控室の空気が、ようやく落ち着いた。
湯気が上がって、張っていた糸が一本だけ緩む。
母さんが椅子に座って、軽く息を吐く。
それでも姿勢は崩れない。
「隼人、焦らないでいい」
「あなたは、あなたのままで座りなさい」
次の瞬間。廊下の奥から、足音が二つ近づいてきた。
急いでるのに、乱れない足音と──一歩だけ遅れる足音。
コン、と控えめなノック。
「失礼いたします」
執事が扉を開ける。
入ってきたのは、二人の女性だった。
俺は息を止める。
初対面だ
先に一歩出たのが、背筋のまっすぐな女性だった。
目が落ち着いていて、立ち方が迷わない。
この家の空気に馴染んでいる。
次に、半歩遅れてもう一人。
動きが少しだけ慌ただしくて、けど悪目立ちはしない。
澄乃さんが楽しそうに笑った。
「来たわね、
「遅くなりました」
──名前がそこで初めて落ちる。
背筋のまっすぐな方が陽菜乃。
半歩遅れた方が千鶴。
陽菜乃さんがきちんと一礼する。
「お婆様、母さん、由紀子」
それから命に視線を移す。
「命。大丈夫?」
命が丁寧に答える。
「……はい、陽菜乃姉さん」
続いて入ってきた次女──千鶴は、半歩遅れて、少しだけ前のめりだった。
そして、入室の瞬間に小さくつま先が引っかかる。
「あっ……」
転びはしない。
でも危ない。
陽菜乃さんが何も言わず、腕を伸ばして支える。
「千鶴。落ち着いて」
「うん……ごめん」
千鶴が小さく言って、姿勢を正す。
正すけど、耳が赤い。うっかりが可愛いタイプだ。
澄乃さんが楽しそうに笑った。
「来てくれて助かるわ」
「席に入る前に、揃えたかった」
由紀子姉さんが淡々と挟む。
「落ち着け」
「もちろん。場を崩しません」
陽菜乃さんが即答する。しっかり者の声。
「ここ、席の前だもの」
千鶴が小さく頷く。
「……はい。失礼のないようにします」
陽菜乃さんの視線が母さんへ移る。
驚かない。驚きを外に出さない。
でも、敬意が一段深くなるのが分かる。
「はじめまして」
「御堂
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
母さんも、きれいに頭を下げた。
「はじめまして」
「隼人の母です。今日はありがとうございます」
千鶴も慌てて一礼する。
「は、はじめまして、御堂……
一拍、言葉が迷子になる。
「弟……になる、んですよね?」
由紀子姉さんが即答する。
「なります」
「……そっか」
千鶴さんが小さく笑って、俺を見る。
「じゃあ……隼人くん?」
俺は背筋を伸ばして、丁寧に言う。
「……隼人です」
「今日は、お時間をいただいてありがとうございます」
陽菜乃さんが、少しだけ柔らかく笑った。
「……簡潔ですね、失礼がなくて、良いと思います」
千鶴がうっかり乗る。
「分かる、なんか安心する短さ」
由紀子姉さんが刺す。
「品評すんな」
「してないっ」
千鶴が小さく慌てて、また一礼しそうになる。
陽菜乃さんが肩を押さえて止める。
「千鶴、落ち着いて」
「……うん」
命が丁寧に言う。
「……陽菜乃姉さん」
「……千鶴姉さん」
「来てくれて、ありがとうございます」
千鶴さんがぱっと嬉しそうに頷く。
「うん」
「命、ちゃんと可愛い」
命が一拍固まる。
固まるけど、否定しない。
「……ありがとうございます」
澄乃さんが軽く手を叩くみたいに空気を切り替えた。
「よし」
「全員揃った」
「……迷わず並ぶための席にしましょう」
母さんが小さく頷く。
「うん」
俺の袖を、命がそっとつまんだ。
腕は組めない。
でも、離さない。
大丈夫だ。
陽菜乃さんが俺を見る。
しっかり者の目で、でも優しく。
「隼人くん、ここは味方ばかりよ、座って聞けばいい」
俺は短く返す。
「……はい」
千鶴さんが小さく息を吸って、陽菜乃さんの袖をつまんだ。
声は控えめで、ちゃんと場に合わせている。
「……陽菜乃姉さん、私うっかり言いそうになったら……止めて」
陽菜乃さんは表情を崩さず、でも声音だけ少し柔らかくする。
「ええそのために、私がいます」
千鶴がほっとしたように頷く。
「……うん」
その頷きのまま、千鶴が俺の方を見た。
視線が合って、すぐ逸らさない。
うっかりのせいか、距離感が一歩だけ近い。
「……隼人さん」
千鶴は丁寧に呼び直してから、少しだけ首を傾げる。
「その、えっと……呼び方、どうしましょう、弟って……まだ早いですよね」
陽菜乃が即座に拾う。
声が丁寧で、場を崩さない。
「千鶴、“隼人さん”でよろしいの、まずは席が終わってからです」
「……そっか」
千鶴が頷いて、俺に向き直る。
「失礼しました。隼人さん」
俺は背筋を伸ばして、丁寧に返す。
「いえ。お気遣いありがとうございます」
千鶴が小さく目を丸くする。
「……丁寧」
言いかけて、陽菜乃の視線に気づいて口を閉じる。
閉じたのに、表情がちょっとだけ嬉しそうだ。
由紀子姉さんが淡々と挟む。
「千鶴、顔に出てる」
「出てない」
千鶴が即答して、でも耳が少し赤い。
陽菜乃が小さく息を吐いて、丁寧にまとめる。
「由紀子、今日はからかうのは後にしましょう。席に入る前です」
「……分かった」
由紀子姉さんは淡々と頷く。
でも、少しだけ機嫌がいい。
長女、強い。
命が小さく息を吐いて、陽菜乃を見る。
「……陽菜乃姉さん、来てくれて、助かりました」
「当然です」
陽菜乃が丁寧に返す。
「命が決めた席ですから、私たちも揃います」
千鶴がその言葉に勢いで頷いて、うっかり一歩出る。
「うん、揃う!」
声が少しだけ大きい。
千鶴はすぐ気づいて、口に手を当てた。
「……あ、すみません」
陽菜乃が肩に手を置く。叱らない。整える。
「大丈夫、落ち着いて、ゆっくり」
「……うん」
母さんがそれを見て、ほんの少し笑った。
笑って、俺にだけ目で言う。
いい家だね。
俺は丁寧に言った。
「……お騒がせして申し訳ありません」
誰に向けるでもなく、場に向けて。
澄乃さんが楽しそうに言う。
「坊や、謝らなくていいの、今のは千鶴の可愛さよ」
「お婆様……」
千鶴が小さくうなだれて、でも笑いそうになる。
「やめてください」
澄乃さんの笑みが深くなる。
「やめないわ」
由紀子姉さんが淡々と締める。
「時間、行くぞ」
陽菜乃が頷く。
「はい」
千鶴が小さく息を吸って、俺を見る。
「……ハヤトさん」
「変なこと言いそうになったら」
「……陽菜乃姉さんが止めます」
陽菜乃がすぐ続ける。丁寧に、でも決定。
「止めます。ですから、安心して座ってください」
俺は短く頷いて、丁寧に返した。
「……承知しました」
命が俺の袖を、そっとつまんだ。
腕は組めない。
でも、離れない。
扉の向こうの“席”へ。
俺たちは、揃って進んだ。