箱は積まれてる。家具は置かれた。生活の形はでき始めてる。あとは中身を戻していくだけ——のはずだった。
命が、玄関の上がり框のところで立ち止まった。
腕は組まない。でも距離は近い。いつもの、離れない近さ。
「……ハヤトさん」
「ん」
命は一拍置いた。息を吸って、吐く。その間に覚悟が混じる。
「私も……ここに住みます」
母さんが一瞬目を丸くして、それから、ふっと笑った。驚きじゃなくて、嬉しい方の顔。
「いいわね」
さらっと言って、俺と命を見比べる。
「二人でちゃんと決めたなら、それでいいのよ」
「一緒にいる方が、安心できるでしょ」
命が小さく頷く。
「……はい」
俺も短く返す。
「そう」
母さんはうんうんと頷いて、すぐ実務に切り替える。
「じゃあね、無理だけはしないのよ」
「住むって毎日のことだから。疲れたら言う。黙って抱えない。——二人ともね」
命が丁寧に答える。
「承知しました」
母さんが「二人ともね」と言ったあと、空気が少しだけ軽くなった。
決めたことが、言葉になって、形になったからだ。
執事が一礼して、淡々と確認に入る。
「承知いたしました。では、部屋割りを整えます」
「命様のお部屋は二階。ハヤト様のお部屋の隣を用意しております」
「沙織様は同階の反対側。生活音が重ならぬ距離にいたします」
母さんが頷く。
「それでいいわ」
「承知いたしました」
執事が間を置いて、確認するように言った。
「寝室の件ですが——二部屋用意しております。分ける形にも、同室にも対応可能です」
母さんが一瞬だけ俺を見る。
「どうするの?」
俺は命を見る。
命は、少しだけ息を吸ってから言った。
「……同じ部屋で」
声は小さい。でも迷いはない。
母さんが目を瞬かせて、それからすぐ笑った。
「いいわね」
あっさり。
「どうせ近くにいるなら、一緒の方が安心でしょ」
「……はい」
命は短く頷いた。
執事が続ける。
「ベッドはツインにもできますが」
命が、今度は間を置かずに言う。
「同じで、大丈夫です」
言い切りだった。
俺は短く言う。
「俺もそれでいい」
執事が一礼する。
「承知いたしました。では主寝室を整えます」
母さんが小さく息を吐いて、どこか嬉しそうに言った。
「ほんと、決めるところは早いのね、二人とも」
命は何も言わない。ただ、俺の袖のすぐそばに立った。
触れない距離で。
でも、離れない。
命が俺を見る。いつも通り読みにくい顔。でも、目がまっすぐだ。
「……ハヤトさん」
「ん」
「今日から、です」
「そうだな」
短く返すと、命の息がふっとほどけた。腕は組まない。でも距離は近い。忙しい玄関でも、そこだけ静かになる。
母さんが小さく笑う。
「ほんと、静かに近いわね」
俺は返さない。命も返さない。返さないのに、否定もしない。
執事が声を落として言った。
「命様の私物は、本邸より最小限を移し、まず生活を回す形にいたします。必要なものがございましたら、仰ってくださいませ」
命が頷く。
「……お願いします」
俺は言う。
「俺も行く」
執事が一礼する。
「かしこまりました。では、こちらへ」
本邸の廊下は静かだった。別邸とは空気が少し違う。人の気配があるのに、音が少ない。
命の部屋は整っている。棚の角、机の上、カーテンの折り目まで。命の“整ってる”は、家の空気と同じだ。
命がクローゼットを開ける。
「……最初は、これだけで」
手に取ったのは、制服一式、普段着の数枚、部屋着。小さなポーチに洗面道具。箱に入れる量は少ない。でも、それが“住む”の始まりに見える。
母さんが後ろで言った。
「えらいわね。必要なものだけって、一番できないのよ」
命は一拍置いて答える。
「必要なものが、分かっているだけです」
「それがえらいのよ」
母さんはそう言って、箱をひとつ開けた。緩衝材を入れて、命の服を丁寧に畳む。
命が少しだけ目を伏せる。
「……沙織様、私が」
「いいのよ。今日はね、家族の引っ越しなの」
「手伝わせて。私も落ち着くから」
命は言葉を飲んで、頷いた。
「……はい」
俺は黙って、スーツケースを持ち上げる。軽い。命の荷物は、最初から“重くしない”つもりだ。
執事が低い声で言う。
「必要な書類類は、私が管理いたします。外に見せない形で運びます」
「頼む」
「かしこまりました」
別邸へ戻る途中、命が俺の隣に寄った。腕は組まない。でも、歩幅が完全に揃う。肩が触れそうで、触れない。
母さんが少し後ろからついてくる。視線は優しい。
別邸に着くと、二階の廊下へ上がった。
命の部屋は、もう用意されていた。鍵、カーテン、ベッド、机。新品の匂いを消すように、すでに空気が馴染ませてある。
命が部屋の中に入って、ゆっくり息を吐く。
「……ここが、私の部屋」
その言葉が、思ったより重い。
母さんがうなずく。
「うん。ここからね、生活が始まるのよ」
命が「はい」と返す。短い。でも、今までで一番はっきりしてる。
俺は隣の扉を見る。俺の部屋。距離は近い。壁一枚。逃げ道がない。
命が俺の視線に気づいて、小さく言った。
「……近いですね」
「近いな」
短く返す。
命は一拍置いて、それでも言い切った。
「……良い、です」
その“良い”が、命の決断の重さだ。
母さんが笑う。
「いいわね。ほんとに」
そしてすぐ、母親の顔に戻る。
「じゃあ二人とも、まずはね」
「今夜を回す。お風呂、着替え、ごはん。生活を崩さない。そこからよ」
「分かった」
俺が返す。
「……はい」
命も頷く。
執事が控えめに告げた。
「夕食は本邸にご用意がございます。お疲れが強い場合は、別邸へお運びも可能です」
母さんが即答する。
「行くわ。本邸で食べましょ」
命が小さく頷いた。
「……はい」
俺も短く。
「行こう」
引っ越しは終わってない。
でも、生活はもう始まってる。