10月2日。
朝から、妙に静かだった。
別邸の廊下を歩いても、執事の気配が薄い。母さんも、いつもなら「おはよう、ね」って言うのに、今日はやけにあっさりしてる。
「今日、夕方は空けときなさいよ」
それだけ。
「何」
「いいから」
母さんはそれ以上言わない。わざとだ。
学校に行けば、レンも日和も普段通り。恵も、いつもの顔で挨拶だけして去っていく。命は――いつも通り丁寧で、表情が読めない。
でも、命は俺の横にいる時間が長い。離れない距離のまま、何も言わない。
放課後。
迎えの車が本邸の方へ向かう。
「……本邸?」
俺が言うと、運転手は何も言わずに前を見たままだった。こういうときは、全員グルだ。
本邸の食堂に入った瞬間、分かった。
座卓の上に、いつもより品数がある。赤飯。刺身。焼き物。菓子の皿。普段より少しだけ“祝い”の匂い。
澄乃さんが座っていて、綾乃さんが腕を組んでいる。母さんは隣で、ニヤニヤを隠せてない。
命は俺の隣の座椅子に、当たり前みたいに座る。
そして――恵とレンと日和も、いる。
レンは少しだけ背筋が固い。日和は落ち着かないのに、ニコニコしてる。恵は完璧な顔で、湯飲みに手を添えていた。
澄乃さんが、楽しそうに言った。
「坊や。座りなさい」
「……何だこれ」
俺が言うと、母さんが肩を揺らす。
「何だこれ、じゃないわよ」
「今日、何の日か分かってるでしょ」
俺は一拍置く。
「……誕生日」
「そう!」
日和が手を叩いた。
「ハヤトさんおめでとー!」
レンも小さく頷く。
「……おめでとう、ハヤト」
恵が上品に微笑んだ。
「お誕生日、おめでとうございますわ。ハヤト様」
命が一拍置いて、丁寧に言う。
「……お誕生日、おめでとうございます。ハヤトさん」
声は崩れない。でも、言い切ったあと、息が少しだけ柔らかい。
綾乃さんが淡々と締める。
「今日は誕生日会。以上」
「食べる。祝う。終わり」
澄乃さんが笑う。
「九条家とも婚約するなんて、坊やもよくやるわね。誕生日まで賑やかで、結構結構」
「お母さん、そこ繋げなくていい」
綾乃さんが即ツッコミして、場が少しだけ緩んだ。
「では、乾杯を」
執事が言って、グラスが揃う。
澄乃さんが短く言った。
「坊やの健康に」
全員がグラスを軽く合わせる。
「乾杯」
料理が進む。赤飯が出される。母さんの目が潤みかけて、すぐ誤魔化す。
「今日はね、好きなものをちゃんと並べたのよ。お祝いなんだからね」
「……泣いてないわよ」
誰も突っ込まないのが優しさだ。
途中で、日和が身を乗り出す。
「プレゼント! 順番に渡す!」
「順番はいるのか」
「いる!」
日和は即答だ。
最初にレンが、小さな箱を差し出した。
「……これ。派手なのじゃないけど」
中は、シンプルな革のカードケースだった。色も落ち着いてる。
「これ。カードケース」
「助かる」
俺が言うと、レンは少し安心したみたいに肩の力を抜いた。
日和は、妙に大きい袋を出した。
「はいこれ――お菓子詰め合わせ!」
「テンション上がるやつ、これ好きだろってやつ!」
母さんが微笑ましそうにする。
「日和ちゃん、かわいいわね」
恵は次に、細い箱を静かに置いた。
「ハヤトさん。これは、控えめにいたしました」
中は、シンプルなタイピンだった。目立たないのに、質が分かる。
「今後、必要になるでしょう」
「——席の場でも」
「分かった。使う」
恵が満足そうに頷く。
「ええ。きっと似合いますわ」
最後に、命が小さな包みを出した。派手じゃない。丁寧に包んだ布。
「……隼人さん」
「よろしければ」
俺が受け取って開けると、中は――腕時計だった。シンプルで、余計な飾りがない。けど、質だけは分かる。
「……時間を、見失わないように、これから……予定が増えますので」
命らしい。言い方も、選ぶものも。
「ありがとう」
俺が言うと、命は一拍置いて頷く。
「……はい」
それだけなのに、場が静かに温かくなる。
食事が終盤に差しかかって、綾乃さんが言った。
「誕生日会はここまで」
「明日、学校がある。夜更かしは禁止」
「了解」
俺が短く返すと、澄乃さんが湯飲みを置いた。
「坊や」
「祝われるのは、守られるだけじゃなくて」
「守る側に立つってことでもあるわよ」
俺は頷く。
「分かってる」
命が隣で、少しだけ息を吐いた。
腕を組む。今日も離れない。
それで十分だった。
食堂を出ると、廊下の灯りが少しだけ落ちていて、家の音が遠くなる。座椅子の軋みも、箸の音も消える。
命は俺の腕を組んだまま歩く。強くはない。けど、ほどけないくらい
「……別邸、戻りますか」
「戻る」
短く返すと、命は小さく頷いた。
「……はい」
外は夜の空気で冷えていた。敷地の灯りが道を作ってる。誰もいない。知らない人の目もない。
命は、安心したみたいに体を寄せた。
別邸に入る。玄関の灯りが柔らかい。靴を脱いで、廊下を進む。
リビングに入った瞬間、命が息を吐いた。
「……静かですね」
「静かだな」
俺がそう言うと、命は腕を組んだまま、ソファじゃなく座椅子の方へ誘導するみたいに歩いた。生活が和室寄りになってきてる。
「お茶、淹れます」
「俺がやる」
「……私がやります」
珍しく譲らない。
命はキッチンに立って、湯を沸かして、茶葉を計って、迷いなく動く。段取りが強い家で育った動きだ。見てるだけで落ち着く。
湯飲みが二つ、机に置かれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
俺が受け取ると、命は俺の隣に座った。向かいじゃない。隣。
腕もそのまま。服越しに、熱が伝わる距離。
俺は湯飲みを一口飲んで言う。
「今日、疲れた?」
命は一拍置く。
「……少しだけ」
「でも……嫌な疲れでは、ありません」
「ならいい」
命は小さく頷いた。
「……隼人さん」
「ん」
命の声が少しだけ小さくなる。
「誕生日……嬉しかったですか」
聞き方が、慎重だ。答えを急がせない距離。
「嬉しかった」
短く返すと、命の指先が俺の腕を一度だけ、軽く押さえた。確認みたいに。
「……良かったです」
その「良かった」が、いつもより柔らかい。
少し間が空く。気まずくはない。静かに湯気が揺れてるだけ。
俺は言う。
「時計、ありがとう」
命は目を伏せずに頷く。
「……予定が増えます」
「見失わないように、と思って」
「見失わない」
俺が言うと、命は一拍置いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……はい」
俺は続ける。
「命も、無理するな」
「……無理は、しません」
「でも……席からは降りません」
言い切った。最近の命は、こういうところが強い。
「分かった」
俺は湯飲みを置いた。
命の腕が、ゆっくり俺の腕に絡み直される。さっきより少し、しっかり。
命が小さく言う。
「……今日みたいに」
「皆がいるところで、落ち着いて話せるのは……助かります」
「俺も」
命は少しだけ驚いた顔をした。ほんの一瞬。すぐ読みにくい顔に戻る。
「……隼人さんも?」
「うん」
それだけで、命の呼吸が深くなった。
命は視線を落として、でも逃げずに言った。
「……好きだと言われたのは」
「正直……怖いです」
「怖い?」
「はい、嬉しいから、失くしたくない、と思ってしまう」
命の言葉は、飾りがない。だから刺さる。
俺は短く言う。
「失くさない」
命のまつげが揺れる。
「……約束、ですか」
「約束」
即答すると、命は息を吐いた。軽くなる音。
「……はい」
腕を組んだまま、命が俺の肩にほんの少しだけ寄りかかる。
「ハヤトさん……その、今日も……良いですか?」
「いいよ」