引っ越しの最後の段ボールが消えて、家の中が静かになった。
音が戻る。時計の針。廊下の足音。食器が触れる小さな音。
命が台所で手を動かしている。段取りが早い。今日みたいな日は、なおさら崩れない。
恵はリビングの端で、持ってきた荷物の一覧を見直していた。お付きの人が一度だけ確認に来て、静かに頭を下げて戻っていく。距離も動きも、九条家の「いつも通り」だ。
「飯、食うか」
俺が言うと、二人とも同時に頷いた。
「……はい」
「ええ」
それだけで、十分だった。
食事は派手じゃない。けど、落ち着く。
命が味噌汁をよそって、恵に渡す。恵は一瞬だけ受け取り方に迷って、それから自然に「ありがとう」と言った。
命が小さく頷く。
身内、ってこういうことだ。
食後、命が湯飲みを置いて言う。
「……寝室、確認します」
「行く」
恵も一拍置いて立つ。
「……私も」
寝室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
畳じゃない。床は張り替えられていて、足裏に静かに返ってくる木の感触がある。新しい匂いが、まだ少し残っている。
部屋の真ん中に、ワイドキングのベッド。
デカい。笑うしかないサイズだ。
恵が一歩だけ入って、息を吐いた。
「……これなら、三人で当たり前に眠れますわね」
命が頷く。
「……はい」
俺はベッドを見て、短く言った。
「いい判断だ」
恵が一瞬だけ赤くなりかけて、すぐ整える。
「当然ですわ」
いつもの強さに戻ろうとしてる。その癖も、もう分かる。
命がカーテンを少しだけ整えて、照明の明るさを落とした。こういう時の命は無駄がない。落ち着く方へ持っていく。
恵が言う。
「お付きの者の部屋も、すぐ隣です」
「何かあれば、すぐ動けます」
「分かった」
俺は頷く。
「今日は、もう終わりでいい」
「疲れたなら言え。明日でいい話は、明日」
恵が一拍置いて、小さく笑った。
「……助かりますわ」
命も、いつもより少しだけ肩の力が抜けた気がした。
空気が落ち着いたところで、命が静かに言う。
「……お風呂、どうしますか」
俺は一拍置いて答えた。
「一緒に入るか」
恵が目を瞬いて、すぐに視線を外した。分かりやすい。
「……一緒、ですの?」
命は驚かない。いつも通り丁寧に頷く。
「……この家の浴室は広いです」
「今日みたいな日は、順番にすると余計に遅くなります」
恵が口元に指を当てたまま、少しだけ考える。
「合理的ではありますわね……」
俺が短く言う。
「無理ならやめる」
恵は一拍置いて、息を吐いた。
「……いえ」
「今日は……変に遠慮して、疲れる方が嫌ですわ」
「入ります」
命が小さく頷いた。
「……はい」
浴室は、確かに広かった。
湯気が天井に溜まって、静かな熱だけがある。外の騒がしさが、ここでは届かない。
命が棚から新しいタオルを出して、二人に渡す。動きが整ってる。
「……温度、少し高めにしてあります」
「冷えますので」
「助かる」
俺が言うと、命は一拍置いて頷いた。
「……はい」
恵が小さく咳払いをして、わざと平静な声を作る。
「……では」
「今日は、変に気を遣わない、で」
「そうだな」
俺はそれだけ返す。
余計なことは言わない。ここは“生活”だ。
湯に入ると、体の芯がほどけた。
命が先に肩まで沈んで、静かに息を吐く。恵も少し遅れて入ってきて、湯の温度に目を細めた。
「……あたたかい」
「温度、ちょうどいいですわね」
命が小さく頷く。
「……よかったです」
湯気の向こうで、恵の頬がまだ少し赤いのが分かる。さっきの赤面とは違う。温度のせいだ。
俺は壁にもたれて言った。
「今日は終わった」
「引っ越しも、無事だ」
恵が一拍置いて、静かに頷く。
「……ええ、“無事”って言葉が、いちばん合いますわ」
命も、同じ速度で頷いた。
「……はい、整いました」
その言い方が命らしくて、俺は少しだけ口元を緩めた。
「整ったなら、十分」
恵が俺を見て、すぐに視線を外す。
「……そういう言い方」
「ずるいですわね」
「そうか」
俺がいつも通り返すと、命が小さく息を吐いた。笑ったのに近い。
湯の音だけが続く。
日和の声も、掲示板も、ニュースもない。ここには湯気と、呼吸と、今日の終わりだけ。
恵が、少しだけ真面目な声になる。
「……明日から」
「学校は、また騒がしいでしょうね」
「どうだろうな」
俺が返答すると、命が続けた。
「……でも、家の中は揺れません」
恵が頷く。
「ええ、私ももう迷いません」
俺は短く言った。
「それでいい」
上がるタイミングは、自然に揃った。
浴室を出る前、命が一度だけ恵を見る。
「……恵さん」
「改めて。来てくださって、ありがとうございます」
恵は一拍置いて、まっすぐ返した。
「こちらこそ……よろしくお願いいたします」
命が頷く。
「……はい」
俺は二人を見て、最後に言う。
「さあ寝室に行くぞ」
「……はい」
「ええ」
風呂の熱が残ったまま、俺たちは部屋へ戻った。