昼休み。
午前中のざわつきは、もうだいぶ薄れていた。視線はまだある。でも、いちいち反応してたら授業にならない──みんな、そこに戻っていく。
俺と命は屋上へ向かった。腕は組んだまま。階段を上がる足音が、いつもより少しだけ大きく聞こえる。
屋上の扉を開けると、風が抜けた。日差しは暖かいのに、空気はちゃんと秋だ。
「こっちこっち!」
日和が手を振る。レンはその隣で、静かに座っていた。恵もいる。いつも通り、背筋が綺麗に伸びてる。
俺は短く言う。
「レン、日和、恵」
「ハヤトさん、こちらです」
恵が上品に言う。
命が丁寧に会釈した。
「……お邪魔いたします」
「お邪魔じゃないよ!」
日和が笑って、レンの腕に当たり前みたいに絡む。
「ね、レン」
「……うん」
レンは少しだけ目を伏せて、でも逃げずに頷いた。
俺と命も座る。自然に隣。腕はほどいて、弁当を広げる。
ふと、恵と目が合った。
恵が──一瞬だけ固まって、顔を赤くした。
珍しい。ほんとに。
昨日の夜が頭をよぎる。パーティのあと、少しだけ時間を作って、俺は恵をちゃんと受け止めた。言葉も、距離も。
だから、今の赤面は分かりやすい。
恵は視線をそらして、咳払いみたいに口元を押さえる。
「……お弁当、良い香りですわね」
誤魔化し方まで綺麗だ。
日和がニヤニヤする。
「恵、なんか今日かわいくない?」
「顔、赤いよ?」
「……日和」
恵は上品に圧を乗せる。
「食事中ですわ」
「はいはい~」
命は何も言わない。箸は止まらない。
恵のことは、もう身内だ。
だから崩れない。
俺は恵の方を見ないまま、短く言った。
「食べろ」
「……はい」
恵の返事が、小さくなる。いつもより。
レンが控えめに言う。
「……今日は、静かだね」
「学校も……戻ってきた」
日和が頷いた。
「朝がピークだったねー」
「でもさ、屋上は平和。最高」
命が丁寧に言う。
「……平和なのは、大切です」
「落ち着いて食べられるだけで……助かります」
「そうだな」
俺が短く返すと、命は一拍置いて頷く。
「……はい」
恵が箸を整えてから、俺の方を見た。目が合いそうで、合わないギリギリ。
「ハヤトさん」
「……午後も、無理はなさらないでくださいませ」
「無理しない」
「……ええ」
また、少しだけ赤い。
日和が肩を揺らして笑う。
「いやもう、今日の恵、わかりやすすぎだよ~」
「レン、見て! 恵、ちゃんと人間してる!」
「……日和」
レンが小さくたしなめる。
「……言い方」
「ごめんごめん」
風が吹く。弁当の包みが少しめくれる。日常の音が戻ってくる。
俺は弁当を食べながら思う。
外が騒いでも、昼は腹が減る。授業は進む。昼休みは来る。
その中で、恵が赤くなって、日和が笑って、レンが静かに頷いて、命が隣で崩れない。
戻ってきた。
ちゃんと、日常に。
日和がレンの腕に絡んだまま、唐揚げを一つ取る。
「これうまっ」
「……よかった」
レンは小さく言って、落ち着いた顔でお茶を飲む。
恵はまだ少しだけ顔が赤い。俺と目が合いそうになるたび、視線をずらすのが分かりやすい。
命は、いつも通りだ。崩れない。箸の動きも一定。そこに“余計なもの”を持ち込まない。
だからこそ、次の一言が刺さった。
命が、箸を置いて言う。
「……恵さん」
「はい、命さん」
「うちに引っ越しませんか」
一瞬、屋上の風の音だけになる。
俺は命を見る。
「……引っ越しって、うちに?」
命は頷く。表情は読みにくいのに、迷いはない。
恵が固まって、目を瞬いた。
「……引っ越し、ですの?」
「はい」
命は丁寧に続ける。
「同じ家の中のほうが、予定も安全も整います」
「……外が騒ぐ時ほど、内側を乱したくありません」
言い方が命らしい。冷静で、段取りの言葉なのに──ちゃんと“迎える”になってる。
俺は恵を見る。
「……驚くよな。恵、無理はするな」
恵は一拍置いて、小さく息を吐いた。
「……驚きましたわ」
「でも……提案としては、合理的です」
恵は強がらない。珍しく、ちゃんと“考える顔”になる。
「ただ」
「九条家としては、簡単に決められる話でもありませんの」
「私個人の気持ちだけで動くと……家の顔が立ちません」
命が頷く。
「……承知しています」
「ですので、無理強いはしません」
「恵さんが“良い”と思ったら、で」
俺は短く言う。
「決めるのは恵だ」
「……はい」
恵は箸を置いて、膝の上で指を組んだ。いつもの“お嬢様の圧”じゃない。素の悩み方だ。
「もし、私が引っ越したら」
「命さんと、どういう距離で暮らすのか」
「ハヤトさんと、どう整えるのか」
「……そこを、曖昧にしたくありませんの」
命が、即答しない。珍しい。ちゃんと相手の言葉を待ってから言う。
「……距離は」
命は一拍置いて、恵をまっすぐ見た。
「“こうします”じゃなくて、恵さんと一緒に決めたいです」
「生活も、ルールも」
「誰かだけが我慢する形にはしません」
「寝室も……同じにしましょう。隼人さんと、私と、恵さんで」
「それと——お付きの方も一緒に」
「近くに部屋を用意して、普段通り動けるようにします」
俺も短く足す。
「嫌なことは、しない」
恵は目を伏せて、少しだけ笑った。
「……そういう所ですわ」
「安心するのに、照れますわ」
日和がニヤニヤする。
「恵、今の言い方かわいい」
「日和」
恵は上品に圧を乗せる。
「食事中ですわ」
「はーい」
レンが小さく咳払いして、場を落ち着かせる。
恵は、もう一度だけ考えてから顔を上げた。
「……分かりましたわ」
「前向きに、受けます」
「ただし──母に確認いたします」
「当然だ」
俺が言うと、恵は頷いた。
「ええ」
恵はスマホを取り出して、指先を迷わせない。画面に打つ文字が早い。
恵はスマホを伏せて、息を吐いた。
「……返答は早いと思います」
「母は、こういう話は即決ですの」
命が静かに頷く。
「……ありがとうございます」
恵は少しだけ顔を赤くして、でも逃げない。
「……命さん、迎えてくださるなら九条家として、正式な手順で入りますわ」
俺は短く言う。
「それでいい」
恵のスマホが震えた。
恵が画面を見て、一拍置いてから言う。
「……来ましたわ」
屋上の風が、また少し強く吹いた。
日常の中に、次の段取りが入ってくる。
でも──誰も、もう揺れない。
整えるだけだ。