扉の外に、屋敷の静けさが待っていた。
でも、腕を組んだ温度がある。
それだけで、もう大丈夫だと思えた。
廊下を進む。
命は腕を組んだまま、足音を揃える。
揃えているのに、逃げない歩き方だ。
角を曲がると、由紀子──お姉ちゃんがいた。
淡々とした顔で、もう全部分かってる目。
「……その顔」
「今日だな」
「うん」
俺が短く返すと、お姉ちゃんは命を見る。
「命、いけるか」
「……はい、由紀子姉さん」
命が丁寧に答える。
「大丈夫です」
姉さんは「よし」も言わない。
でも、視線が少しだけ柔らかい。
「行け」
「はい」
控室は、広いのに落ち着く部屋だった。
客を迎えるための“場所”って感じがする。
御堂家はこういう空気を、作れる家だ。
綾乃さんが、取り繕った丁寧さで一礼する。
「お支度、整いましたね」
「はい」
俺は丁寧に返す。
「ありがとうございます」
澄乃さんが、余裕のある笑みで言った。
「坊や、よくできました」
「命も。ちゃんと可愛いわ」
命の耳が少し赤くなる。
でも、表情は崩れない。
「……ありがとうございます」
綾乃さんが、淡々と段取りを置く。
「沙織さんは、まもなく到着です」
「到着したら、まずは控室で一度落ち着いていただきます」
「それから“席”へ」
俺は頷く。
「分かりました」
落ち着かせる。整える。いつも通りだ。
執事が一歩前に出る。
「恐れ入ります」
「到着の合図が入りました。玄関へお迎えいたします」
澄乃さんが微笑む。
「行きましょう。坊や」
「……はい」
俺は命の腕を見て、一瞬だけ迷う。
外で腕を組んで歩くのは、まだ“目”が増える。
命が先に、小さく言った。
「……ここは」
「腕は、離します」
「うん」
命は指先をほどいて、でも袖を一度だけつまんだ。
離れるのに、繋がっている合図。
玄関ホールは広い。
光がきれいに落ちる。
迎える側の場所だ。
車の音が、遠くで止まる。
扉が開く気配。
沙織が入ってきた。
派手じゃない。
でも、入った瞬間に空気が落ち着く。
目が強いのに、柔らかい。
「お邪魔します」
執事が一礼する。
「ようこそお越しくださいました」
沙織の視線が俺を捉える。
一瞬だけ、母の顔になる。
「隼人」
俺は一歩だけ前に出て、言った。
「……来てくれて、ありがとう」
短かったけど沙織はそれで十分だって顔で、頷いた。
「うん、来たよ」
それから、視線が命へ移る。
命は一拍だけ息を整えて、前に出た。
「……はじめまして」
「御堂 命《みこと》と申します」
「本日は、お越しいただき……ありがとうございます」
丁寧で、硬すぎない。
目が真っすぐだ。
沙織は、少しだけ笑った。
「こちらこそ」
「命さん、会えてよかった」
命の肩が、ほんの少しだけ緩む。
「……はい」
沙織が俺を見る。
「……ちゃんと、整えたんだね」
「うん」
「偉い」
沙織はそれだけ言って、視線を上げた。
「じゃあ、私は“席”に座ればいい?」
澄乃さんが、すっと前に出る。
大人なお姉さん口調で、柔らかく決める。
「ええ。沙織さん」
「ここからは、家の中の席です」
「気楽に」
綾乃さんが丁寧に続けた。
「控室へどうぞ」
「お茶をお出しします。移動の疲れを落としてからにしましょう」
沙織は頷く。
「助かります」
俺は横で、もう一度だけ丁寧に言った。
「……ありがとうございます」
沙織が小さく笑って、短く返す。
「礼はいい」
「このあと、ちゃんと座りなさい」
「……はい」
命が、俺の袖をそっとつまんだ。
玄関では腕を組めない。
でも、指先は離さない。
大丈夫だ。ここまで来た。
澄乃さんが楽しそうに言った。
「さあ、行きましょう」
澄乃さんが楽しそうに言った。
「さあ、行きましょう」
「“身内”の席へ」
綾乃さんが一歩前に出て、静かに案内する。
「こちらです」
「足元、お気をつけくださいませ」
沙織は頷いて、歩き出す。
姿勢がきれいで、歩幅が落ち着いている。
緊張はあるはずなのに、場を荒らさない強さがある。
命が俺の袖を、もう一度だけつまむ。
合図。
俺も小さく頷いた。
控室は、光が柔らかい部屋だった。
玄関の緊張を一度落とすための場所。
椅子の配置まで、ちゃんと“落ち着く形”になっている。
執事が音を立てずにお茶を置いた。
「どうぞ、ごゆるりと」
沙織が座りながら、軽く息を吐く。
「……ありがと」
俺は短く返す。
「来てくれて、ありがとう」
沙織は笑って、視線で「それでいい」と言った。
「うん」
命は一歩だけ離れたところで、背筋を整えて立っていた。
座らない。まだ“席”じゃない。
きちんと、整える時間。
綾乃さんが命を見て、静かに言う。
「命。座りなさい」
「今は、落ち着く時間です」
「……はい」
命が椅子に腰を下ろす。
座り方が丁寧で、崩れない。
でも、肩は少しだけ固い。
俺はその横に座る。
距離は近すぎない。
でも、守れる距離。
ここが、命の“内側”。
澄乃さんが沙織に向けて、柔らかく言った。
「沙織さん」
「堅い儀式ではありません」
「けれど、軽い席でもない」
「……坊やと命が、きちんと形にするための席です」
沙織が頷く。
目が少しだけ鋭くなる。真剣な目。
「分かる。隼人、逃げないって顔してる」
俺は短く答える。
「逃げない」
沙織が小さく笑う。
「うん、それでいい」
命が、息を吸って吐く。
声は崩れない。
でも、指先だけが膝の上で強く組まれている。
綾乃さんが一枚の封を置いた。
白い紙。家紋。
中身は見せない。形式だけ置く。
「家としての確認事項です」
「読むだけで十分です」
「署名は、今日ではありません」
沙織の目が一瞬だけ細くなる。
御堂家が“場を握っている”ことを理解した目だ。
「……丁寧だね」
「場を荒らしません」
綾乃さんが静かに言う。
「隼人さんに負担をかけないためです」
沙織が俺を見る。
視線は首元じゃない。顔と肩、立ち方。
母親の目で、短く確認するみたいに一度だけなぞった。
「……ちゃんと、整えたのね」
俺は短く頷く。
「うん」
沙織はそれだけで十分だって顔で、小さく笑った。
「えらい」
「じゃあ、このあと」
「ちゃんと座りなさい」
母さんは言い切ってから、余計な言葉を足さない。
叱ってるんじゃない。落ち着かせてる。
「……うん」
俺が短く返すと、母さんはそれだけで納得したみたいに頷いた。
「礼はいいよ」
「座って、聞いて」
「それが一番楽」
俺は一拍置いて、丁寧に言う。
「……分かった」
命がそのやり取りを、黙って見ていた。
表情は読みにくい。
でも、目が揺れていない。
澄乃さんが、軽く手を叩くみたいに空気を切り替える。
「では」
「“席”へ移りましょう」
「今日は、ちゃんと座って、ちゃんと受け取りなさい」
俺は丁寧に返す。
「……はい」
立ち上がると、命が一拍遅れて立つ。
そして、廊下に出た瞬間だけ――俺の腕に指先を添えた。
組まない。
でも、離さない。
沙織がそれを見て、何も言わずに笑った。
口に出さないのに、許した笑いだ。
大丈夫だ。
俺たちは、席の部屋へ向かった。