本邸の食堂は、夜になると音がさらに少なくなる。座椅子を引く音も、湯飲みを置く音も、小さい。
今日も同じだ。
座卓には、いつもの顔が揃っていた。綾乃さん、澄乃さん。母さん。命。
命は俺の隣の座椅子に座っている。腕は組んでない。けど、距離は離れない。
「……いただきます」
命が丁寧に言う。俺も短く。
「いただきます」
箸が動き始めて、少し間が空いた。
言うなら今だ。内側は、ここで固める。
俺は湯飲みを置いて、命を見る。
「命」
「……はい、隼人さん」
「今日、恵と会った」
命の指先が一瞬だけ止まって、すぐ動く。顔は崩れない。
「……はい」
綾乃さんがこちらを見る。澄乃さんも、湯飲みに手を添えたまま目を上げた。
俺は続ける。
「九条家と、婚約する」
「婚約パーティもやる」
命は息を吐いて、短く言う。
「……承知しました」
その「承知しました」は形を崩さないための返事だ。けど、湯飲みの縁を押さえる指に力が入って、すぐ抜ける。
俺は命にだけ向けて言う。
「出るから、準備しといて」
命は一拍置いて頷いた。
「……はい。準備いたします」
綾乃さんが淡々と聞く。
「規模は?」
「大々的に」
俺が言うと、綾乃さんは小さく息を吐いた。驚きじゃない。納得の方だ。
「……九条家らしいわね」
母さんが目を丸くする。
「らしい、って?」
「噂を噂のままにしない」
「外が騒ぐなら、先に“公式”で潰す」
「やり方が派手でも、筋は通す。——九条家はそういう家よ」
澄乃さんがふっと笑った。
「九条家とも婚約するなんて、坊やもよくやるわね」
からかう声なのに、嫌味じゃない。澄乃さんの“認めた”言い方だ。
綾乃さんが現実に戻す。
「ただし、条件がいる」
「会場、警備、撮影の線引き。御堂家も口を出す」
「命を外にしない。そこは絶対」
俺は短く頷いた。
「分かってる」
命が一拍置いて言う。
「……私の席は、近くに」
「そう」
俺が即答すると、命の呼吸が少しだけ落ち着く。
母さんが、わね、よ、を混ぜて言った。
「二人ともね、今日はまず食べなさい」
「決め事は決めた。体を崩したら元も子もないのよ」
「分かった」
「……はい」
命の返事は丁寧で、でも逃げてない。
箸を動かしながら、俺は命の横顔を見る。
揺れてる。けど、席から降りない。
それだけで、今夜は越えられる気がした。
食事が進むと、座卓の上の空気も少しずつ柔らかくなる。出汁の匂い、湯気、箸の音。こういうのが「内側」だ。
綾乃さんが箸を置いて、淡々と続けた。
「九条家が大々的にやるなら、こちらも“受ける側”で終わらない」
「条件は三つ」
母さんが小さく頷く。
「条件、ね」
「一つ。会場の導線……」
綾乃さんが一瞬言いかけて、言い直す。
「……出入りの管理。招待状のチェックと、本人確認。そこは九条に任せきりにしない」
俺は短く返す。
「分かった」
「二つ。撮影」
「撮影可はいい。でも、撮っていい範囲と出していい範囲は、こちらも同意する」
「勝手に“命がどう見えるか”を決められたら困る」
命が一拍置いて頷いた。
「……はい」
綾乃さんは命を見る。
「命、準備はできる?」
「できます」
命は言い切る。
「場に出るなら、整えます」
澄乃さんが穏やかに言った。
「整えるのは得意でしょう」
命が小さく息を吐く。
「……はい」
綾乃さんが最後。
「三つ。席」
「主役席は九条。そこは変えない」
「でも命を“席の外”にしない。近くに置く。こちらが決める」
俺は即答した。
「外にしない」
母さんが、少しだけ安心した顔をする。わね、よ、が混じる。
「あなた、ちゃんと分かってるのね」
澄乃さんが茶目っ気のある目で俺を見る。
「坊や、忙しいわね」
「忙しいです」
短く返すと、澄乃さんが小さく笑った。
食後、湯飲みが新しく置かれて、果物が出た。さっきより空気が落ち着く。決めることが決まったからだ。
綾乃さんがスマホを取り出して、確認する。
「九条側の連絡先は、恵さんが回すとして」
「御堂家側の窓口は私。沙織さんは、体調優先で」
「ええ。任せるわね」
母さんはすぐに頷く。
「私、口出ししすぎると空回りするの、分かってるのよ」
綾乃さんが淡々と返す。
「分かってるなら大丈夫」
母さんが小さく笑った。
命が湯飲みを持ったまま、俺を見る。
「……隼人さん」
「当日は、私も同じ車で……」
「同じだな」
俺が短く答えると、命の指先の力が少し抜けた。
「……はい」
澄乃さんが言う。
「大々的にやるほど、内も外も揺れるものよ」
「でもね、揺れても席から降りなければいい。降りるかどうかは、自分で決めなさい」
命は一拍置いて、丁寧に言った。
「……降りません」
その言い切りが、いつもの命より強い。
綾乃さんが頷く。
「なら、準備を始める」
「ドレスは九条側の色に合わせすぎない」
「命は命の色で。御堂家として出るんだから」
「承知しました」
俺は湯飲みを置いて言った。
「俺も準備する」
母さんが笑う。
「あなたの準備って何よ」
「当日、逃げない準備」
短く言うと、母さんは一瞬止まって、それから頷いた。
「それが一番ね」
解散になって、俺と命は別邸へ戻る。
夜の敷地は静かで、灯りだけが道を作っている。
命は俺の隣を歩く。腕は組まない。でも、肩が触れそうな距離を保ったまま離れない。
「……隼人さん」
「ん」
「大々的、という言葉が……少し怖いです」
命がそう言うのは珍しい。怖い、って言葉を口にするのは、命にとって重い。
俺は歩きながら言った。
「俺がいる」
命は一拍置いて、呼吸を整えた。
「……はい」
玄関に着いて、靴を脱ぐ。
命が小さく言う。
「私、明日から準備を始めます」
「衣装の手配、髪、当日の動き」
「……隼人さんにも、確認してもらうことが増えます」
「やる」
短く返すと、命の口元がほんの少しだけ柔らかくなった。
「……ありがとうございます」
俺は言う。
「命の席は、俺が守る」
「今日も言った。これからも変えない」
命は一拍置いて、はっきり頷いた。
「……はい」
「私も、席から降りません」
言い切ったあと、命は少しだけ近づいた。袖が触れる距離。
腕は組まない。
でも、離れない。
それで十分だった。