※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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111話 二人きりの顔

 夜の屋敷は、昼より静かだった。

 音が減るんじゃない。余計なものが落ちて、必要な気配だけが残る。

 

 俺は客室のソファに座る。

 買ってきた服をきちんと畳んで置く。こういう家では、癖になる。

 

 明々後日、婚姻の席。母さんが来る。

 

 考えがそこに戻るたび、胸の奥が少し固くなる。

 逃げる気はない。けど、緊張は別だ。

 

 コン、とノック。

 返事をする前に、扉の外から声がした。

 

「ハヤトさん。起きていますか」

 

 綾乃さんの声だった。

 昼の“整った声”より、少しだけ温度が低い。静かな夜の声。

 

「起きてます」

「失礼しますね」

 

 扉が開く。

 綾乃さんは、部屋着に近い格好だった。カーディガンを羽織っている。髪も少しだけゆるい。

 それだけで、昼とは別人みたいに見えた。

 

「……雰囲気、違いますね」

 

 俺が丁寧に言うと、綾乃さんは小さく笑った。

 

「違わせているんです。娘たちの前では、できませんから」

 

 その言い方が、妙に刺さる。

 綾乃さんはソファの向かいじゃなく、隣の肘掛けに腰を下ろした。近い。近いのに押してこない。

 

「疲れていませんか」

「大丈夫です」

 

 俺がいつも通り短く返すと、綾乃さんは眉をほんの少しだけ動かした。

 

「……“大丈夫”は便利な言葉ですね」

 

 取り繕った丁寧さのまま、でも刺す。

 

「あなた、よく使う」

「……癖です」

「分かっています」

 

 綾乃さんは頷いてから、声の角を少し落とす。

 

「だから、二人きりの時だけは……もう少し、本当を聞かせてください」

 

 俺は一拍、息を吐く。

 逃げ道を探すのをやめる。

 

「……正直少し緊張してます」

 

 言った瞬間、綾乃さんの表情がふっと柔らかくなった。

 “母”の顔じゃない。女の顔だ。甘い方。

 

「そう」

 

 綾乃さんは、嬉しそうに頷く。

 

「そういうの、可愛いですね」

 

 俺は固まる。

 

「……お母さん」

「今だけ」

 

 綾乃さんが、さらっと言った。

 

「今だけは、綾乃でいいです」

 

 急に、距離の名前が変わった。

 

 俺は目を逸らしかけて、戻す。

 

「……綾乃さん」

「ふふ」

 

 綾乃さんが笑う。

 笑って、俺の袖口を指先で直した。触れ方が丁寧で、甘い。

 

「ハヤトさん」

「あなたは、もう十分ちゃんとしています」

「娘たちの前で崩れないし、礼も言えるし、逃げない」

 

 褒め方が、仕事みたいに正確なのに。

 声だけが、でれでれだ。

 

「……ありがとうございます」

「だめ」

 

 綾乃さんが即座に言う。

 でも叱る声じゃない。甘やかす声。

 

「お礼じゃなくて」

「私が今、言ってほしいのは……“甘えていい”って確認です」

 

 俺は言葉に詰まる。

 綾乃さんは待つ。追い詰めない。

 

「……甘えていいんですか」

 

 言えた。

 綾乃さんの目が、満足そうに細くなる。

 

「はい。甘えてください」

「あなたが抱えると、周りが荒れます」

「ここは御堂家です。守る側が、崩れないようにします」

 

 綾乃さんは、少しだけ体を寄せる。

 距離が縮まるのに、不思議と安心する。

 

「明々後日」

 

 綾乃さんが、低い声で言った。

 

「沙織さんに会ったら、あなたがまず一言だけ言えばいい」

「一言」

「“来てくれてありがとう”」

「それだけでいい」

「相手の不安をほどくのは、説明じゃなくて――受け止める言葉です」

 

 俺は頷いた。

 

「……言います」

「いい子」

 

 綾乃さんが、笑って言う。

 その“いい子”が、母親のそれじゃない。女の甘さだ。

 

 綾乃さんは一度だけ視線を落としてから、俺を見た。

 

「私ね」

「娘たちの前だと、どうしても“整える”方が先に出るんです」

「……はい」

「でも、本当は」

 

 綾乃さんは少しだけ間を置く。

 

「あなたがここにいるだけで、安心してる」

 

 俺は息を止める。

 言葉が短くしか出ない。

 

「……俺もです」

 

 綾乃さんの笑いが、ふっと深くなる。

 

「そう言われると、困りますね」

「……嬉しいから」

 

(この人、こういう顔もできるんだ。)

 

 綾乃さんは立ち上がる。

 立つ前に、俺の肩に指先を置いた。軽い。けど、残る。

 

「眠ってください」

「明日も、あなたの時間を作ります」

「――デートの続き、でしょう?」

 

 俺は照れて、短く返す。

 

「……はい」

 

 綾乃さんが満足そうに頷く。

 

「おやすみなさい、ハヤトさん」

 

 扉が閉まる直前、綾乃さんが振り返って、もう一度だけ“女の顔”で言った。

 

「……緊張していい」

「その顔、私は好きです」

 

 扉が閉まって、部屋に静けさが戻った。

 

 ……やばい。

 

 俺は天井を見上げて、息を吐く。

 頭は冷えてるのに、胸の奥だけ熱い。

 

 コン、とノック。

 

 反射で背筋が伸びた。

 

「……はい」

 

 扉の向こうから、聞き慣れた丁寧な声。

 

「……ハヤトさん。命です」

「入っても、よろしいですか」

 

「いいぞ」

 

 俺は短く答えて、続ける。

 

「入ってくれ」

 

 扉が静かに開く。

 命が入ってきて、扉を閉める。

 

 昼間の“買い物の命”とは少し違う。

 整ってるのに、どこか落ち着かない。

 指先が、何かを確かめるみたいに重なっている。

 

「お時間、よろしいですか」

「うん」

 

 俺はソファから立ち上がって、ベッドの方を示す。

 

「そこ、座って」

 

 命は一歩だけ近づき、迷ってからベッドの端に腰を下ろした。

 背筋がきれいに伸びてる。

 でも足先が少しだけ揃いすぎて、緊張が出てる。

 

「……今日」

 

 命が小さく言う。

 

「ありがとうございました」

「俺も、楽しかった」

(命が笑う回数が増えてる。小さいけど、確実に。)

 

 命は膝の上の指を組み直す。

 それから、俺を見る。迷いがあるのに、逃げない目。

 

「……ハヤトさん」

「少し、将来の話をしてもいいですか」

「うん」

「……この先」

 

 命は丁寧に言葉を選ぶ。

 

「私たちの関係が、当たり前になった時」

「どこまでを“当たり前”にしますか」

「当たり前?」

「……例えば」

 

 命は小さく息を吸う。

 

「学校でどうするか」

「家の外で、どこまで一緒にいるか」

「……それから」

「私の隣に、ハヤトさんの場所を――どう作るか」

 

 言い切ったあと、命の耳が少し赤い。

 赤いのに、視線は逸らさない。

 

 俺は短く返す。考えて、でも逃げない。

 

「学校は、無理しない」

「命が嫌なら、合わせる」

 

 命が小さく頷く。

 

「……一緒にいたいです」

「ただ、急に変えると……周りが追いつきません」

「じゃあ、少しずつ」

「……はい」

 

 命はそこで一拍置いて、核心を丁寧に落とした。

 

「……私は」

「ハヤトさんと一緒にいる時間を、増やしたいです」

「“特別な日”だけじゃなくて」

「普通の日も」

 

 胸の奥が静かに熱くなる。

 俺は短く返した。

 

「増やそう」

 

 命の口元が、わずかにほどける。

 嬉しさを隠さない程度の笑い。

 

「……はい」

 

 命はバッグから、小さなものを出した。

 家紋入りの白い絹袋。

 指先で押さえるだけで、扱いが軽くないのが分かる。

 

「……“契り”は」

 

 命は丁寧に言う。

 

「大事な時だけにします」

「普段は……軽く扱いたくありません」

「分かった」

 

 俺は短く頷く。

 

「命のやり方でいい」

 

 命は安心したみたいに息を吐いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 俺はベッドの端に座る命の正面に、少しだけ近づく。

 近づきすぎない。逃げ道を残す距離。

 

「命」

 

 俺は短く呼ぶ。

 

「将来、どうしたい」

 

 命は一拍置いて、静かに言った。

 

「……ハヤトさんの隣が」

「私の“居場所”になるようにしたいです」

「そのために、私も」

「言葉を、増やします」

 

 丁寧で、まっすぐで、逃げない。

 俺は短く返す。

 

「……ありがとな」

 

 命が小さく笑う。

 今度も、隠さなかった。

 

「……はい」

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