命視点
夏休み最後の日は、夕方から空気が違った。
屋敷の廊下の足音が柔らかい。笑い声が増えているのに、うるさくない。
部屋で浴衣を整えて、鏡の前で息を整える。
帯を結び直して、髪の乱れを直して、最後に襟元を指先で押さえた。
大丈夫。
今日は、家の中だ。
整えれば、崩れない。
襖を開けると、廊下の向こうに隼人さんがいた。
藍色の浴衣。
背が高い。肩が広い。
いつもより線がはっきりして見える。
心臓が、変な音を立てた。
落ち着けない。落ち着きたい。
なのに、目が勝手に吸い寄せられる。
襟元。喉仏。手首。
浴衣の袖から見える指。
たったそれだけで、胸がきゅっとなる。
隼人さんがこちらを見て、短く言う。
「……来た」
声まで、いつもより近い気がした。
私の顔が熱いのが分かる。誤魔化せない。
「……はい」
私は丁寧に返してから、息を一つ吐いた。
「隼人さん、腕、いいですか」
言った瞬間、言い切ったことが恥ずかしくなる。
でも、逃げない。
隼人さんは即答した。
「いいよ」
その一言で、胸の奥がほどけた。
私はそっと腕を組む。力は入れない。入れたくない。
浴衣越しの体温が伝わる。
近い。安心する。
それだけで、またドキドキする。
――ずるい。
ハヤトさんが、浴衣を着ているだけで。
普段の彼は、短い言葉で、迷いなく歩く。
それが今日は、藍色の布に包まれている。襟元の白がやけに綺麗で、手首の骨の形まで目に入ってしまう。
廊下の向こうから足音が二つ来る。
陽菜乃姉さんと千鶴姉さん。
陽菜乃姉さんは姿勢が綺麗で、視線が落ち着いている。
千鶴姉さんは一歩だけ勢いがあって、途中で自分で整える。
「命、隼人さん、準備はいいですか」
陽菜乃姉さんが丁寧に言う。
「……はい」
千鶴姉さんが少し弾んだ声で言いかけて、途中で抑える。
「花火、用意できたそうです。えっと、落ち着いて案内します」
「お願いします」
私は丁寧に返す。
由紀子姉さんが淡々と言った。
「千鶴、転ぶなよ」
「転びません」
千鶴姉さんが即答して、つま先が少し引っかかって静かに立て直す。
陽菜乃姉さんが何も言わずに袖を支える。
「……ありがとうございます」
そのやり取りが、姉妹らしくて少し笑いそうになった。
でも私は笑いを飲み込む。顔に出たら、もっと恥ずかしい。
庭に出ると、夜の匂いがした。
芝の上に、手持ち花火とバケツと、濡らした砂。
綺麗に整っている。
綾乃さんが丁寧に言う。
「火は順番に、走らないで、終わったら必ず水へ」
沙織さんが丁寧なお姉さんみたいな口調で笑う。
「はい、守ります。先生みたいで安心しますね」
お婆様が楽しそうに言った。
「さあ、夏の最後をきれいに燃やしましょう」
最初は線香花火だった。
小さく灯って、小さく落ちる。
静かなのに、目が離せない。
隼人さんの手元が近い。
火花が一瞬、指を照らす。
私の胸がまた跳ねる。
花火のせいにできない。
私は思い切って言った。
「……隼人さん、浴衣、似合ってます」
言った瞬間に、言ってしまったと思う。
でも、止められない。
隼人さんは少しだけ間を置いて、短く返した。
「……命も似合う」
それで、頭が真っ白になった。
嬉しい。恥ずかしい。
心臓がうるさい。
私は視線を落として、丁寧に言う。
「……ありがとうございます」
千鶴姉さんが大きめの花火を手に取って固まっている。
「これ、音でかいです」
陽菜乃姉さんが丁寧に言う。
「では最後にしましょう。心の準備をしてから」
「はい、心の準備します」
千鶴姉さんが真面目に頷く。
由紀子姉さんが淡々と言った。
「準備、長いな」
笑いが起きる。
私も少しだけ口元が緩む。すぐ戻す。戻したい。
火が回って、庭が明るくなる。
ぱちぱち、しゅう。
光が揺れて、浴衣の影も揺れる。
「わっ……! 見て見て、命姉! すっご……!」
千佳が一歩前に出て、両手を胸の前でぎゅっと握った。目がきらきらして、肩まで跳ねている。
「庭でこれ!? 明るっ……! 浴衣の影が揺れてるの、めっちゃ綺麗!」
「……火が強いですね」
「強いとかじゃなくて、テンション上がるやつ! きゃっ、やばい!」
千佳は袖を押さえながらくるっと回って、自分の影が伸びたり縮んだりするのを見て、また声を上げた。
「ほらほら、影が踊ってる! 命姉のも! ……あ、ハヤトさんの影もめちゃ“それっぽい”!」
「それっぽいって何だよ」
「映画の人! 浴衣の人!」
火の粉が小さく舞った瞬間、千佳が「きゃっ!」と跳ねて、すぐ笑い声に変える。
「こわっ……でも楽しい! あーもう最高! 花火始まる前から勝ってる!」
その明るさに、私は目を細めた。
光が揺れるたび、隼人さんの横顔の輪郭までくっきり見えてしまう。
近い。
熱と、匂いと、音。全部が距離を縮めてくる。
私は隼人さんの腕を、少しだけ強く掴んだ。
無意識だった。
でも、離したくなかった。
隼人さんは何も言わない。
ただ、こちらに少しだけ寄ってくる。
それだけで、安心が増える。
同時に、胸がきゅんとなる。
私は小さく言った。
「……明日から、学校ですね」
「そうだな」
「噂は立ちますね」
「立つだろうな」
即答。
迷いがない。
その迷いのなさが、嬉しい。
私は息を吐いて、短くまとめた。
「……外は外」
「内側は、整ってます」
「そうだな」
隼人さんの短い返事が、私の背中を押す。
世界が色づく。
本当にそう見えるのが、悔しいくらいに嬉しい。
最後に、みんなで火をつける。
白い光が庭を満たして、音が少しだけ大きくなる。
千鶴姉さんが肩をすくめて笑う。
「夏、終わりますね」
陽菜乃姉さんが丁寧に答える。
「終わります。だから覚えておきましょう」
火花が落ちて、煙が薄く流れる。
夜が静かに戻ってくる。
私は隼人さんの腕に頬を寄せたい衝動を、ぎりぎりで止めた。
代わりに、掴む指先に気持ちを入れる。
隼人さんが短く言った。
「終わっても、一緒にいる」
その言葉で、胸がいっぱいになった。
私は、もう隠さないことにした。
口元が、わずかにほどける。
小さい笑顔。
でも、本物。
「……はい」
夏休みは終わる。
でも、隼人さんがいる。
それだけで、私は明日が怖くない。