本邸へ向かう廊下は、昼より静かだった。障子越しの夕方の光が薄く入って、影が長い。
命は俺の隣。腕を組んでる。すっかり俺と腕を組むのが日常になっている。
食堂の前で、執事が一礼した。
「こちらでございます」
扉が開くと、出汁の匂いがふわっと広がった。引っ越しの日に刺さる匂いだ。
中は和室で、低い座卓。座布団じゃなく、座椅子が並んでいる。背もたれがあるだけで、今日みたいな日は助かる。
すでに席には人がいた。
綾乃さんがこちらを見て、短く頷く。澄乃さんは湯飲みに手を添えたまま、落ち着いた目で俺たちを迎えた。
「いらっしゃい」
澄乃さんの声は柔らかいのに、場が整う。
母さんが会釈する。
「お邪魔しますね。今日は……ありがとうございます」
「いいのよ。座りなさい」
綾乃さんが淡々と言う。
俺は命を見る。
命は一拍置いて頷いた。
「……はい」
執事が座椅子の位置をほんの少し整える。けど、俺はそれより先に、命の隣の席を自分で引いた。
「ここ」
短く言う。
命は迷わず、そこに座った。
「……はい、ハヤトさん」
俺も隣に腰を下ろす。距離は近い。腕は組まない。でも、もう離れない。
母さんも座って、背もたれに軽く体を預けた。
「座椅子ってね、助かるのよ。今日みたいな日は特に」
「そうだな」
俺が短く返すと、母さんは小さく笑った。
料理が運ばれてくる。汁物、煮物、焼き物。派手じゃない。ちゃんと温かい。
箸を取って、一口。
母さんが息を吐く。
「……おいしいわね」
「うん」
俺が返すと、命が一拍置いて頷く。
「……はい」
命の声は崩れない。でも、息の間が少しだけ柔らかい。落ち着いてきてる。
綾乃さんが箸を置いて、話を切り替える。
「明日からの動きだけ確認するわ」
「送り迎えは当面こちらで手配。別邸の出入りは最小限。外の目はまだ熱い」
「分かった」
俺は短く返す。
命も頷く。
「……承知しました」
澄乃さんが静かに言った。
「席は作った。あとは日々で馴染ませなさい」
その言葉で、空気が決まった。
母さんが小さく笑って言う。
「……ほんと、整ってる家ね」
命がほんの少しだけ息を吐く。
「……はい。そういう家です」
俺は箸を動かしながら、命を見る。
腕は組んでない。でも、さっきから命は“離れない”距離でここにいる。
それだけで、十分だった
綾乃さんが俺と命を順に見て、淡々と続ける。
「別邸の部屋割りは決めた?」
母さんが返事をする。
「ええ、あっさり決まりました」
俺は命を見る。
命は言い切る。
「……同じ部屋で」
「よろしい。決めたなら、あとは日々よ」
綾乃さんが頷いた。
「執事、整えて」
「かしこまりました」
執事が一礼して下がる。音がしない。
食卓に、少しだけ“家族”の温度が増えた。
綾乃さんが果物の皿をこちらへ寄せて、命に差し出した。
「命。食べなさい」
「今日はよく動いたでしょ」
「……ありがとうございます、母さん」
命は丁寧に受け取って、小さく口に運ぶ。
綾乃さんが母さんに言う。
「沙織さん、気を遣いすぎないで。遠慮で疲れるのが一番危ない」
「ええ。分かってるわ」
母さんは笑って頷く。
「こういう時はね、頼るのが正解なのよね」
澄乃さんが軽く頷く。
「よろしい」
俺は湯飲みを手に取り、一口飲んだ。
温かい。
命が隣で、小さく言う。
「……ハヤトさん」
「ん」
「今日は……ありがとうございます」
命の「ありがとう」は軽くない。だから刺さる。
「当たり前だ」
俺が短く返すと、命は一拍置いて頷いた。
「……はい」
その「はい」が、いつもより少しだけ軽かった。
外が騒いでも、内側は崩さない。
今日の席は、そのための一歩だった。
食卓が片づき始める。湯飲みが下がり、座椅子が静かに戻される。家の中の動きは、全部が小さい音で進む。
綾乃さんが立ち上がって言った。
「今日は解散。片付けはこっちでやる」
「二人は別邸。沙織さんも、今日は早く休んで」
「ええ。そうするわね」
母さんはうなずいて、俺を見る。
「ハヤト。あなたもね。今日はもう、無理しないのよ」
「分かった」
短く返す。
命が一拍置いて言った。
「……お婆様、おやすみなさい」
澄乃さんが目を細める。
「おやすみ。明日からが本番よ」
別邸へ戻る道は、夜の空気で少し冷えていた。灯りが点々と続いて、敷地が広いことを思い出す。
命は隣。歩幅がずっと揃う。
別邸の扉を開けると、昼とは違う静けさがあった。生活の静けさ。引っ越しの箱が並んでるのに、もう“家”の匂いがする。
執事が待っていて、一礼した。
「主寝室の整えは完了しております。必要なものは揃えております」
「ありがとう」
俺が言うと、執事は音もなく下がった。
廊下を進んで、主寝室の前で命が立ち止まる。
扉の向こうが、もう決まっている場所だ。
命が小さく息を吸って、吐いた。
「……入りますね」
「うん」
俺が短く返すと、命はゆっくり扉を開けた。
部屋は整っていた。灯りは落としてあって、眩しくない。大きなベッドが一つ。シーツに皺がない。
命が一歩入って、立ち止まる。
「……近いですね」
「近いな」
俺がそう言うと、命は一拍置いて、短く頷いた。
「……良いです」
それだけで、十分だった。