。小さいけど、ちゃんと。
「では、今日はここまでです」
綾乃さんが淡々と言う。
「部屋に戻って休んでください。……命も」
「はい」
「……はい」