角を曲がったところで、綾乃さんが待っていた。
姿勢が整っていて、声も整っている。
「ハヤトさん。少しだけ、お時間をください」
「はい」
俺が丁寧に返すと、綾乃さんは視線を命へ移す。
命は俺の腕を組んだまま、きちんと頷いた。
「……はい」
綾乃さんが要点だけを置く。
「明々後日十三時に、家の中で“婚姻の席”を整えます」
「沙織さんには、その場でご挨拶を。そのために、準備が必要です」
「準備?」
「衣服です」
綾乃さんは言い切る。
「あなたの一式。命の一式。小物まで」
「無理に派手にしません。落ち着いた形にします」
命が小さく息を吐いた。
それから、丁寧に言う。
「……必要です」
俺は短く答える。
「分かりました」
そのとき、廊下の奥から声がする。
軽いのに、空気を持っていく声。
「坊や。話、聞こえたわ」
澄乃さんがゆっくり近づいてきた。
大人なお姉さん口調のまま、楽しそうに笑う。
「買い物ね。いいじゃない」
「息が詰まる前に、外の空気も吸いなさい」
俺は澄乃さんには丁寧に返す。
「……ありがとうございます、澄乃さん」
綾乃さんが補足する。
「買い物の形にします」
「席のための準備ですが、堅くしすぎない」
「命も、息が必要でしょう」
命が俺の腕を少しだけ強く組む。
言葉の代わりの合図。
「……はい」
命は丁寧に言って、少しだけ小さく続けた。
「ハヤトさんと行きます」
「うん」
(命の言い方は、ちゃんと俺の方を向いてる)
そこへ、由紀子姉さんが角から出てきた。
淡々とした顔で、状況を一秒で把握する。
「服、買いに行くのか」
「行きます」
俺が短く言うと、由紀子姉さんは頷いた。
「なら――」
由紀子姉さんが一拍置いて、俺を見る。
「行ってこい」
命が横で、丁寧に礼を言う。
「……由紀子姉さん。ありがとうございます」
「お姉ちゃんありがとう」
「当然」
澄乃さんが楽しそうに笑った。
「ほら、坊や。ちゃんと礼が言えるじゃない」
「いい子ね」
俺は照れたまま、丁寧に返す。
「……ありがとうございます」
「もう、かわいいわね」
綾乃さんが静かにまとめる。
「移動は車を出します。人目の少ない店を押さえます」
「執事が距離を取って付きます。邪魔はしません」
「お願いします」
「承知しました」
執事が一礼して、先に動く。
命が俺の腕に指先を添えて、少し迷ってから組み直した。
恥じらいが残っている。けど、離さない。
「……行きましょう、ハヤトさん」
「行こう」
(席のための買い物。けど――これは、デートでいい。)
玄関へ向かう途中、命が小さく言った。
「……ハヤトさん」
「私、こういうの……慣れていません」
「大丈夫、俺が合わせる」
「……はい」
命は丁寧に返して、ほんの少し笑う。
「嬉しいです」
「……そう」
また短く返してしまって、俺は内心で反省する。
でも、命は気にしてない。
腕を組んだまま、前を見る。
車のドアが開いた。
命が先に乗り込む前に、こちらを見て、小さく言う。
「……隣、いいですか」
「いい」
命は、ほんの少しだけ笑って、隣に座った。
腕は組んだまま――じゃない。車では組めない。
でも、膝の上に置いた指先が、俺の袖を一度だけつまむ。
それで十分だ。
窓の外が流れ始める。
執事は前の席。視線も言葉も、必要最低限に抑えている。
店は最初から押さえられていた。
人目が少ないフロア。案内が早い。静か。
スタッフが丁寧に頭を下げる。
「本日はお任せくださいませ」
命が一歩だけ後ろに下がる。
それは距離を取りたいんじゃない。整えたいだけだ。
でも――今日は、腕を組んでないと落ち着かないらしい。
命が少し迷ってから、俺の腕に指先を添えた。
ほんの一瞬だけ触れて、もう一度息を吐いて、腕を組む。
「……行きましょう、ハヤトさん」
「うん」
スタッフが言う。
「スーツでよろしいでしょうか」
「はい」
俺が短く答える。
命が丁寧に補足する。
「……明々後日の席に向けて」
「落ち着いた形で、一式を」
「承知いたしました」
採寸の部屋に通される。
空気が静かで、変に緊張しない。
「お色味はいかがいたしましょう」
スタッフが鏡の前で、布を当ててくる。
「ネイビー、チャコールがよろしいかと」
「ネイビーで」
俺が即答すると、命が横で小さく頷いた。
「……似合うと思います」
「そう?」
「……はい」
短い。
でも命の「はい」は軽くない。
ジャケットを羽織る。
肩が合う。袖の長さを少し詰める。
鏡の中の俺は、いつもより“整って”見えた。
命が見ているのが分かる。見られても嫌じゃない。
「どうでしょうか」
スタッフが尋ねる。
俺は命を見る。
命は一拍置いて、丁寧に言った。
「……とても」
言葉がそこで止まる。
言い切るのに、勇気が要るみたいに。
それでも、目を逸らさずに続けた。
「……かっこいいです」
俺は命の目を見たまま、短く返す。
「……ありがとな」
命が小さく笑う。
今度は、隠さなかった。
(この笑いが出るなら、今日は当たりだ。)
ネクタイを選ぶ。
無地の濃紺。派手じゃない。安心できるやつ。
靴も黒。ベルトも黒。
“揃える”だけで、空気が締まる。
スタッフが控えめに言う。
「明々後日までに、仕上げてお届けいたします」
「お願いします」
俺が丁寧に言うと、スタッフは頭を下げた。