綾乃さんが画角を見て、静かに言った。
「いきます。無理に笑わなくて大丈夫です、今のままで」
シャッター音が小さく鳴る。
命の腕の温度が、写真の中に残った気がした。
俺は息を吐いて、腕を組んだままの命を見る。
命はすぐには離さない。
一拍だけ、そのまま。
それから、少し照れたみたいに腕をほどいた。
「……これで大丈夫です」
「うん」
千鶴が小声で言う。
「今の、めっちゃいい」
言ってから、陽菜乃を見る。
「……すみません。小声です」
陽菜乃さんが丁寧に頷く。
「小声なら、許します。でも、今のは私も同意です」
由紀子姉さんが淡々と茶を啜る。
「同意って言うな。顔に出る」
「出てない」
千鶴が即答して、耳だけ赤い。
澄乃さんが楽しそうに笑った。
「いいわねえ、家の中が、ちゃんと明るい」
母さんが湯呑みを置く。
「……ありがとうございます。こういう時間、憧れていました。落ち着くのに、寂しくないんですね」
命が一拍置いて、小さく頷く。
「……はい」
そのまま、午後がゆっくり過ぎた。
お茶が二煎目に変わり、和菓子が少しずつ減っていく。
話題は軽い。
学校のこと、天気のこと、千鶴のうっかりの話。
誰も急がない。
“決まった後”の時間は、こんなに柔らかい。
千鶴さんがうっかり、菓子皿を持ち上げてから気づく。
「あ、これ、下げるやつじゃ――」
陽菜乃がすぐ、丁寧に止めた。
「千鶴、それはまだ、皆がいただいています」
「……はい」
千鶴さんが赤くなって、皿をそっと戻す。
「ごめんなさい」
澄乃さんが笑う。
「かわいい。うっかりは、家の華よ」
「お婆様……」
由紀子姉さんが淡々と刺す。
「華じゃなくて注意」
「はい……」
俺はそれを見て、肩の力が抜けた。
日が傾く。
庭の影が長くなる。
屋敷の中の灯りが、一つずつ点いていく。
夕方になった頃、執事が静かに言った。
「夕餉のご用意が整いました。本日は、ささやかな席を設けております」
澄乃さんが楽しそうに手を叩く。
「ほら、来た、夜は宴よ。昼は整える、夜は笑う」
綾乃さんが丁寧に頷く。
「無理はしません。でも、せっかくですから、皆で、温かい時間にしましょう」
母さんも、静かに笑って言った。
「……私も、ご一緒してよろしいですか」
「もちろん」
澄乃さんが即答する。
「今日から身内側よ」
千鶴が反射で目を輝かせる。
「宴会……!」
声が出かけて、陽菜乃が目で止める。
千鶴は慌てて口を押さえる。
「……宴、ですね。小声で」
由紀子姉さんが淡々と言う。
「もういい、行くぞ」
立ち上がる。
命が俺の方を見る。
耳が少し赤いのに、目は柔らかい。
「……ハヤトさん、今度は腕、いいですか」
「いいよ」
命が一歩近づいて、腕を組む。
さっきより自然だ。
廊下の先から、料理の香りが流れてきた。
にぎやかな声も、少しだけ混ざる。
俺はその温度を感じながら、背筋を伸ばした。
「行こう」
命が小さく笑った。
「……はい」
夕食の部屋に入ると、空気が変わった。
昼の静けさじゃない。あたたかいざわめきだ。
長い卓。席が整っているのに、堅くない。
灯りが柔らかくて、影も優しい。
最初に目に入ったのは、赤飯だった。
湯気が立って、色がはっきりしている。
千鶴さんが目を丸くする。声は出さない。
でも表情が全部言ってる。
澄乃さんが楽しそうに言った。
「そう赤飯よ、今日はそういう日」
母さん言う。
「……お赤飯、久しぶりに見ました。やっぱり、嬉しいものですね」
陽菜乃さんが丁寧に頷く。
「家の中の祝いですから、派手にせずきちんと」
由紀子姉さんが淡々と刺す。
「千鶴姉、はしゃぐな」
「はしゃがない」
千鶴さんが即答して、すぐ言い直す。
「……はい。はしゃぎません」
命が俺の袖を軽く引いた。
腕はまだ組んでる。
でも、引き方が「座るよ」の合図。
「……こちらです」
「うん」
座る。
命は俺の隣。
それがもう、自然になりかけている。
(慣れるって、こういうことか。)
乾杯は派手じゃない。
綾乃さんが短く言った。
「では、今日に」
澄乃さんが続ける。
「坊やと命に、そして沙織さんに」
グラスが軽く触れる。音が小さいのに、心地いい。
料理が並ぶ。
出汁の香り、焼き物、煮物。
全部、優しい味の顔をしている。
千鶴さんが箸を持った。
持ってから、俺を見る。
「……隼人さん、食べられますか? 緊張してると、喉通らない人もいるって聞いたので」
初対面の気遣い。
ちゃんとしてる。
俺は丁寧に返す。
「……大丈夫です、ありがとうございます」
千鶴さんがほっとして、陽菜乃を見る。
陽菜乃さんが小さく頷く。
そのやり取りが、姉妹だ。
母さんが箸を置いて、俺を見た。
やさしい目。
でも、甘やかしすぎない目。
「隼人食べなさい」
「はい」
命が小さく笑う。
その笑いが、隠さないやつに近い。
「……ハヤトさんのお母さん、強いですね」
「強い」
俺が短く言うと、命が頷いた。
「……安心します」
澄乃さんが楽しそうに言った。
「安心は、大事よ」
部屋の空気がさらに温くなる。
千鶴さんと千佳が、赤飯を一口食べて目を輝かせた。
「おいしい……」
「おいしい!」
言ってから、二人とも陽菜乃さんを見る。
この兄弟よく似てる。
「……美味しいです」
陽菜乃さんが微笑む。
「ええ」
「よかったですね」
由紀子姉さんが淡々と呟く。
「可愛い」
「言うな」
陽菜乃が丁寧にたしなめる。
「由紀子。今は、優しくしましょう」
「……分かった」
俺が赤飯を口に入れる。
もち米の重さが、腹に落ちる。
命が俺の横で、箸を置いた。
一拍。
それから、丁寧に言った。
「……ハヤトさん、今日は”ありがとう”がたくさん言えそうです」
俺は短く返す。
「言って」
命が小さく笑う。
「……はい」
夜は、にぎやかに続いていった。
笑い声は大きくない。
でも、途切れない。
俺はその中で、命の腕の温度を思い出していた。
写真の腕。
廊下の腕。
今、隣の命の気配。
全部が、同じ方向に揃っていく。
俺は湯呑みを置いて、息を吐いた。
今日を受け取って、明日も進めると思えた。