土曜日。
別邸の朝は静かだった。箱はもう減って、生活の形になってる。
俺が着替えていると、命が先に起きていた。表情はいつも通り読みにくい。でも、湯の匂いがする。湯飲みが二つ、低い机に並んでた。
「……おはようございます、隼人さん」
「おはよう」
命は一拍置く。
「今日は……」
「行く」
俺が短く言うと、命は頷いた。
「……はい」
それだけで十分だった。言葉を増やすと、余計に揺れる。
玄関で靴を履く前、命が小さく言った。
「帰ったら……話してください」
「分かった」
俺が言うと、命の指先が一度だけ動いて止まる。
「……行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
別邸の門の外に、黒い車が止まっていた。目立たない。けど、気配が整ってる。
後部座席の窓が下りて、恵が見えた。いつものお嬢様の顔。だけど今日は、少しだけ息が浅い。
「ハヤトさん。お待ちしておりましたわ」
「待たせた?」
「いいえ。時間通りです」
俺が乗り込むと、車は静かに動き出した。
「人目は避けますわ」
「今日は、話すための時間ですもの」
「分かった」
恵は頷く。嬉しそうに笑う……まではしない。真剣だ。
最初は食事。
個室。店の名前は聞かなかった。恵が押さえた。こういう段取りは早い。
小さな前菜と椀ものが運ばれてくる。会席寄りの、軽い流れだ。
俺は箸を取る。恵も箸先を揃えて、言った。
「改めて、来てくださって、ありがとうございます」
「約束したからな」
「ええ」
恵はまっすぐ俺を見る。
「わたくしは、曖昧が苦手ですの」
「都合の良い枠に入れられるのは……困ります」
「入れない」
俺は即答した。
恵が少しだけ息を吐く。
「……その言い方、ずるいですわね、安心してしまいます」
俺は黙って食べる。言い訳はしない。
恵が続ける。
「命さんと、あなたが席を作ったのは知っています。それを壊したいわけではありません」
「壊させない」
「ええ。だからこそ、わたくしの席も——」
恵は一拍置いて、言い切った。
「ちゃんと、欲しいのです」
「分かった」
短く返す。
「今日、何を決めたい」
恵は少し驚いた顔をして、すぐ整えた。
「……二つ、ひとつはあなたの気持ち、もうひとつはこれからの形ですわ」
「気持ちは?」
「わたくしは、ハヤトさんをお慕い申し上げております」
声は落ち着いてる。
「軽い言葉ではありません」
俺は頷いた。
「受け取った」
恵の目が一瞬だけ揺れる。嬉しいのに、泣かない。泣き方も選ぶタイプだ。
「……ありがとうございます」
食事を終えて、車で移動した。
庭園。
人は少ない時間帯だった。恵が選んだんだろう。風の音がする。砂利を踏む音がする。
俺たちは並んで歩く。向かい合うより楽だ。
恵が言う。
「ここなら、見られても“散歩”で済みますわ」
「そう」
しばらく歩いて、恵が足を止めた。
池の横。木陰。
「ハヤトさん、命さんのことを大事にしているのは分かります」
「大事にしてる」
「ええ」
恵は一拍置く。
「では、わたくしは?」
問いじゃない。確認だ。
俺は迷わず言った。
「恵も大事にする」
恵が瞬きをする。
「……それは、同じ重さで?」
「比べない」
「恵の席も作る。俺が」
恵の指先が、手袋もない手でスカートの端をつまんで離す。
「……“作る”」
「それは、いつですの」
「恵が決めろ」
「俺は、逃げない」
言ったあと、庭園の風の音だけが少し残った。
恵はすぐに笑わない。瞬きを一度して、俺を見上げる。いつもの綺麗な表情のまま、目だけが揺れてる。
「……本当に、ずるいですわね」
「そうか」
「ええ」
恵は息を吐いて、少しだけ肩の力を抜いた。
「“席をください”と言えば、あなたは逃げない」
「“こうしてほしい”と言えば、あなたは受け止める」
俺は頷く。
「言え」
恵が小さく笑う。お嬢様の笑みじゃない。人っぽい方だ。
「では、まず一つ目」
恵は俺を見上げて、言い切った。
「“約束”をくださいませ」
「約束?」
「ええ、曖昧にしないための、言葉ではなく——行動の約束ですわ」
「何を」
恵は即答した。迷いがない声だ。
「何かを決めるときは、必ず先に私に言ってくださいませ」
「命さんに先に話すのは構いません」
「けれど、私の知らないところで“形”が固まるのは困りますの」
俺は一拍置いて、頷いた。
「分かった」
恵の息が、ほんの少しだけほどける。
「……ありがとうございます」
恵の指先がスカートの端をつまんで離す。緊張してる。
「二つ目」
「言葉をください」
「言葉?」
「ええ」
恵はまっすぐ言う。
「あなたは、必要なことだけ言う方ですわ」
「それで十分だと分かっていても——」
「わたくしは、“私は選ばれている”と分かる言葉が欲しい」
俺は一拍置いて、言った。
「恵は、俺が選ぶ。足りない分は俺が埋める」
恵が息を止めて、ゆっくり吐く。
「……はい」
その「はい」は軽くない。嬉しさを隠してる重さだ。
俺は続けた。
「他に」
恵は視線を落として、また上げた。
「三つ目は——今日じゃなくていいですわ」
「言えよ」
俺が言うと、恵は少しだけ笑って、覚悟を置いた。
恵は視線を落とさずに言った。
「……ハヤトさん」
一拍。
「私とも、婚約してください」
言い切りだった。お願いじゃなく、宣言に近い。
俺は恵を見る。逃げ道はない。
俺は頷く。
「最初からそのつもりだ」
恵の目が一瞬だけ細くなる。
「……ありがとうございます」
しばらく歩く。砂利の音が一定に続く。
庭園の端、木陰の茶屋が見えてきた。恵が歩幅を少し緩める。話す場所を変える合図だ。
「茶屋、行くか」
俺が言うと、恵は小さく頷いた。
「ええ。ここからは、座って話したいですわ」
簾の向こうの席に入る。
茶の香りが落ち着く。外の音が薄くなる。