書斎を出ると、廊下の空気が少し軽い。
命が小さく言った。
「……お母さん、って」
「言わされた」
「……はい」
命は丁寧に返してから、ほんの少しだけ柔らかく言う。
「でも、嬉しいです」
「俺も」
(身内になった重さが、今は少しだけ温かい。)
そのまま歩き出そうとしたところで、綾乃さんが静かに呼んだ。
「ハヤトさん。少し、こちらへ」
振り返ると、綾乃さんは廊下の角に立っていた。
取り繕った丁寧さのまま、要点だけを置く顔。
「婚姻の席――三日以内に作ると言いましたね」
「そこで、あなたのお母様……沙織さんにも、ご挨拶をしていただきます」
胸の奥が少しだけ固くなる。
“御堂家の話”が、俺の家に触れてくる。
「母さんも呼ぶんですか」
「呼びます」
綾乃さんは迷わない。
「あなたの不安も、お母様の不安も、同じ場所で解けるようにします」
「隠しても噂は立ちます。なら、内側は最初から揺れないようにしておいた方がいい」
命が隣で息を吐いた。
目が真剣だ。
「……私もいます」
「ええ。もちろんです」
綾乃さんは頷く。
「命は無理に飾らなくていい。あなたの言葉で大丈夫です」
綾乃さんは俺を見る。
「あなたから一言だけ伝えてください。『近いうちに、落ち着いた場を用意する』と。驚かせないための最低限です」
「……分かりました」
(挨拶は、守るためのものだ。俺の家を、母さんを、そして俺自身を。)
綾乃さんは最後に、丁寧なまま少しだけ柔らかい声を落とした。
「怖がっていいです」
「でも、ひとりで抱えないでください。こちらも同じ席に立ちます」
俺は短く頷く。
「怖くはありません」
廊下の角を曲がると、空気がまた静かになる。
屋敷の静けさは、段取りの音しかしない。
命が隣で小さく息を吐いた。
そのまま、俺を見る。
「……一緒におります」
当然みたいに言う。
「うん」
俺はスマホを取り出して、母さんに電話をかけた。
呼び出し音が一回。
『隼人?』
出るのが早い。
気にしてたんだと思うと、胸が少しだけ重くなる。
「母さん」
短く呼ぶ。
「話がある」
『うん。なに?』
「御堂家で、席がある」
「……母さん、出てくれない?」
少し間。
『席?』
「家の中の、婚約の席」
「外に出す話じゃない」
「でも、うちのことだから、母さんにも来てほしい」
『……分かったわ』
母さんの声が落ち着く。迷いがない。
『休み、取るわ』
『いつ?』
「三日以内」
「時間、取れる?」
『……三日以内か』
カレンダーをめくる音がした気がした。
『明日は無理。今日も無理』
『明後日か
「空けといて」
俺は短く言う。
『……隼人』
軽く叱るみたいに呼ばれて、でも声が柔らかい。
『分かった。取るわどっちの日ならいい?』
「ちょっと待って」
「……母さん、明後日か明々後日なら休めるって、いけますか?」
綾乃さんに確認する
「可能です」
「どちらでも整えられます。沙織さんの負担が少ない方を選びましょう」
母さんに伝える
「どっちでもいいって」
『じゃあ明々後日で』
『場所は?』
「御堂家」
「迎えも出ると思う」
俺は視線で執事を見る。
執事が静かに頷いた。
「迎え、出る」
『……分かった』
母さんの声が少しだけ落ち着く。
『隼人。相手の人たちには、ちゃんと礼を言ってね』
「言う」
『それと』
母さんが一拍置く。
『隼人、丁寧にしすぎて固くなる癖ある』
『相手が身内なら、ちゃんと甘えていい』
短い言葉なのに、刺さる。
俺は息を吐いて答えた。
「……分かった」
『うん』
母さんが小さく笑う気配。
『じゃあ、明々後日ね。私、行く』
「うん」
「待ってる」
通話を切る直前、母さんがもう一度だけ言った。
『隼人。無理しないで』
「しない」
切れた。
(母さんが来る。それだけで、空気が変わる。)
命が小さく言った。
「大丈夫そうですね」
俺は短く返す。
「明々後日なら大丈夫だって」
命は頷く。
その頷きが、昨日より柔らかい。
「……良かったです」
執事が一歩前に出る。
「では、明々後日十三時に調整いたします」
「沙織様は一日お休みと伺いました。移動も含めて余裕のある時間にします」
「沙織様のお迎えと、ご案内、控室の準備まで整えます」
「お願いします」
俺が丁寧に言うと、執事は一礼した。
「承知いたしました」
執事が一礼して下がったあと、廊下の空気が少しだけ変わった。
段取りがひとつ決まったときの、静かな圧。
綾乃さんが俺を見て、丁寧に言った。
「ハヤトさん。ひとつ、お願いがあります」
「はい」
「沙織さんが来られるのが明々後日です」
「差し支えなければ――その日まで、三日ほどこちらに泊まっていただけませんか」
言い方は柔らかい。
でも、これは“お願い”の形をした決定に近い。
俺は一拍だけ置いてから、丁寧に返す。
「……大丈夫です、泊まります」
綾乃さんは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「あなたの負担を減らします。移動が増えるだけで、気持ちは削れますから」
命が隣で、当然みたいに言った。
「……私も、その方が安心です」
「うん」
俺が短く返すと、命の口元が少しだけ柔らかくなる。
そこへ、澄乃さんの声が入った。
大人なお姉さんみたいな余裕の声。
「ね、綾乃。こういう時に“帰らせる”なんて、家として下手よ」
「……はい、お母さん」
綾乃さんが取り繕った丁寧さで返す。
「私は最初から、そのつもりです」
澄乃さんが満足そうに笑って、俺を見る。
「坊や。滞在中は遠慮しないで」
俺は澄乃さんには丁寧に返した。
「……ありがとうございます、澄乃さん」
「ご迷惑にならないようにします」
「迷惑じゃないわ」
澄乃さんは軽く言い切る。
「身内なんだから」
命が俺を見て、短く言う。
「……私も、準備します」
「うん」
(噂は立つ。けど、内側は揺れない。)
廊下の向こうで、千佳の足音が跳ねた。
「千佳。走るな」
由紀子さんの声が淡々と飛ぶ。
「お姉ちゃん! 走ってない! 歩いてる!」
「声がでかい」
「……はーい!」
命が、また小さく笑った。
俺はそれを見て、今日も大丈夫だと思えた。
廊下の先で、執事が一礼して立っていた。
手には小さなメモ。時間と場所が書かれているのが見える。
「ハヤト様。恐れ入ります」
「明々後日十三時。婚姻の席の準備に入ります」
「お迎えの車、控室、導線まで手配いたします」
「沙織様へは“確定事項のみ”を短くご案内いたします」
「……俺が送る」
「確定したことだけ、俺の言葉で」
「かしこまりました」
執事が一礼する。
「文面は短く整えて、確認用にお渡しします」
(言ったことを、もう一度言わない。必要な情報だけを渡す。)
俺はスマホを開いて、母さんにメッセージを打った。
『明々後日13時に決まった。御堂家で。迎えの車も出る。詳細はまた送る』
送信。
それだけで、胸の奥の固さが少しだけほどけた。
「それにしても沙織さんは、強い方ですね」
「強い」
俺はそれだけ言って、息を吐く。
「俺の母さんだ」
命が、また小さく笑う。
口元がほどけるだけ。けど、隠さない。
(この家の空気に、母さんの空気が混ざる。悪くない。)
そこへ、由紀子さんが角から現れた。
淡々とした歩き方。音が少ない。
「決まったか」
「明々後日、十三時に」
俺が答えると、由紀子さんは即座に理解した顔で頷く。
「了解」
「母親が来るなら、千佳は抑えとく」
横で千佳の足音が跳ねる気配がして、由紀子さんが一言。
「千佳。走るな」
遠くから返事が飛んでくる。
「走ってない! 歩いてる!」
「声がでかい」
「……はーい!」
命が笑いそうになって、笑う。
小さいけど、ちゃんと。
由紀子さんがそれを見て、目だけで「よかったな」と言う。
口には出さない。
「……お姉ちゃんって呼ばせるなら、今のうちに言っとけ」
由紀子さんがぼそっと言う。
俺は一瞬だけ止まる。
「由紀子さんは……嫌じゃないんですか」
「嫌なら止める」
由紀子さんは淡々と返す。
「止めてない時点で察しろ」
かわいいな
俺がそんなことを思った瞬間、由紀子さんが鋭く言った。
「顔に出すな」
「……すみません」
命が小さく息を吐いた。笑いを飲み込むみたいに。
「じゃあこれからはお姉ちゃんって呼びますね」
「いい」
「その代わり、甘えるならちゃんと甘えろ。変に気ぃ遣うな」
それだけ言って、歩き出す。
背中が、少しだけ軽い。
俺と命も、歩き出す。
命は一歩だけ近づいて、俺の腕に指先をそっと触れた。
そのまま引っ込めるか迷って――小さく息を吐いて、腕を組んでくる。
視線は前。表情は読みにくい。
でも、耳がほんの少しだけ赤い。
命の中で確実に変わっていってるな。
その変化は外から見えにくい。けど、触れれば分かる。
(噂は立つ。だからこそ、内側を整える。)
角を曲がったところで、命が小さく言った。
「……ハヤトさん」
「沙織さんに会うとき」
「私、ちゃんと笑えますか」
俺は短く答える。
「無理すんな」
「命のままでいい」
命は一拍置いて、頷いた。
「……はい」
そして、少しだけ。
口元がほどける。
「……その言い方、好きです」
俺は照れて、短く返す。
「……そう」
命が小さく笑う。
今度は、隠さなかった。
大丈夫だ。俺たちは、ちゃんと進んでる。