翌週末。
朝から本邸が落ち着かない。人が増えて、音が増えて、でも全部が整ってる。御堂家の整い方と、九条家の整え方は似てるのに、圧が違う。
別邸のリビングで、命が俺のネクタイを結び直した。指先は迷わない。顔は相変わらず読みにくい。
「……こちらで、よろしいです」
「ありがとう」
腕時計を留める。命がくれたやつだ。文字盤が静かで、余計な主張がない。
命は自分の準備も済ませていた。派手じゃない。でも、御堂家の令嬢として“負けない”整い方だ。今日は主役じゃない。だからこそ、崩れない。
「命」
「……はい」
「今日は、外にしない」
短く言うと、命は一拍置いて頷いた。
「……承知しました」
その返事が、強い。
会場はホテルの大きなホールだった。
入口の前からもう違う。招待状の確認、本人確認、警備。笑って通れる空気じゃない。九条家が“守るために大々的にやる”って言った意味が分かる。
中に入ると、照明が柔らかくて眩しい。花も多い。音も多い。けど、雑じゃない。全部が計算されてる。
俺は恵の隣に立つ――その前に、命を見た。
命の席は、主役席のすぐ近く。外にしない。約束通りだ。
命もこっちを見て、一拍置いて頷いた。
大丈夫、って言葉はない。でも、分かる。
恵が隣で、小さく息を吐く。
「ハヤトさん」
「ん」
「逃げませんわね」
「逃げない」
恵は笑った。お嬢様の笑み。今日はそれでいい。
司会が進行を始める。挨拶、祝辞、乾杯。カメラのフラッシュが何度か走る。撮影は可。けど、好き放題じゃない。撮る場所も、撮る時間も決められている。
恵の母――九条家の当主の挨拶は短くて鋭かった。
「噂ではなく、事実としてお知らせします」
そう言って、俺と恵が前に出る。
会場の空気が一段静かになる。
恵がマイクを持った。声は落ち着いている。震えない。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
「本日をもって、九条家は——天城ハヤト様との婚約を内外に示します」
“示します”が九条家らしい。宣言だ。
俺の番が来る。俺は短く言う。
「私、天城隼人は、九条恵さんと婚約します。あわせて、御堂命さんとも婚約しています。
どちらも曖昧にしません。」
会場が一度、息をする。拍手が来る。黄色い声も混じる。でも、全部が管理された熱だ。
視線が刺さる瞬間もある。
そのたびに、俺は命の席を見る。
命は崩れていない。表情は読めない。でも、指先が膝の上で一度だけ動いて止まる。揺れてる。けど、降りない。
それでいい。
乾杯が終わって、立食が始まる。
挨拶に来る人間の数が多い。肩書きの匂いがする。俺は必要な返事だけ返す。恵はその横で、全部を受け止めて流していく。段取りの化け物だ。
合間に、俺は命のところへ行く。
命の周りは“空けられている”。自然に。誰も不用意に近づかない。御堂家の空気と、九条家の警備が重なってる。
命が俺を見る。
「……お疲れではありませんか」
「平気」
俺は席の近くで止まって言った。
「ここ、きついか」
命は一拍置いて答える。
「……きつい、というより」
「……多いです。目が」
「分かった」
俺は短く頷く。
「少しだけ、外へ行くか」
命が迷う。迷ってから、頷いた。
「……はい」
腕を組む。命はすぐ後ろ。距離は離れない。
廊下の静けさに出ると、命が息を吐いた。
「……助かります」
「うん」
それだけで、命の肩がほんの少し落ちた。
俺は言う。
「今日、ありがとう」
「……何が、ですか」
「席から降りなかった。ありがとう」
命は一拍置いて、目を伏せないまま答えた。
「……降りません」
「隼人さんが、先に言ってくださったので」
俺は頷く。
「これからも先に言う」
命のまつげが一度揺れた。
「……はい」
その「はい」が、いつもより柔らかい。
ホールに戻る。
今度は写真の時間が来る。主役の二人の写真。家同士の写真。席に関わる人間の写真。
恵が目で合図した。命を呼ぶ合図だ。外にしないための。
命が前に出る。
フラッシュが走る。視線が集まる。命は崩れない。御堂家の令嬢として、胸を張る。
俺は立つ位置を少しだけ調整した。
命が“外”に見えない位置に。
恵が小さく言う。
「……ありがとうございます、ハヤトさん」
「当たり前だ」
命が一拍置いて頷いた。
「……はい」
パーティが一段落して、控室の前の静かな廊下。
人が引いて、音が薄くなる。恵は背筋を伸ばしたまま、最後の指示を終えてスマホをしまった。
俺は恵の隣に立って、短く言う。
「恵。今日、すごかった」
「……当然ですわ」
返事は強い。けど、声がほんの少しだけ小さい。
俺は続けた。
「九条恵――お前ほどいい女と婚約できて、俺は幸せだ」
恵の指先が、ドレスの端で止まる。ほんの一瞬。息の間が変わる。
「……っ」
恵は言い返そうとして、言葉が出ない。珍しい。
俺は追い打ちしない。短く置く。
「助かった。誇れる」
恵が、ゆっくり息を吐いた。目を伏せる。いつもの“完璧なお嬢様”が、少しだけほどける。
「……ハヤト様」
「ん」
「ひとつ、言っておきますわ」
「笑わないでくださいませ」
「笑わない」
恵は一拍置いて、声を小さくした。
「わたくし……今みたいに」
「はっきり言われるのが……弱いんですの」
「弱い?」
「ええ褒められる、とか」
「名前を、きちんと呼ばれるとか」
「……恥ずかしいのに、嬉しいんです」
俺は頷く。
「分かった」
恵が顔を上げる。
「……分かった、だけ?」
「受け止める。恵が嫌じゃない範囲で、言う」
恵の息が、ふっとほどけた。
「……本当に、ずるいですわね」
照れ隠しみたいに、恵が言う。
「いい男ですわね」
「だろ」
恵が一瞬固まって、それから肩を落として笑った。
「……やっぱり、ずるいですわ」
夜が進んで、会は終わりに近づく。
最後の挨拶で、恵はきっちり締めた。
「本日はありがとうございました」
「九条家は、責任を持って整えます」
拍手。
人が引いていく。ホールの音が薄くなる。
俺は命の方へ行く。今なら腕を組める場所がある。人の目が薄い廊下の角。
命が俺の隣に来る。
腕を組む。今日も離れない。
命が小さく言う。
「……終わりましたね」
「終わった」
短く返すと、命はほんの少しだけ口元を緩めた。
「……おめでとうございます、隼人さん」
「ありがとう」
俺は言う。
「恵に会ってくる。今日は帰らない」
そう言うと命は理解してくれたようだ。
少し先で、恵がスタッフに囲まれていた。最後の確認を飛ばしてる。完璧な顔のまま、疲れを見せない。
俺が近づくと、恵はすぐ気づいた。
「ハヤト様」
「少し、時間あるか」
恵の目が一瞬だけ揺れる。嬉しい方だ。
「……ええ。今なら」
俺は命を見る。
「俺、行ってくる」
命は一拍置いて、はっきり頷いた。
「……行ってらっしゃいませ」
俺は恵に向き直る。
「今夜は、恵の時間にする」
「ちゃんと受け止める」
恵が、静かに息を吐いた。
「……はい」
俺は短く続けた。
「今日恵を抱く」