文化祭が終わって、少し経った。
廊下の視線はまだ残ってる。でも、刺さり方が違う。もう“祭り”じゃない。日常の中に沈んでいく段階だ。
昼休み。
俺が弁当のふたを開けた瞬間、教室の入口が静かにざわついた。
恵が立っていた。扉のところで、俺だけを見る。
「ハヤトさん。少し、よろしいですか」
「今?」
「ええ。昼休みのうちに、済ませたい用がございますの」
俺は立った。レンがこちらを見るが、何も言わない。俺も言わない。
廊下に出る。
恵は先に歩いて、踊り場で止まった。窓の光が床にまっすぐ落ちている。人の気配が薄い。恵がここを選んだのが分かる。
恵がこちらを向いた。
いつものお嬢様口調。けど、目は真面目だ。
「前に、伺いましたわね」
「わたくしのことを——曖昧にはしない、と」
俺は頷く。
「言った」
「ええ」
恵は一拍置く。
「そのとき、ハヤトさんは仰いました」
「“今じゃない”。文化祭が先。外が騒ぐ時期に、内側を乱したくない、と」
俺は短く返す。
「そう」
恵は視線を逸らさない。
「では、今は?」
確認じゃない。約束を回収しに来てる。
俺は答える。
「落ち着いた」
恵の息が、ほんの少しだけほどけた。けど、笑わない。先に言うべき言葉がある顔だ。
「……なら」
「ハヤトさん。デートに行きませんこと?」
直球だった。前と同じ。だけど今度は、外の熱も、内側の席も、一度整えたあとだ。
「休日に。きちんと時間を取って、人目が気になるなら、こちらで手配しますわ」
「曖昧に扱われないために——わたくしは、あなたと“話す場所”が欲しいのです」
俺は恵を見る。
完璧な顔。けど指先が、制服の端を少しだけつまんでる。緊張してる。
「いつ」
俺が聞くと、恵はすぐ答えた。
「今週末。土曜日、昼から夕方まで。無理のない範囲で」
俺は一拍置いた。
過去の自分の言葉を、そのまま拾う。
「曖昧にはしない」
それから、短く。
「行く」
恵が瞬きをする。嬉しさが一瞬だけ出て、すぐに整う。
「……ありがとうございます、ハヤトさん」
そして、少しだけ声を落とした。
「命さんには——わたくしからは言いませんわ」
「あなたが必要だと思ったら、あなたが言えばいい」
「分かった。言っておく」
恵は頷いて、最後にきちんと頭を下げた。
「では、詳細は今ここで決めますわ」
恵はそう言って、スマホを取り出した。迷いがない。
「今週末、土曜日。十二時、人目を避けます。迎えは家まで車を回しますわ」
「……前の家じゃない」
恵が瞬きをする。
「どういうことですの?」
「引っ越した」
短く言う。余計な説明はしない。
「御堂家の別邸。今はそこ」
恵は一拍置いて、すぐ理解した顔になる。驚きより先に、“段取り”の目だ。
「なるほど」
「では、別邸に車を回しますわ」
「頼む」
「承りましたわ」
恵はスマホにメモを打ち込んで、顔を上げる。
「……早いですわね。内側を固めた、ということですのね」
「そう」
恵は小さく息を吐いた。寂しさは出さない。でも、目だけが少しだけ揺れる。
「……分かりました」
「では当日は十二時。詳細はメッセージで送りますわ」
恵はスマホをしまって、俺を見た。
「ひとつだけ。確認ですわ」
「何」
「命さんには、いつ伝えますの?」
俺は一拍置く。
「今日」
恵が瞬きをする。短い答えのわりに重いからだ。
「……ええ」
恵は口元だけ笑って、お嬢様の顔に戻す。
「では、わたくしは待ちますわ」
「あなたが決めた順番で。あなたの言葉で」
「分かった」
俺がそう言うと、恵は一歩だけ下がって、丁寧に頭を下げた。
「土曜日。お待ちしております、ハヤトさん」
「俺も行く」
それだけ言って、俺は踊り場を離れた。
別邸に戻ると、玄関の灯りがついていた。
中は静かだ。箱はもう減って、生活の形になってきている。洗濯物の匂いと、湯気の気配が少し混じる。
廊下を進むと、命がいた。リビングの入口。私服で、髪をまとめてる。手には小さなトレイ。湯飲みが二つ。
「……お帰りなさい、ハヤトさん」
「ただいま」
命は一拍置いて、湯飲みを差し出した。
「……温かい方が良いと思って」
「助かる」
俺が受け取って座ると、命も向かいの椅子——じゃない。座椅子にゆっくり腰を下ろした。背もたれに少しだけ寄りかかる。疲れてるんだろう。
それでも、姿勢は崩れない。
俺は湯飲みを一口飲んで、言う。
「命」
「……はい」
命の目が上がる。読みにくい顔。でも、耳はちゃんとこっちを向いてる。
俺は回りくどくしない。
「恵と、土曜に会う」
命が瞬きをする。
「……二人で、ですか」
「二人で」
俺は間を置かず、次を出す。
「恵とは、将来――結婚するつもりだ」
命の指先が、湯飲みの縁を軽く押さえた。力が入って、すぐ抜ける。
声は崩れない。でも、息の間が変わる。
「……そう、ですか」
「言うのが遅くなって、済まない」
命が一拍置いた。
「……遅い、とは」
「引っ越しもあって、バタついた」
「でも本当は、早く言うべきだった」
命は視線を落とさない。けど、まつげが一度だけ揺れた。
「……謝る必要は、ありません」
「ただ……今、聞いたので」
「分かった」
俺は短く返す。
「隠さない」
「曖昧にも、しない」
命は一拍置いて、頷く。
「……分かりました」
俺は続ける。短く、逃げ道を作らない言い方で。
「土曜は、その確認をする」
「恵が、俺と向き合う時間を求めた。俺も向き合う」
命のまつげが一度だけ揺れた。
「……私は」
言いかけて止まる。いつもの癖。言い切る前の間。
俺は待つ。急かさない。
命は息を吐いて、言葉を選ぶ。
「……嫌では、ありません」
「ただ……少し、揺れます」
「分かった」
俺は短く返す。
「揺れていい」
「でも、席は崩さない」
命が小さく頷く。
「……はい」
俺は湯飲みを置いた。
「俺は命とも、ちゃんと決めてる」
「だから言った。先に」
命の指先が、座椅子の肘を軽く握って、ほどく。
「……聞きたいです」
「恵さんと……いつ頃、どういう形で進めるつもりなのか」
「帰ったら話す。全部言う」
命は一拍置いて、はっきり言った。
「……お願いします」