日曜日。
朝から家の中が落ち着かない。昨日の動画の余韻じゃない。今日は、天城家そのものが動く日だ。
チャイムが鳴った。
ドアを開けると、引っ越し業者が数人。トラックが二台。段ボールと緩衝材が山みたいに積まれている。
「おはようございます。引っ越し作業、開始します」
「お願いします」
短く返して、靴を揃えた。
母さん——沙織が、奥から出てきて会釈する。
「おはようございます。手間かけるけど、よろしくお願いしますね」
「承知しました。大物から順に梱包していきます。貴重品だけはお手元で管理をお願いします」
「分かりました」
母さんは俺を見て、小さく指を立てる。
「ハヤト、貴重品はね、絶対に箱に入れないのよ。あなたが持つの。分かった?」
「分かった」
作業が始まると早い。棚の中身が出されて、包まれて、箱に入っていく。見慣れた部屋が“移動する形”に変わっていくのが、少し変な感じだった。
途中でもう一度チャイム。
黒いワゴンが止まっていて、御堂家の執事が玄関に立った。声も動きも静かだ。
「沙織様。本日はお手数をおかけいたします。天城家のお引っ越し先まで、こちらで誘導と確認を担当いたします」
「お願いしますね。ほんとに助かるわ」
母さんの返事は丁寧だけど、少しだけ肩が落ちてる。引っ越しは気を張る。
業者が大型家具を運び出す音が響く。床の養生シートが敷かれ、テープの音が鳴る。
玄関の横で、母さんがふっと息を吐いた。
「早いわね。こういうのはね、始まると止まらないのよ」
「……母さん」
「何?」
母さんは笑おうとして、ちゃんと笑えた。
「無理すんな」
「無理はしないわよ」
「でもね、ハヤト。これはあなた一人の話じゃないの」
「私も疲れたら休むし、あなたも疲れたら言いなさい。黙って抱えないのよ」
「分かった」
母さんは俺の袖を軽くつまむ。
「それとね、ごはん。ちゃんと食べるの。引っ越しの日って、気づくと食べてないから」
「あなたも、私も。二人ともよ」
「分かった」
「よし」
母さんが頷いた瞬間、少しだけ顔が整った。決めた顔だ。
執事が確認の声をかける。
「沙織様、積み込みが終わり次第、先に出発いたします。新居側で受け取りの段取りを整えております」
「ええ。お願いします」
母さんは一度だけ家の中を見回した。いつも通りの顔で、でも目だけが少しだけ長い。
「……行こうか、ハヤト」
「うん」
トラックが先に出て、俺と母さんは御堂家の車に乗った。執事が運転席。車内は静かで、余計な音がない。
母さんは窓の外を見てる。落ち着いてるふりじゃなくて、落ち着こうとしてる顔だ。
「……引っ越しってね、気持ちが追いつかないのよ」
「そう」
俺が短く返すと、母さんは小さく笑った。
車が門をくぐる。御堂家の敷地に入った瞬間、空気が変わる。外の音が一枚薄くなる感じがする。
母さんが小さく息を吐いた。
「静か……」
「整ってる」
「うん。……落ち着く人、いるわよね。あなたみたいに」
執事が後方へ一礼だけ見せて言った。
「沙織様、天城家の新居は、敷地内の別棟でございます。生活の導線が重ならぬように、最低限の距離を保ちつつ、必要なときはすぐに行き来できる位置に整えております」
母さんが頷く。
「助かるわ。……ほんとに」
車が砂利を踏む音。停車。ドアが開いて、母さんが降りた。
目の前に、別棟の建物があった。派手じゃない。けど、手入れが行き届いてる。外壁も、玄関周りも、無駄がない。
「……ここが、うち?」
母さんの声が少しだけ上がった。
「はい。天城家の住まいとして整えております」
執事が鍵を開け、扉を押し開ける。
中はもう住める形だった。必要最低限の家具が揃ってる。照明、カーテン、テーブル。空っぽじゃない。引っ越し直後に一番助かるやつだ。
母さんが靴を脱いで、そっと床を踏む。
「……ちゃんとしてる」
母さんはキッチンを見て、冷蔵庫を開ける。中に水が入ってるのを見て、もう一度息を吐いた。
「こういうの、助かるわ」
外でエンジン音が止まった。トラックが着いた。
作業員が次々と段ボールを運び込んでくる。ラベルが揃ってる。執事が指示を出す。
「こちらは居間。こちらは寝室。学用品は机の右側へ」
その言い方が、まるで最初から決まってたみたいに迷いがない。
俺は玄関の横で、箱を受け取りながら、必要なものだけを運ぶ。無駄な動きはしない。
母さんも動く。声を荒げない。でも、やることはやる。
「この箱はね、先に開けるの。タオルと洗面道具。今日すぐ使うから」
「分かった」
業者が大物を運び込む間、俺は箱を一つ開けて、最低限の生活を作る。布団、洗面、充電器。これが揃えば、夜は越えられる。
母さんが腕を組み……かけて、やめた。代わりに腰に手を当てる。
「はぁ……引っ越しって疲れるわね」
「休めよ」
「休むわよ。ちゃんとね」
母さんは俺を見て、念押しする。
「あなたも。黙って抱えない。さっき言ったでしょ」
「分かった」
そのとき、玄関が控えめに鳴った。
執事が扉を開けると、命が立っていた。
制服じゃない。私服で、落ち着いた色。屋敷の空気に馴染む格好。表情はいつも通り読みにくいけど、目だけが少し柔らかい。
「……失礼します」
「命」
俺が呼ぶと、命は一拍置いて頷く。
「……お引っ越し、お疲れさまです。沙織様も」
母さんが驚いた顔をして、それから丁寧に微笑んだ。
「命さん。ありがとうね。……うちまでまとめてお世話になるの、申し訳ないわ」
「申し訳なくは……ありません」
命は言い切らず、でも逃げない。
「こちらの都合でもありますので」
母さんはその言い方に、少しだけ目を細めた。品のある子だって分かる顔。
「……そう。じゃあ、遠慮しないわね」
「はい」
命は一歩、俺の方へ寄った。腕は組まない。でも距離が近い。忙しい玄関の中でも、そこだけ静かになる。
「……ハヤトさん」
「ん」
「落ち着きましたら……荷物の配置、少しだけ確認してもいいですか」
命の“確認”は、整えるための言葉だ。
「頼む」
命の息が少しだけほどける。
「……はい」
母さんがそのやり取りを見て、ふっと笑った。
「あなたたち、ほんとに静かに近いわね」
命が小さく言った。
「……邪魔には、なりません」
「うん。邪魔じゃない。……むしろ助かるわ」
母さんはそう言って、箱のラベルを指さした。
「ハヤト、この『学用品』どこ置く?」
「机の右。すぐ出せるように」
外の作業音が続く。けど、この別棟の中は少しずつ形になっていく。
天城家は、ここで暮らす。
それは、俺だけの引っ越しじゃない。
“内側を整える”ための、家ごとの引っ越しだった。
夕方には搬入が終わる。