夜の屋敷は、昼より静かだった。
音が減るんじゃない。余計なものが落ちて、必要な気配だけが残る。
俺は客室のソファに座る。
買ってきた服をきちんと畳んで置く。こういう家では、癖になる。
明々後日、婚姻の席。母さんが来る。
考えがそこに戻るたび、胸の奥が少し固くなる。
逃げる気はない。けど、緊張は別だ。
コン、とノック。
返事をする前に、扉の外から声がした。
「ハヤトさん。起きていますか」
綾乃さんの声だった。
昼の“整った声”より、少しだけ温度が低い。静かな夜の声。
「起きてます」
「失礼しますね」
扉が開く。
綾乃さんは、部屋着に近い格好だった。カーディガンを羽織っている。髪も少しだけゆるい。
それだけで、昼とは別人みたいに見えた。
「……雰囲気、違いますね」
俺が丁寧に言うと、綾乃さんは小さく笑った。
「違わせているんです。娘たちの前では、できませんから」
その言い方が、妙に刺さる。
綾乃さんはソファの向かいじゃなく、隣の肘掛けに腰を下ろした。近い。近いのに押してこない。
「疲れていませんか」
「大丈夫です」
俺がいつも通り短く返すと、綾乃さんは眉をほんの少しだけ動かした。
「……“大丈夫”は便利な言葉ですね」
取り繕った丁寧さのまま、でも刺す。
「あなた、よく使う」
「……癖です」
「分かっています」
綾乃さんは頷いてから、声の角を少し落とす。
「だから、二人きりの時だけは……もう少し、本当を聞かせてください」
俺は一拍、息を吐く。
逃げ道を探すのをやめる。
「……正直少し緊張してます」
言った瞬間、綾乃さんの表情がふっと柔らかくなった。
“母”の顔じゃない。女の顔だ。甘い方。
「そう」
綾乃さんは、嬉しそうに頷く。
「そういうの、可愛いですね」
俺は固まる。
「……お母さん」
「今だけ」
綾乃さんが、さらっと言った。
「今だけは、綾乃でいいです」
急に、距離の名前が変わった。
俺は目を逸らしかけて、戻す。
「……綾乃さん」
「ふふ」
綾乃さんが笑う。
笑って、俺の袖口を指先で直した。触れ方が丁寧で、甘い。
「ハヤトさん」
「あなたは、もう十分ちゃんとしています」
「娘たちの前で崩れないし、礼も言えるし、逃げない」
褒め方が、仕事みたいに正確なのに。
声だけが、でれでれだ。
「……ありがとうございます」
「だめ」
綾乃さんが即座に言う。
でも叱る声じゃない。甘やかす声。
「お礼じゃなくて」
「私が今、言ってほしいのは……“甘えていい”って確認です」
俺は言葉に詰まる。
綾乃さんは待つ。追い詰めない。
「……甘えていいんですか」
言えた。
綾乃さんの目が、満足そうに細くなる。
「はい。甘えてください」
「あなたが抱えると、周りが荒れます」
「ここは御堂家です。守る側が、崩れないようにします」
綾乃さんは、少しだけ体を寄せる。
距離が縮まるのに、不思議と安心する。
「明々後日」
綾乃さんが、低い声で言った。
「沙織さんに会ったら、あなたがまず一言だけ言えばいい」
「一言」
「“来てくれてありがとう”」
「それだけでいい」
「相手の不安をほどくのは、説明じゃなくて――受け止める言葉です」
俺は頷いた。
「……言います」
「いい子」
綾乃さんが、笑って言う。
その“いい子”が、母親のそれじゃない。女の甘さだ。
綾乃さんは一度だけ視線を落としてから、俺を見た。
「私ね」
「娘たちの前だと、どうしても“整える”方が先に出るんです」
「……はい」
「でも、本当は」
綾乃さんは少しだけ間を置く。
「あなたがここにいるだけで、安心してる」
俺は息を止める。
言葉が短くしか出ない。
「……俺もです」
綾乃さんの笑いが、ふっと深くなる。
「そう言われると、困りますね」
「……嬉しいから」
(この人、こういう顔もできるんだ。)
綾乃さんは立ち上がる。
立つ前に、俺の肩に指先を置いた。軽い。けど、残る。
「眠ってください」
「明日も、あなたの時間を作ります」
「――デートの続き、でしょう?」
俺は照れて、短く返す。
「……はい」
綾乃さんが満足そうに頷く。
「おやすみなさい、ハヤトさん」
扉が閉まる直前、綾乃さんが振り返って、もう一度だけ“女の顔”で言った。
「……緊張していい」
「その顔、私は好きです」
扉が閉まって、部屋に静けさが戻った。
……やばい。
俺は天井を見上げて、息を吐く。
頭は冷えてるのに、胸の奥だけ熱い。
コン、とノック。
反射で背筋が伸びた。
「……はい」
扉の向こうから、聞き慣れた丁寧な声。
「……ハヤトさん。命です」
「入っても、よろしいですか」
「いいぞ」
俺は短く答えて、続ける。
「入ってくれ」
扉が静かに開く。
命が入ってきて、扉を閉める。
昼間の“買い物の命”とは少し違う。
整ってるのに、どこか落ち着かない。
指先が、何かを確かめるみたいに重なっている。
「お時間、よろしいですか」
「うん」
俺はソファから立ち上がって、ベッドの方を示す。
「そこ、座って」
命は一歩だけ近づき、迷ってからベッドの端に腰を下ろした。
背筋がきれいに伸びてる。
でも足先が少しだけ揃いすぎて、緊張が出てる。
「……今日」
命が小さく言う。
「ありがとうございました」
「俺も、楽しかった」
(命が笑う回数が増えてる。小さいけど、確実に。)
命は膝の上の指を組み直す。
それから、俺を見る。迷いがあるのに、逃げない目。
「……ハヤトさん」
「少し、将来の話をしてもいいですか」
「うん」
「……この先」
命は丁寧に言葉を選ぶ。
「私たちの関係が、当たり前になった時」
「どこまでを“当たり前”にしますか」
「当たり前?」
「……例えば」
命は小さく息を吸う。
「学校でどうするか」
「家の外で、どこまで一緒にいるか」
「……それから」
「私の隣に、ハヤトさんの場所を――どう作るか」
言い切ったあと、命の耳が少し赤い。
赤いのに、視線は逸らさない。
俺は短く返す。考えて、でも逃げない。
「学校は、無理しない」
「命が嫌なら、合わせる」
命が小さく頷く。
「……一緒にいたいです」
「ただ、急に変えると……周りが追いつきません」
「じゃあ、少しずつ」
「……はい」
命はそこで一拍置いて、核心を丁寧に落とした。
「……私は」
「ハヤトさんと一緒にいる時間を、増やしたいです」
「“特別な日”だけじゃなくて」
「普通の日も」
胸の奥が静かに熱くなる。
俺は短く返した。
「増やそう」
命の口元が、わずかにほどける。
嬉しさを隠さない程度の笑い。
「……はい」
命はバッグから、小さなものを出した。
家紋入りの白い絹袋。
指先で押さえるだけで、扱いが軽くないのが分かる。
「……“契り”は」
命は丁寧に言う。
「大事な時だけにします」
「普段は……軽く扱いたくありません」
「分かった」
俺は短く頷く。
「命のやり方でいい」
命は安心したみたいに息を吐いた。
「……ありがとうございます」
俺はベッドの端に座る命の正面に、少しだけ近づく。
近づきすぎない。逃げ道を残す距離。
「命」
俺は短く呼ぶ。
「将来、どうしたい」
命は一拍置いて、静かに言った。
「……ハヤトさんの隣が」
「私の“居場所”になるようにしたいです」
「そのために、私も」
「言葉を、増やします」
丁寧で、まっすぐで、逃げない。
俺は短く返す。
「……ありがとな」
命が小さく笑う。
今度も、隠さなかった。
「……はい」