※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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139話 恵の引っ越し

恵視点

 

 

 

 土曜日の朝。

 

 私は支度を整えてから、ふと思い出したようにスマホを手に取りました。昨夜、送ったままにしていた確認――母上への連絡。

 

 画面を開く

 

 そこに返ってきていたのは、短い一文でした。

 

『好きになさい』

 

 息が、すっと落ち着く。

 

 許可、ではありません。命令でもない。

 “あなたが決めなさい”という、九条家の背中の押し方。

 

 私は指先で画面を一度だけ押さえてから、短く返しました。

 

『承知いたしました。失礼のない形で進めます』

 

 送信。

 

 それで、もう迷う理由がなくなりました。

 

 御堂家の別邸へ向かう車の中。

 

 窓の外は明るく、空は高い。引っ越しに向いた天気です。こういう日は、段取りも崩れにくい。

 

 同乗しているお付きの者が、膝の上の書類を静かに確認していました。私の生活は、私ひとりで完結しません。だから、今日もいつも通り一緒に動きます。

 

「荷物は予定通り三便でございます」

「先に必需品、次に衣類、最後に細かな私物です」

 

「ええ。問題ありませんわ」

「到着したら、まず寝室から整えましょう」

 

 言い切ると、胸の中が少しだけ整った気がしました。

 

 別邸の門をくぐると、すでに業者の方が揃っていました。御堂家側の使用人の方々も、動きが揃っている。静かで早い。

 

 迎えに出ていた命さんが、丁寧に頭を下げました。

 

「……おはようございます、恵さん」

「本日は、よろしくお願いいたします」

 

「こちらこそ」

「ご迷惑はおかけしませんわ」

 

 命さんは一拍置いて頷きます。

 

「……迷惑ではありません」

「来てくださるなら、整います」

 

 相変わらず、言葉が少ないのに、ちゃんと“歓迎”になっている。私は小さく笑いました。

 

「光栄ですわ」

 

 引っ越し作業は、淡々と進みました。

 

 段ボールには綺麗にラベルが貼られ、通路は塞がれない。どこに何を置くか、迷いがない。こういうところは、御堂家の“整った家”がよく出る。

 

 私は指示を飛ばしすぎないようにしました。任せられるところは任せる。その方が早いし、綺麗に終わる。

 

 寝室に運び込まれる荷物を見ながら、私は一度だけ深く呼吸しました。

 

 ――ここも、同じ。

 

 そう決めたのは私です。

 だから、今さら揺れません。揺れる余白を残さない。

 

 お付きの者が、私の横で静かに言います。

 

「こちらが、私の部屋でございますね」

「恵様のお部屋の近くに。すぐ動けます」

 

「ええ。お願いね」

 

「はい」

 

 いつも通りの距離。いつも通りの安心。

 

 夕方。

 

 最後の段ボールが片づき、床が見えた瞬間、部屋の空気が変わりました。

 “作業の場所”から、“生活の場所”へ。

 

 命さんが廊下から顔を出して、静かに確認します。

 

「……終わりましたか」

 

「ええ」

「問題ございませんわ」

 

 命さんは小さく頷きました。

 

「……よかったです」

 

 その一言が、十分でした。

 

 夜。

 

 廊下の先に、ハヤトさんが立っていました。いつも通りの立ち方。余計な飾りがない。だから、私の背筋も自然に伸びる。

 

「終わったか」

 

「ええ」

「お付きの者も、問題なく入れました」

 

「分かった」

 

 私は寝室の扉の前で一拍置き、朝のメッセージを思い出して言いました。

 

「母上から、返事が来ましたの」

「『好きになさい』と」

 

「……良かったな」

 

 短いのに、ちゃんと受け止めてくれる声。

 

 私は小さく頷き、扉に手をかけました。

 

「では今日から――新生活ですわ」

 

「始めよう」

 

 扉の向こうへ、一歩。

 

 部屋は整っていた。余計な飾りはないのに、空気が崩れていない。御堂家らしい。私の荷物が入った分だけ、少しだけ色が変わった。

 

 寝室の扉を開けた瞬間、空気が少し違うのが分かった。

 

 以前は畳だったと聞いている。けれど、今は違う。足裏に返ってくる感触が、硬くて静かだ。木の床。新しい匂いが、薄く残っている。

 

 ――張り替えてくれたのだ。

 

 私が「畳のままだと、お互い気を遣いますわ」と言ったのを、命さんは一言も否定せずに受け止めて、段取りに落とした。

 

 そして、部屋の中央。

 

 ベッドは、想像より大きかった。

 

 ワイドキング。

 

 私が希望したサイズだ。

 同じ寝室にするなら、三人で無理なく眠れる大きさが必要でした。

 

 私は一拍置いて、指先でシーツの端を整えた。

 

「……ありがとうございます」

 

 誰に、というより。ここまで整えた“内側”に。

 

 ハヤトさんが、私の横で短く言う。

 

「希望どおりだ」

 

 私は頷く。胸の奥が、静かに落ち着いていく。

 

「ええ。これなら――当たり前に暮らせますわ」

 

 私はそこで、わざと呼吸を整えた。崩れません。今日は休日ですし、ここは“内側”です。

 

 お付きの者が、荷解きの最後の確認を終えて、静かに一礼した。

 

「恵様。必要な物は、すぐ手が届く位置に整えました」

「このあと、私は隣の部屋におります。お呼びでしたら」

 

「ええ。ありがとう」

「今日は、もう休みなさい」

 

「はい」

 

 扉が閉まる音が小さく響き、部屋に二人きりの空気が落ちた。

 

 ハヤトさんは、いつも通りの顔で部屋を見回してから、私を見る。

 

「無理してないか」

 

 私は首を横に振った。

 

「無理はしていません」

「……少しだけ、慣れていないだけですわ」

 

「そうか」

 

 短い返事。けれど、置き去りにしない。

 

 私は視線を落とし、ベッドの端に置いたスマホを見る。朝のメッセージが頭の中に残っている。

 

『好きになさい』

 

 母上は、こういう時に長文を送らない。私が迷わないように、余計な言葉を削る人です。

 

 だから私は、迷わない。

 

 私はハヤトさんに向き直った。

 

「確認しておきたいことがありますの」

「なんだ」

 

 私は指を一本立てた。

 

「ひとつ」

「ここでの生活は、“誰かが我慢して成り立つ形”にしたくありません」

 

 ハヤトさんは頷く。

 

「同意だ」

 

「ふたつ」

「私のお付きの者は、今まで通り動かします」

「勝手が変わると、余計に疲れますもの」

 

「分かった」

 

「みっつ」

 

 私はそこで一拍置いた。

 

「……寝室を同じにする、という提案をされた時、正直驚きました」

「でも、私もそれを受けます」

「私の事もちゃんと相手にしてください」

 

 言った瞬間、自分の声が少しだけ熱を帯びたのが分かった。けれど、引かない。

 

 ハヤトさんは視線を逸らさない。

 

「もちろんだ」

 

 それだけで十分だった。

 

 私は息を吐いた。

 

「……では」

「今日から、よろしくお願いいたします」

 

「こちらこそ」

 

 余計な飾りはない。でも、置き去りにしない言い方だった。

 

 私はベッドの端に腰を下ろし、スカートの皺を整えた。癖で整えてしまう。

 

 すると、ハヤトさんが近づいてきて、私の前にしゃがんだ。

 

 私の視線と、同じ高さになる。

 

「恵」

 

 呼ばれただけで、胸が少しだけ跳ねた。私は平静を保つ。

 

「……はい」

「今日、よく決めた」

 

 それは、褒め言葉。はっきりした褒め方。私は思わず視線を逸らしそうになって、踏みとどまった。

 

「……ありがとうございます」

 

 私は立ち上がって、ハヤトさんの横に並んだ。距離が近いのが当たり前になっていく。

 

「では」

「明日からの段取りも、整えます」

「通学の時間、朝食の時間、家でのルール」

 

「任せる?」

 

 ハヤトさんの問いは、投げっぱなしじゃない。確認だ。

 

 私は首を横に振った。

 

「いいえ」

「一緒に決めますわ」

 

「そうしよう」

 

 その返事が、もう“家”だった。

 

 窓の外は暗い。休日の夜。

 でも明日からは日常が来る。学校がある。視線もある。噂もある。

 

 それでも。

 

 私はもう、迷わない。

 

 この部屋で、この家で、この人たちと。

 

 新生活は、静かに始まっていた。

 

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