恵視点
土曜日の朝。
私は支度を整えてから、ふと思い出したようにスマホを手に取りました。昨夜、送ったままにしていた確認――母上への連絡。
画面を開く
そこに返ってきていたのは、短い一文でした。
『好きになさい』
息が、すっと落ち着く。
許可、ではありません。命令でもない。
“あなたが決めなさい”という、九条家の背中の押し方。
私は指先で画面を一度だけ押さえてから、短く返しました。
『承知いたしました。失礼のない形で進めます』
送信。
それで、もう迷う理由がなくなりました。
御堂家の別邸へ向かう車の中。
窓の外は明るく、空は高い。引っ越しに向いた天気です。こういう日は、段取りも崩れにくい。
同乗しているお付きの者が、膝の上の書類を静かに確認していました。私の生活は、私ひとりで完結しません。だから、今日もいつも通り一緒に動きます。
「荷物は予定通り三便でございます」
「先に必需品、次に衣類、最後に細かな私物です」
「ええ。問題ありませんわ」
「到着したら、まず寝室から整えましょう」
言い切ると、胸の中が少しだけ整った気がしました。
別邸の門をくぐると、すでに業者の方が揃っていました。御堂家側の使用人の方々も、動きが揃っている。静かで早い。
迎えに出ていた命さんが、丁寧に頭を下げました。
「……おはようございます、恵さん」
「本日は、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「ご迷惑はおかけしませんわ」
命さんは一拍置いて頷きます。
「……迷惑ではありません」
「来てくださるなら、整います」
相変わらず、言葉が少ないのに、ちゃんと“歓迎”になっている。私は小さく笑いました。
「光栄ですわ」
引っ越し作業は、淡々と進みました。
段ボールには綺麗にラベルが貼られ、通路は塞がれない。どこに何を置くか、迷いがない。こういうところは、御堂家の“整った家”がよく出る。
私は指示を飛ばしすぎないようにしました。任せられるところは任せる。その方が早いし、綺麗に終わる。
寝室に運び込まれる荷物を見ながら、私は一度だけ深く呼吸しました。
――ここも、同じ。
そう決めたのは私です。
だから、今さら揺れません。揺れる余白を残さない。
お付きの者が、私の横で静かに言います。
「こちらが、私の部屋でございますね」
「恵様のお部屋の近くに。すぐ動けます」
「ええ。お願いね」
「はい」
いつも通りの距離。いつも通りの安心。
夕方。
最後の段ボールが片づき、床が見えた瞬間、部屋の空気が変わりました。
“作業の場所”から、“生活の場所”へ。
命さんが廊下から顔を出して、静かに確認します。
「……終わりましたか」
「ええ」
「問題ございませんわ」
命さんは小さく頷きました。
「……よかったです」
その一言が、十分でした。
夜。
廊下の先に、ハヤトさんが立っていました。いつも通りの立ち方。余計な飾りがない。だから、私の背筋も自然に伸びる。
「終わったか」
「ええ」
「お付きの者も、問題なく入れました」
「分かった」
私は寝室の扉の前で一拍置き、朝のメッセージを思い出して言いました。
「母上から、返事が来ましたの」
「『好きになさい』と」
「……良かったな」
短いのに、ちゃんと受け止めてくれる声。
私は小さく頷き、扉に手をかけました。
「では今日から――新生活ですわ」
「始めよう」
扉の向こうへ、一歩。
部屋は整っていた。余計な飾りはないのに、空気が崩れていない。御堂家らしい。私の荷物が入った分だけ、少しだけ色が変わった。
寝室の扉を開けた瞬間、空気が少し違うのが分かった。
以前は畳だったと聞いている。けれど、今は違う。足裏に返ってくる感触が、硬くて静かだ。木の床。新しい匂いが、薄く残っている。
――張り替えてくれたのだ。
私が「畳のままだと、お互い気を遣いますわ」と言ったのを、命さんは一言も否定せずに受け止めて、段取りに落とした。
そして、部屋の中央。
ベッドは、想像より大きかった。
ワイドキング。
私が希望したサイズだ。
同じ寝室にするなら、三人で無理なく眠れる大きさが必要でした。
私は一拍置いて、指先でシーツの端を整えた。
「……ありがとうございます」
誰に、というより。ここまで整えた“内側”に。
ハヤトさんが、私の横で短く言う。
「希望どおりだ」
私は頷く。胸の奥が、静かに落ち着いていく。
「ええ。これなら――当たり前に暮らせますわ」
私はそこで、わざと呼吸を整えた。崩れません。今日は休日ですし、ここは“内側”です。
お付きの者が、荷解きの最後の確認を終えて、静かに一礼した。
「恵様。必要な物は、すぐ手が届く位置に整えました」
「このあと、私は隣の部屋におります。お呼びでしたら」
「ええ。ありがとう」
「今日は、もう休みなさい」
「はい」
扉が閉まる音が小さく響き、部屋に二人きりの空気が落ちた。
ハヤトさんは、いつも通りの顔で部屋を見回してから、私を見る。
「無理してないか」
私は首を横に振った。
「無理はしていません」
「……少しだけ、慣れていないだけですわ」
「そうか」
短い返事。けれど、置き去りにしない。
私は視線を落とし、ベッドの端に置いたスマホを見る。朝のメッセージが頭の中に残っている。
『好きになさい』
母上は、こういう時に長文を送らない。私が迷わないように、余計な言葉を削る人です。
だから私は、迷わない。
私はハヤトさんに向き直った。
「確認しておきたいことがありますの」
「なんだ」
私は指を一本立てた。
「ひとつ」
「ここでの生活は、“誰かが我慢して成り立つ形”にしたくありません」
ハヤトさんは頷く。
「同意だ」
「ふたつ」
「私のお付きの者は、今まで通り動かします」
「勝手が変わると、余計に疲れますもの」
「分かった」
「みっつ」
私はそこで一拍置いた。
「……寝室を同じにする、という提案をされた時、正直驚きました」
「でも、私もそれを受けます」
「私の事もちゃんと相手にしてください」
言った瞬間、自分の声が少しだけ熱を帯びたのが分かった。けれど、引かない。
ハヤトさんは視線を逸らさない。
「もちろんだ」
それだけで十分だった。
私は息を吐いた。
「……では」
「今日から、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
余計な飾りはない。でも、置き去りにしない言い方だった。
私はベッドの端に腰を下ろし、スカートの皺を整えた。癖で整えてしまう。
すると、ハヤトさんが近づいてきて、私の前にしゃがんだ。
私の視線と、同じ高さになる。
「恵」
呼ばれただけで、胸が少しだけ跳ねた。私は平静を保つ。
「……はい」
「今日、よく決めた」
それは、褒め言葉。はっきりした褒め方。私は思わず視線を逸らしそうになって、踏みとどまった。
「……ありがとうございます」
私は立ち上がって、ハヤトさんの横に並んだ。距離が近いのが当たり前になっていく。
「では」
「明日からの段取りも、整えます」
「通学の時間、朝食の時間、家でのルール」
「任せる?」
ハヤトさんの問いは、投げっぱなしじゃない。確認だ。
私は首を横に振った。
「いいえ」
「一緒に決めますわ」
「そうしよう」
その返事が、もう“家”だった。
窓の外は暗い。休日の夜。
でも明日からは日常が来る。学校がある。視線もある。噂もある。
それでも。
私はもう、迷わない。
この部屋で、この家で、この人たちと。
新生活は、静かに始まっていた。