茶屋は簾の向こうで人の気配が薄かった。湯気の立つ茶碗の音だけがする。
恵は背筋を崩さずに座っている。けど、指先が茶碗の縁をなぞって止まる。落ち着いてるふりをしてるのが分かる。
「……ハヤトさん」
恵が言う。
「わたくしは、曖昧が苦手ですの」
「大丈夫だと分かっていても、置いていかれるみたいで——」
そこで、恵は言葉を切った。言い切らない。珍しい。
俺は茶碗を置いて、恵を見る。
「恵」
「……はい」
「不安にさせたな」
短く言うと、恵が瞬きをした。謝られると思ってなかった顔だ。
俺は続ける。
「俺は恵の事、好きだ」
恵の呼吸が一瞬止まって、それからゆっくり戻る。目が揺れる。笑わない。崩れないようにしてる。
「……」
声が出ないまま、恵は一拍置いた。
「……今、言うのですの」
「今がいい」
「……ずるいですわね」
恵はそう言って、やっと小さく笑った。お嬢様の笑みじゃない。人っぽい方。
「その一言で、全部……ほどけてしまいます」
恵はそう言って、茶碗に指を添えたまま息を整えた。崩れない。けど、崩れそうなところをちゃんと自分で押さえてる。
俺は頷く。
「ほどけていい」
恵の目が揺れて、すぐ戻る。
「……では」
恵は俺をまっすぐ見た。言葉を探すんじゃない。決めた言葉を置きにくる目だ。
「先ほどの——“そのつもりだ”」
「……撤回、ありませんわね」
真っ直ぐだった。逃げ道を閉じてくる言い方。
俺は視線を逸らさない。
「ない」
短い。受け止める音だけを残す。
恵が、ようやく息を吐いた。
「……はい」
少しだけ震えた「はい」だった。
恵はすぐに“段取り”の顔に戻る。泣かない。けど、指先が一度だけ茶碗の縁を押さえて離す。
「形にいたしましょう」
「形?」
「ええ」
「席を置きます」
俺は一拍置く。
「……どうする」
恵は迷わない。
「婚約のパーティを開きますわ」
恵は最初から決めた顔で、淡々と言い切った。
「大々的にやります」
俺が少し眉を動かすと、恵は落ち着いたまま続ける。
「曖昧を残したくありませんの」
「“噂”のまま転がすより、こちらの言葉で固めた方が早い」
「招待状を出します。学園関係者、関係する家、必要な筋——全部、こちらで選びますわ」
「騒がれるな」
「ええ。だから、騒がせ方もこちらで決めます」
恵はさらっと言う。財閥の顔だ。
「会場は一流ホテルのホール。入場は招待制。身元確認。警備は二重」
「撮影は可にします。ただし、撮っていい範囲と出していい範囲は、こちらが決めます」
「余計な煽りは、そこで止まりますわ」
俺は短く言う。
「……やるなら徹底しろ」
「当然ですわ」
恵は頷いて、最後に一言だけ落とした。
「“大々的”は、守るためです」
「あなたを、噂の餌にしないために」
俺は聞く。
「場所は?」
「会場は——都心のホテルの最上階。ホールを丸ごと貸し切ります」
「入場は完全招待制。身元確認、警備は二重」
「撮影は可にします。ただし、撮っていい範囲と出していい範囲は、こちらが決めます」
俺は言う。
「命は」
恵の表情が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。
「そこは、あなたが先に言ってくださいませ」
「命さんの席を崩すつもりはありません」
「むしろ——同じ席に座ってもらう必要があります」
「必要?」
「ええ、“わたくしが婚約する”だけなら、あなたと二人で勝手に決めたことになります」
「それは、命さんを不安にさせます」
「……だから、最初から一緒に。最初から席を見せる」
言い方が、優しい。恵なりの誠実さだ。
俺は頷く。
「分かった。俺が言う」
「はい」
恵は少しだけ息を吐いてから、淡々と日時を置く。
「来週末」
「あなたの学校と、御堂家の都合が崩れない日」
「二時間で終わる会にします。長いと疲れますもの」
「短くていい」
「ええ。短く、でも確実に」
恵は視線を上げて、もう一度だけ言った。
「ハヤトさん」
「ん」
「今日の“好きだ”」
「……逃げない、ですよね」
「逃げない」
俺が即答すると、恵は小さく笑った。
「では、次は」
「“婚約おめでとう”を、内側で先に言わせてくださいませ」
俺は茶を一口飲んだ。
温かい。
曖昧じゃない言葉が増えると、体の余計な力が抜ける。
「帰ったら、命に言う」
「はい」
「わたくしは、待ちますわ」
「あなたが整える順番で」
恵は立ち上がり、最後に丁寧に頭を下げた。
「本日は、ありがとうございました」
「——婚約の準備、始めますわ」
「頼む」
短く返して、俺も席を立つ。
門の外に戻る車の中で、次に言う言葉を頭の中で整えた。
言い方は決めてる。
でも、命の前では——順番がある。どこから置くかで、揺れ方が変わる。
車が別邸の門の外で止まる。
俺が降りると、恵は窓を少しだけ下げた。
「ハヤトさん」
「ん」
「大々的に、やりますわ」
「けれど、決める前に——命さんに、あなたの言葉を渡してください」
「分かってる」
短く返すと、恵は小さく頷いた。
「……では」
窓が上がる。車が静かに去る。
門をくぐって、別邸へ入る。