朝のニュースの音が、別邸のリビングに流れていた。
いつもなら静かな時間だ。湯が沸く音と、食器が触れる小さな音だけ。
今日は違う。
テレビの画面に、昨夜のホテルが映っている。ホールの照明。花。整えられた席。フラッシュ。――そして、俺。
『九条家は昨夜、天城隼人氏と九条恵氏の婚約を正式に発表しました』
淡々とした声が、逆に刺さる。
映像は公式のものだ。角度が綺麗で、余計なものが映らない。拍手も、フラッシュも、必要な分だけ。
『また同時に、御堂家も声明を発表。御堂命氏との婚約についても、家として正式に認めたことが明らかになりました』
テロップが出る。硬い文章の抜粋だ。言い訳がない。整っている。
『専門家は「この社会でも、名家が複数の婚約を同時に公式化するのは非常に珍しい」としています』
その一言で、空気の重さが変わった。
命が隣で画面を見ている。表情は読みにくい。けど、湯飲みの縁に置いた指先が、一度だけきゅっと力を入れて、すぐ離した。
次に、俺の言葉が字幕で出る。
『私、天城隼人は、九条恵さんと婚約します。あわせて、御堂命さんとも婚約しています。どちらも曖昧にしません』
自分の声がスピーカーから出ると、少しだけ現実味が増す。
命が小さく息を吐いた。
「……ニュースで見ると」
「……本当に、外に出たんだって分かります」
「そうだな」
短く返す。
「……世間にも、私の立場が出たんですね」
「出た」
俺は即答した。
ニュースは続く。
『九条家は広報を通じ、会場での公式映像と写真を提供。発表内容の誤解や憶測が広がらないよう配慮した形です』
画面の端に、短い動画が流れる。恵が微笑んで、俺が横に立つ。俺の視線が一度だけ、別の席へ向く。――命の席へ。
そこまでが、公開できる範囲だ。
命はその一瞬を見逃さなかったみたいで、わずかに息を吐いた。
「……世間にも、私の立場が出たんですね」
「出たな」
命の指先が、俺の袖を小さく掴む。腕を組む前の、確認みたいな触れ方。
「……はい」
母さんが廊下から顔を出した。髪はまだ整え切ってないのに、声はいつも通りだ。わね、よ、が混じる。
「二人とも、見ちゃったのね」
「朝から大変よね」
「大変」
俺が言うと、母さんは苦笑して、でも目は少し潤んでいる。
「でもね、よかったわ」
「曖昧じゃないって、こういうことだもの」
命が丁寧に頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらないわよ」
「さ、学校。行ける?」
俺は湯飲みを置いた。
「行く」
命も一拍置いて、頷く。
「……はい。行きます」
その返事は、崩れない。だけど、今朝は少しだけ強い。
テレビの音を背にして、俺は立ち上がった。
外が騒ぐのは、分かってる。
でも、席はもう置いた。
崩れない方へ、進むだけだ。
命の肩が、ほんの少しだけ落ちた。落ち着いた合図だ。
テレビの音が続いている。SNSの反応、識者っぽいコメント、ホテルの外観。全部、遠い。
俺はリモコンで音を切った。
静かになる。
命が湯飲みを置いて、俺の方を見る。表情は読みにくい。けど、目が迷ってない。
「……隼人さん」
「ん」
「今日から」
「……腕を、組みます」
言い切りだった。命が自分から言い切るのは、そう多くない。
俺は一拍置いて、頷いた。
「分かった」
命は、小さく息を吐く。
「……昨日まで」
「外の目を、怖がっていました」
「でも……もう、隠す理由がありません」
言葉は丁寧なのに、芯が強い。吹っ切れた声だ。
母さんが廊下から顔を出す。
「命ちゃん、いいわね」
「ね、ハヤト。腕組んで行きなさいよ。堂々と、ね」
命が一拍置いて頭を下げる。
「……はい」
俺は立ち上がって、荷物を手に取った。
「行くか」
「……はい」
門を出ると、10月の朝の空気が冷えていた。駅までの道はいつも通り。家の敷地を抜けて、住宅街の角を曲がる。
命が、俺の隣に並ぶ。
そして、俺の腕を組んだ。
迷いがない。
俺は一拍置いて、横を見る。
「……大丈夫か」
命は頷く。
「……大丈夫です」
腕の重さは軽い。けど、意味は重い。
駅までの道はいつもと同じはずなのに、今日は違って見えた。視線が増えてる。音も増えてる。俺たちに気づいた瞬間、空気が少しだけ変わる。
命はほどかない。
俺の腕に腕を絡めたまま、歩幅を揃えてくる。背筋が伸びていて、顔は相変わらず読みにくい。けど、迷いがない。
改札へ向かう途中、制服の集団がすれ違った。小声が混ざる。
「……今朝のニュースの……」
「え、腕組んでる……」
命の呼吸が一瞬だけ深くなる。指先が俺の袖を押さえて、すぐ離した。崩れない。
俺は前を見たまま、短く言う。
「見てくるのは、止められない」
「……はい」
「でも、私が引く必要はありません」
命の声は小さいのに、言い切っていた。
駅に着く。人が流れて、ホームへ降りる階段の音が続く。電車が入ってくる前の、あのざわつき。
ホームの端に立つ。命は腕を組んだまま、つり革の位置も考えているみたいに立ち位置を微調整した。段取りの癖だ。
「……混みますね」
「毎朝だ」
「……今日は、いつもより」
命は言い切らない。けど、分かる。視線の話だ。
「でもハヤトさんがいるので大丈夫だと思います」
命はそうこぼす
電車が来る。風が抜けて、ブレーキの音。扉が開く。
俺は命の歩幅に合わせて乗る。押さない。引かない。ただ、並んで入る。
車内は混んでいた。肩が当たりそうな距離が当たり前になる。だから、腕を組んでいても不自然じゃない。むしろ、自然に見える。
でも命は、自然に見せるためじゃない。
命は俺の腕をほどかない。視線が来ても、微動だにしない。
数駅。揺れ。アナウンス。車輪の音。途中で乗ってきた人が、俺たちを見て小さく固まる。
「……あの、天城……」
「九条家の……」
「御堂命……」
言葉は途中で切れて、飲み込まれる。周りも空気を読んでる。大々的に出した分、触れていい線引きも見えてる。
命は、息を吐いた。
「……変な感じです」
「慣れる」
俺が短く言うと、命は少しだけ口元を緩めた。ほんの一瞬。
「……はい」
最寄り駅。人が一斉に動く。
降りる流れに乗って、俺たちはホームに出た。ここから学校までの道が、いちばん見られる。隠れようがない。
命が、腕に少しだけ力を入れる。
俺は横を見る。
「平気か」
命は頷いた。
「……平気です」
「今日から、引きません」
「分かった」
改札を抜ける。朝の光が強い。校門へ向かう道に、もう生徒が溜まっている。ざわつきが目に見える。
その中で、日和とレンが待っていた。校門前。いつもより少し早い時間。
日和が俺たちを見るなり、目を見開いて、それから笑った。
「おはよ! ……うわ、腕ミコト、今日つよいね!」
レンは少し遅れて、控えめに言う。
「……おはよう、命さん、ハヤトもおはよう」
命は丁寧に返した。腕はほどかないまま。
「……おはようございます。日和さん、レンさん」
日和は俺たちの真似をするみたいにレンの方へ回り込んだ。
「……じゃ、私も」
レンの腕に、遠慮なく腕を絡める。勢いがあるのに、躊躇がない。日和らしい。
レンが一瞬だけ固まって、目を瞬いた。
「……日和さん」
「日和でいいって!ね、レン。毎日これで行こ」
声が少し大きい。テンションが上がってる。
レンは困ったみたいに視線を泳がせて、それから小さく息を吐いた。
「……うん」
「……僕も、その方が落ち着く」
「でしょ!」
日和が満足そうに笑う。
「じゃ、決まり!」
命が一拍置いて、日和を見る。
「……素敵だと思います」
日和が得意げに胸を張る。
「えへへ!」
俺は短く言う。
「行くぞ」
「はーい!」
四人で校門をくぐる。
視線が刺さる。小声が走る。スマホが一瞬上がりかけて、周りの空気で下がる。
命は、ほどかない。
俺の隣で、背筋を伸ばしたまま歩く。
腕を組んだまま。
それが、命の答えだった。