綾乃さんは一度だけ息を吸って、母さんの前に姿勢を整えた。
言う内容を決めてきた人の、まっすぐな目。
「……実は、天城家に相談があります」
母さんは箸を止めた。俺も反射で背筋が伸びる。
この家で“相談”って言葉が出るときは、軽い話じゃない。
「相談?」
「はい」
綾乃さんは俺を一度見て、それから母さんへ視線を戻す。
逃げない。けど、押しつけもしない。短く、きれいにまとめるために言葉を選んでいる。
「天城家を、御堂家に迎えたいです。引っ越しませんか」
母さんはすぐに頷かない。
でも、目が柔らかい。驚きより先に、嬉しさが出ている。
「……ありがとうございます」
母さんは丁寧に言って、少しだけ笑った。
「そう言っていただけるの、正直……嬉しいです」
母さんは湯呑みを置いて、少しだけ考える。
迷いじゃない。整えるための間だ。
「ただ私、すぐ決めるのが癖で隼人の気持ちを置いていきたくないんです」
母さんは俺を見る。
押さない。急がせない。
でも、期待の温度は隠してない。
「隼人、ここで暮らすの、どう? あなたが、安心できる方を選びなさい」
俺は一拍置いて、丁寧に言った。
「……安心できます、ここにいたいです」
母さんの口元が、ほんの少しだけほどける。
嬉しそうだ。
でも、まだ即答しない。
「……そう。じゃあ、引っ越しちゃいましょうか」
言い方は軽い。
でも、目はちゃんと真剣だ。
俺は母さんの顔を見て、短く息を吐いた。
「……うん、頼む」
母さんが小さく笑う。
「任せて、でもあなたも困ったら言いなさい」
「大丈夫だよ」
綾乃さんが静かに頷く。
「荷物は最低限で大丈夫です。部屋は整っています。必要なものはこちらで揃えます」
「隼人さんが気を遣う前に、こちらが動きます」
母さんがその言葉に、少しだけ肩の力を抜いた。
「助かります」
澄乃さんが楽しそうに言う。
「それでいいの。今日は、嬉しい日でしょう」
母さんが澄乃さんに丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます」
綾乃さんが続ける。
言い切りが、優しい。
「引っ越しのタイミングは、急ぎません。明日でも、来週でも隼人さんが一番落ち着く日で」
俺は一拍置いて、砕けたまま言った。
「早い方がいい、俺ここにいたい」
母さんの目が、さらに柔らかくなる。
「……うん、じゃあ早めに整えましょう、今日の夜はもう休みなさい、明日必要なものを一緒に確認する」
「御堂家が良ければ今日からでも居たいです」
綾乃さんが短くまとめる。
「では、決まりです」
「御堂家として、隼人さんを迎えます」
澄乃さんが満足そうに頷いた。
「ようこそ坊や」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
守られる場所が増える。代わりに、守りたいものも増える。
それが嫌じゃない。
部屋を出る。
廊下の先に命がいた。待っていたのが分かる立ち方。
命は俺の顔を見て、一拍置く。
「……決まりましたか」
「決まった」
俺は短く答える。
「俺、ここに引っ越す」
命の目が少しだけ大きくなる。
表情は大きく動かないのに、嬉しさがちゃんと出る。
「……はい」
命は小さく笑って、そっと腕を組んできた。
「……一緒に、いられますね」
「うん」
命の指先が、少しだけ強くなる。
それが、命の喜び方だった。
背後から、千佳が顔を出す。
声が出かけて、慌てて小さくする。
「……ほんとに? ハヤト兄、うちに?」
陽菜乃さんが丁寧に止める。
「千佳、落ち着いて、でもよかったですね」
千佳が頷いて、ちゃんと整えて言い直す。
「……はい……ようこそ、です」
俺は少し照れて、でも丁寧に言った。
「……ありがとう」
由紀子姉さんが淡々と締める。
「弟、確定」
命がまた小さく笑う。
宴の空気が、いい具合に温まった頃だった。
大人のグラスだけ、ゆっくりと回っていく。
俺の前にはノンアルが置かれている。気まずさはない。御堂家はそういうところも整っている。
千鶴さんが赤飯を見て、また目を輝かせた。
「この赤飯、ふつうに反則です。おかわりしてもいいですか」
陽菜乃さんが丁寧に頷く。
「もちろんです。ただし、落ち着いて召し上がってくださいね」
千鶴さんが素直に頷いて、すぐに姿勢を正す。
「はい。落ち着きます」
由紀子姉さんが淡々と呟く。
「落ち着いてない」
「落ち着いてます」
千鶴さんの返しが早くて、場がふっと笑った。
その笑いが落ちたところで、澄乃さんが楽しそうにグラスを置いた。
目が、母さんに向く。軽いのに、逃げ道のない笑い。
「沙織さん。そろそろ、ひとつだけ打ち明けていいかしら」
「はい。どうぞ」
澄乃さんは、さらっと言った。
「実はね、この家は三世代で、隼人さんのパートナーなの」
母さんは目を見開きはしない。
でも、息だけが一つ、静かに増えた。
「驚きはないです。でも、不思議と納得もあります」
澄乃さんが嬉しそうに頷く。
「いい反応」
「坊やはね、放っておくと外で削れて帰ってくるタイプよ。だから、内側で守るの」
綾乃さんが、きちんと補足する。
「隼人さんの負担を増やすためではありません」
「隼人さんが息をできるように、場を整えるためです」
母さんがゆっくり頷いて、俺を見る。
「隼人、ここまで座れてる?」
「うん。大丈夫」
砕けた返事になったのに、母さんは嬉しそうに笑うだけだった。
「よかった」
ここで、澄乃さんがふっと笑った。
「沙織さん、あなたも言いたいことがある顔をしてる」
母さんが一拍置いて、グラスに指を添える。
そして、丁寧に言った。
「……はい」
「私も、打ち明けます」
「実は私もパートナーなんです。ハヤトの女なんです」
空気が一瞬止まる。
止まったのに、嫌な止まり方じゃない。
驚きが整って落ちる止まり方だ。
「私は、隼人の女として、ここに預けるだけでは終わりたくありません」
「この家の身内側として、隼人を支える側に入りたいです」
千鶴が反射で声を出しかけて、口を押さえる。
でも目がきらきらしてる。
陽菜乃が丁寧に頷いた。
「ありがとうございます、それは御堂家としても心強いです」
由紀子姉さんが淡々と締める。
「味方、増えた」
澄乃さんが楽しそうに手を叩く。
「いいわねえ」
「この家だけで、隼人さんの味方が四人になるなんて」
「罪な男ね、女泣かせじゃなくて、女たらしの方」
俺は赤飯を飲み込みきってから、短く返した。
「……美女には目が無くて」
命が俺の袖をそっとつまんで、耳が少し赤いまま言う。
「……ハヤトさんは、そういう人です」
また笑いが起きた。
母さんがグラスを持ち上げ、丁寧に言った。
「では、改めて」
「今日のことに。御堂家に。隼人に。命さんに」
澄乃さんが楽しそうに続ける。
「そして、沙織さんが身内側に来ることに」
グラスが軽く鳴る。
命の指先が俺の袖を離さない。
夜のにぎやかさが、ちゃんと家の温度になっていった。